坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4

坂本龍馬暗殺の黒幕説として、ここまで松平容保説と薩摩藩説、紀州藩士報復説を考えましたが、もうひとつの有力な説として、土佐藩説があります。

実は、最近のわたしは、この説にいちばん信憑性を感じています。


e0158128_13104610.jpg

一般的に言われる土佐藩黒幕説は、具体的な人物名でいえば参政の後藤象二郎ですね。

かつては龍馬の盟友・武市半平太率いる土佐勤王党弾圧した後藤でしたが、慶応2年(1866年)に長崎に出張して以来、龍馬と深く関わるようになり、次第に龍馬に感化されていきます。

そして慶応3年(1867年)、龍馬の発案とされる船中八策に基づいて大政奉還を土佐の藩論とし、将軍・徳川慶喜に上申して実現に至るのですが、この働きが藩主の父・山内容堂から高く評価され、大きく栄進します。

しかし、後藤はこれが龍馬の発案だとは明かしませんでした。

この一連の発案が龍馬であることを隠すために龍馬を亡き者にした・・・というのがこの説の推論ですが、であれば、そのことを知るすべての人物を殺さねばならず、動機としては無理があります。

それに、後藤象二郎という人物像の他のエピソードなどから見ても、そこまで器の小さな人物だったとも思えません。

龍馬の名を容堂に明かさなかったのも、明かす必要がなかったからではないでしょうか。

いくら坂本龍馬という名が天下に轟いていたとしても、土佐に帰れば下級藩士

藩主の耳に入れるべき人物ではなかったでしょうし、後藤にしてみれば、特にそれが普通の感覚だったんじゃないかと思います。

後藤自身としても、龍馬の能力は認めつつも、所詮は郷士といった見下した感情があったでしょうし、むしろ、自分が龍馬を使っているといった気分だったんじゃないでしょうか。

龍馬の手柄を横取りしたなんて意識は毛頭なかったと思います。


じゃあ、他にどのような動機があったか・・・。

この点で、ある方のブログを読んで目からウロコが落ちました(参照:しばやんの日々「坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2」)。


前稿でも紹介しましたが、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた「いろは丸事件」で、龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

なんか匂いませんか?

本来であれば、そのうちの約半分の船の損害金は、船のオーナーである大洲藩に支払われるべきでしたが、実際に支払われた形跡がないそうです。

その後、その7万両がどうなったのか・・・。

ここで登場するのが、のちに三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。


e0158128_13152853.jpg

龍馬の死によって求心力を失った海援隊は解散を余儀なくされ、その事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、やがては岩崎の立ち上げた九十九商会に繋がっていきますが、のちに岩崎は、明治政府が信用のなくなった藩札をすべて買い上げるという後藤からのインサイダー情報によって、10万両で藩札を安く買い漁ってボロ儲けします。

この資金の出どころが、いろは丸事件の賠償金だったんじゃないかと・・・。

岩崎は龍馬が暗殺された数ヶ月前、龍馬が長崎から上京していく船を見送った日の日記に、「余、不覚にも数更の涙を流す」と記しているそうです。

それほどの関係にありながら、岩崎は、龍馬が暗殺される少し前の10月28日から龍馬が殺されたあとの11月22日まで大阪に滞在していますが、その間、龍馬をまったく訪ねていません。

これは少し不自然な気がしますよね。

まるで何かを知っていたかのような・・・。


実際に後藤と岩崎が龍馬を亡き者にするために見廻組に指示したというのは考えづらいとしても、龍馬の居場所をリークした、ということは考えられなくもない気がします。

龍馬が近江屋に潜伏していた事実を知っていたのは、土佐藩士の一部だけだったといい、当然そのなかには、後藤が含まれています(もっとも、龍馬自身が不用心に出歩いていたため、近江屋潜伏の事実は知れ渡っていたとも言われますが)。

後藤は経済面においては公私混同も甚だしかったといい、岩崎も、かつて土佐藩の公金100両を使い込んで役職を罷免された前科があります。

ふたりとも、金に目がくらんでもおかしくない男だとは、ちょっと言い過ぎでしょうか。

でも、暗殺の動機としては、政治的なものや思想的なものより、よほど現実味があるように思うのですが・・・。


e0158128_13192830.jpg

土佐藩黒幕説には、他にも谷干城説があります。

谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物で、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、新選組の仕業と決めつけ、局長・近藤勇斬首に処したのも谷でした。

見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけで、のちに見廻組今井信郎が暗殺を自供したときも、売名行為だとしてこれを認めようとしませんでした。

谷は龍馬の暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われていますが、どうも、不自然な気がしないでもないです。

現在伝わる龍馬と慎太郎襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

谷たちが作った話なんじゃないかと・・・。


いずれにせよ、龍馬が潜伏していた近江屋は、土佐藩邸の目と鼻の先にあり、であれば、なぜ土佐藩邸に寝泊まりしなかったのかという疑問は拭いきれません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・というのは物語などに見る龍馬像ですが、実際には、そんなカッコイイ理由ではなく、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないでしょうか。

残念ながら、この時期の龍馬には、安全な場所などどこにもなかったような気がします。


e0158128_14540330.jpg

他にも、紀州藩説新選組説御陵衛士説や、なかには中岡慎太郎との心中説まで、様々な推論、邪論がありますが、結局はどれも決定的な論証はなく、推論の域をでません。

通常、推理小説などで犯人探しをする場合、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」といった着眼点で絞り込みますが、龍馬の場合、その条件に当てはまる人物がたくさんいるんですよね。

それが、これだけ多くの説を生むことになったと言えます。

後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬ですが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようです。


龍馬の語録にこんな言葉があります。


「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」


大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味ですね。

本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわりませんが、国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉だったのでしょう。

龍馬の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、この時期の龍馬は、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていたといえます。

その意味では、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれません。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-19 00:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3

今回は、紀州藩士報復説について考えます。

e0158128_14540330.jpg

坂本龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊の汽船いろは丸と、紀州藩大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件が発生しますが(いろは丸事件)、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。


e0158128_17411787.jpg

龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」の報復でした。

海援隊士・陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけます。

三浦は紀州藩の京都における周旋方(諸藩との外交交渉係)で、在京諸藩の幕府擁護論のリーダー的存在であり、「いろは丸事件」の談判では、紀州藩代表として龍馬と直接交渉した人物でした。

陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。


龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥陽之助ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた京都の油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。

しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。

そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に2名の死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。

世にいう「天満屋事件」です。


e0158128_17412244.jpg

この紀州藩士報復説は、もっともわかりやすい動機といえ、陸奥らが真っ先に疑ったのは当然だったかもしれません。

しかし、この説に関しては、それを裏付ける証拠はまったくなく、現在ではこの説を推す歴史家はあまりいません。

よくよく考えてみると、三浦が龍馬を殺して恨みを晴らしたという推論は、ちょっと短絡的すぎる気がしますね。

「いろは丸事件」の談判は、事故発生当初は海援隊と紀州藩汽船・明光丸の間で行われていましたが、途中から、龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎を引きずり出し、土佐藩vs紀州藩政治的な談判に持ち込みました。

そしてその談判に紀州藩は全面敗訴したわけで、その賠償金も支払ったあとでした。

もし、ここで三浦が龍馬を殺したとなれば、藩間の政治問題に発展します。

そんなリスクを負ってまで恨みを晴らすなど、あまりにも稚拙な行動といっていいでしょう。

藩の外交を任されるほどの人物だった三浦が、そんな軽挙に至ったとは考えづらいですね。

もし、龍馬を殺すなら、談判の最中だったんじゃないでしょうか?

談判が終わり、賠償金も支払ったあとに龍馬を殺しても、紀州藩は何の得も得られません。

動機としては単純明快でわかりやすい紀州藩士報復説ですが、信憑性は薄いですね。


維新後、三浦は諱であるを名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代東京府知事を務めたあと、明治43年(1910年)、81歳まで長寿します。

それだけ明治政府に貢献しながら、後世に、坂本龍馬を殺した(かもしれない)人物として名が知られているのは、少々気の毒な気がしますね。

次回に続きます。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-18 09:28 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

前稿の続きです。

次に、こちらも歴史ファンから根強く支持されているのが、薩摩藩黒幕説です。

坂本龍馬と親交の深かった薩摩藩ですが、慶応3年(1867年)に入ると、その関係は微妙になってきます。

龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は次第に目障りな存在になりつつあり、革命成就後の薩摩閥の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論です。


e0158128_15131310.jpg

以前はわたしもこの説に最も信憑性を感じていたのですが、ただ、よくよく考えてみると、やはり腑に落ちない点が浮かび上がります。

というのも、果たして薩摩が龍馬をそれほど重要視していただろうか?・・・と思うんですね。

薩摩藩といえば、幕府に次ぐ勢力を持つ大藩であり、その中心的指導者だった西郷隆盛は、幕末の動乱の初期段階から活動していた名士でした。

一方の龍馬は、最近にわかに名前が売れてきた程度の人物で、西郷にしてみれば、薩長同盟の仲介人といった程度の認識でしかなかったんじゃないかと思います。

その薩長同盟も、後世の小説などでは龍馬と中岡慎太郎が成立させたように描かれますが、これも見方を変えれば、薩長が手を結ぶために双方に親交があった龍馬たちを利用したともとれますし、たぶん、そんな側面もなきにしもあらずだったんじゃないでしょうか。

実際、西郷が国元にいた大久保利通に宛てた書状のなかに「坂本某という脱藩浪士を便利に使っている」といったニュアンスのことが書かれています。

西郷にとって龍馬は、それほど重要な存在ではなかったと思うんですね。


e0158128_14540330.jpg

慶応3年(1867年)に入ってからの龍馬の新国家の構想は、薩長を中心とした雄藩に徳川家も加えた連合政権だったといわれ、大政奉還から暗殺されるまでの約1ヵ月間の龍馬の政治活動は、主にその構想を実現するための周旋活動だったといいます。

この動きは、たしかに薩摩にとっては少々目障りだったかもしれませんが、とはいえ、時流は薩長にありましたから、龍馬ごときを殺そうが殺すまいが、結局は薩長主導のもとに戊辰戦争は起こっていたと思います。

むしろ、どっち付かずの土佐藩を討幕勢力に引き入れるためにも、薩長にとって龍馬はまだまだ利用価値があったといえます。

どう考えても、この時点で薩摩が龍馬を殺すことは、ハイリスクローリターンだと思うんですね。

e0158128_15131733.jpg

ただ、もし薩摩藩黒幕説が事実だとすれば、その中心人物はやはり西郷隆盛だったと思います。

一部には、龍馬とはあまり接点がなかった大久保利通が、西郷の了承なしで暗殺を指示したとの説がありますが、少なくともこれはあり得ないでしょう。

この時期、大久保は主に朝廷への工作を担っており、他藩士との外交の中心は、西郷でした。

「敬天愛人」の体現者としてのイメージが強い西郷ですが、この時期の西郷は、幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊偽官軍として処断するなど、道義に反する行いを数多く断行しており、マキャベリストとしての顔が目立ちます。

一方の大久保は、冷徹な鉄仮面というだけで、そういう面は見られません(一説には、岩倉具視とともに孝明天皇毒殺したなんて話もありますが、これも、裏付ける史料はなにもなく、俗説にすぎません)。

また、武力倒幕に最もこだわっていたのも西郷ですし、革命成就後の薩摩閥の地位確保のためという動機であれば、尚のこと西郷だと思います。

事実、維新後の明治政権におけるふたりを見てもわかるように、一貫して薩摩閥を重視した西郷に対して、大久保は薩摩人には珍しく藩閥に固執しない人物で、そのことが薩摩人からの大久保不人気の一因となり、やがては西南戦争につながっていきます。

そんな後年のふたりを比較してみても、脱藩浪士から土佐藩士に復帰した龍馬の政治活動を疎ましく思うとすれば、大久保より西郷だったのではないでしょうか。

いずれにせよ、最初の話に戻りますが、西郷にせよ大久保にせよ、殺さなければならないほど龍馬を重要視していたとは思えません。


龍馬が暗殺されたとき、西郷も大久保も、薩摩に帰国していました。

何のために帰っていたかというと、討幕のための出兵を要求するために帰っていたのです。

実は、薩摩藩はこの時期に至ってもなお藩内保守派の勢力が強く、決して一枚岩ではありませんでした(むしろ、西郷ら倒幕派のほうが少数派だったとも言われます)。

それら保守派を説得して出兵するための藩論をまとめるために帰国していました。

彼らにしてみれば、いかにして藩内の保守派を抑えるかが眼前の最大の課題であって、はっきりいって龍馬など眼中になかったと思います。

彼らの敵はむしろ薩摩藩内にあり、本当に暗殺したかったのは、藩内の政敵だったんじゃないでしょうか(その最大の政敵が国父の島津久光だったため、さすがに暗殺するわけにはいかなかったでしょうが)。

そんな背景から見ても、薩摩藩黒幕説というのは、よくよく考えてみると薄いように思えますね。

次回に続きます。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-17 00:08 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1

坂本龍馬150回目の命日を迎えた昨日の稿で、襲撃当日の記録を追いましたが、本稿では、その暗殺犯について改めて考えてみたいと思います。

当ブログでは7年前にも同じネタを起稿していますが(参照)、あれからわたしも色々と見聞きし、少し考えが変わっています。

まあ、もとより確信を得た説などないんですけどね。

e0158128_14432061.jpg

実行犯については、今では通説となっている京都見廻組の面々(佐々木只三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人)と見てほぼ間違いないんじゃないでしょうか?

彼らの供述に多少の矛盾点があることから、一部、見廻組説を否定する意見を耳にしますが、歴史研究家の方々のあいだでは、否定する人がほぼいない定説となっているかと思います。

問題は、誰が彼らに殺らせたか?・・・ですね。

実際、今井信郎渡辺篤(渡辺吉太郎と同一人物?)は、襲撃の理由を「上からの御指図」と供述しており、また、自分たちの斬った坂本という人物が、それほどの大人物だとは知らなかった、と後年に語っていることからみても、彼らは所詮、末端の実行犯に過ぎなかったでしょう(リーダー格の佐々木只三郎だけは龍馬を暗殺する政治的意図を知っていたかもしれませんが、佐々木は龍馬の死の2ヶ月後に戦死しており、死人に口なしです)。

e0158128_14471615.jpg

「上からの御指図」という供述を素直に解釈すれば、見廻組の上役である京都守護職、つまり会津藩主の松平容保になります。

事実、前年の寺田屋事件以降、幕府は龍馬を罪人として指名手配しており、見廻組も新選組も、龍馬を追っていました。

シンプルに考えれば、松平容保の命令という見方が正しいように思いますが、ただ、釈然としないのは、京都守護職からの指図であれば、正当な警察権の行使であり、暗殺する必要があったのか?・・・という疑問です。

殺さずに捕縛すればいいはずで、仮にやむを得ず殺してしまったとしても、新選組の池田屋事件のように、堂々と名乗りをあげれば良かったはず。

しかし、龍馬襲撃は紛れもなく暗殺でした。


e0158128_14540330.jpg

この疑問について、この時期は大政奉還後であり、京都守護職も見廻組も「公務」ではなかったとする意見もあります。

たしかに、この約1ヵ月前に将軍・徳川慶喜によって大政奉還が宣言されましたが、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の「王政復古の大号令」においてであり、薩長の新政権が誕生するのも、そのあとのことです。

龍馬が襲撃されたこの時期はまだ、政権は幕府にありました。

現代でも、衆議院を解散しても次の選挙で新しい内閣ができるまで、現状の暫定内閣が国の執行部ですからね。

現に、慶喜は政権を投げ出すと公言したものの、容保はじめ幕府役人の多くはこれに反対の意志を示しており、彼らにしてみれば、少なくとも鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦旗が掲げられるまでは、自分たちの行いは幕府という日本国政府「公務」だという認識だったと思います。

したがって、容保の命令であれば、「坂本を捕縛せよ。抵抗するならば斬り捨ててもよい。」となったんじゃないかと。


e0158128_14563379.jpg

歴史家の磯田道史氏は、佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させたと説かれています。

龍馬は、幕府若年寄永井尚志のもとへ、暗殺される前日まで連日のように通いつめており、その永井の寓居の向かい側に佐々木の下宿していた松林寺があり、龍馬の行動は逐一監視されていた、と。

磯田氏がMCをつとめる『英雄たちの選択』で力説しておられました。

なるほど、そう聞けば説得力がありますが、だとしても、なぜ暗殺しなければならなかったか、という疑問は拭えません。

こうした事件は穿った見方をせず、シンプルに考えたほうがいいとは思うのですが、闇夜に紛れた暗殺という事件の内容を思うと、やはり、腑に落ちない点が多いんですよね。

というわけで、次回、他説を考えます。







ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


# by sakanoueno-kumo | 2017-11-16 03:43 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の命日に思う。

坂本龍馬暗殺されたのは、慶応3年11月15日(1867年12月10日)。

つまり、今日が150回目の命日にあたります。

約1年前になりますが、京都国立博物館で行われていた「特別展覧会 没後150年 坂本龍馬」に行ってきました。

その後、今年に入って、長崎、東京、静岡で同じ展覧会が行われていたそうですね。

残念ながら展示品は撮影禁止のため紹介できませんが、130通余り残されている龍馬直筆の手紙や、愛用した北辰一刀流の目録など、なかなか見ごたえがありました。

龍馬の手紙は本にもなっているので、有名なものはこれまで何度も読んで知っていたのですが、やはり、実物で読むとさらに引き込まれましたね。

この日、午後1時から6時半過ぎまで、6時間近く展示品に見入っていました。


e0158128_14015807.jpg

龍馬が殺された150年前の今日は、朝からだったといいます。

前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていました。

そこに夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきます。

このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいました。

やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れますが、しばらく雑談を交わしたのち、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じると、岡本も峯吉と一緒に部屋をでました。

峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ20~30分

その間に事件は起きました。


e0158128_14085085.jpg

午後9時過ぎ、数人の武士が近江屋を訪れます。

入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と、名刺を差し出しました。

十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は特に怪しむことなく龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけます。

その物音を聞いた龍馬は、藤吉が客人とふざけていると思い、奥から「ほたえな!」大喝しました。

この声で、刺客たちは龍馬の所在を知ります。

そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかりました。

そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらいます。

龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けます。

続いての三の太刀は立ち上がりざまで受け止めるも、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれます。

脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れました。

慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受けて倒れます。

刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去りました。

この刺客たちの、ほとんど間髪を入れない技に、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も、完全に立ち向かうすきがありませんでした。


e0158128_14132507.jpg

龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねたといいます。

慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼んで医者を求めましたが、そのときは既に精根が尽きていました。

「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに呟くと、うつぶしたまま龍馬は絶命しました。

その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたといいます。

坂本龍馬、享年33歳。

奇しくもこの日、龍馬の33回目の誕生日でした。


e0158128_14151650.jpg

慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたといいますが、その後、容態は悪化し、17日に死去します。

中岡慎太郎、享年30歳。

現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれています。


e0158128_14233606.jpg

上の写真は展示会場を出たときに撮影したもの。

展示品に見入ってしまい、気がつけば外は夜になっていました。

下の写真は、展示会場で購入した没後150年の図録です。


e0158128_14233286.jpg

龍馬、慎太郎が凶刃に倒れてから今日で150年が経ちました。

ちなみに、不肖わたくし、今年50歳。

龍馬没後100年の年に生まれました。

わたしが生まれたときには、龍馬たちが殺されたときに既に生まれていた人が、まだたくさんこの世にいたんですね。

わたしの父は昭和5年(1930年)生まれ、わたしの母は昭和13年(1938年)生まれですが、龍馬たちと共に土佐勤王党に参加していた田中光顕という人物は、昭和14年(1939年)まで生きています。

田中光顕は慎太郎の陸援隊の幹部で、龍馬たちが襲撃されたとき、その現場に駆けつけて重傷の慎太郎から経緯を聞いた人です。

わたしの父や母が生まれた頃には、まだそんな人物が生きていたわけで、そう考えると、龍馬たちの時代って、そんなに昔ではないんですよね。


e0158128_14234047.jpg

上の写真は京都東山にある龍馬と慎太郎の墓所です。
毎年11月15日には、ここで坂本龍馬命日祭が行われていますが、
今年は150回忌の法要ですから、さぞかし盛大に行われるのでしょうね。


さて、次稿では、没後150年の節目ということで、改めて暗殺犯の諸説を考えてみたいと思います。






ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-15 00:06 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第45話「魔王のいけにえ」 ~松平信康自刃事件(前編)~

 諸説あって謎が多い徳川(松平)信康自刃事件ですが、ドラマでは長年通説となっていた『三河物語』の記述をベースに構成されていました。前回の徳川家康暗殺未遂事件のあとの信康と石川数正のやりとりを見ていて、何か違う解釈で描くのかなぁと思っていたのですが、違いましたね。まあ、ほとんどの物語では、『三河物語』の通説を採用していますから、やはり、それがいちばんドラマチックだということでしょう。わたしはそれでいいと思います。


 信康の正室・徳姫織田信長の娘で、ふたりの結婚は徳川と織田の同盟の証でした。『三河物語』によると、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に宛てて夫と姑の愚痴12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、信康と築山殿が武田家と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、織田家としては捨て置けません。


 信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。ドラマでは、岡崎城の信康と浜松城の家康の配置を入れ替える旨を信長に伝えるために家康が忠次を使者として送り込むという設定でしたが、このあたりは、『三河物語』を少しドラマのオリジナルにアレンジしたものでした。たしかに、こっちの方がより自然かもしれません。


 『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。忠次、何を血迷っていたのでしょうね。一方で、ドラマでの忠次は、信康の内通を家康の指示があってのことなのか、それとも信康独断の行いだったのかという二者択一誘導尋問に迫られ、家康に害が及ばぬため、やむなく信康を切り捨てたという描き方でした。このあたり、なかなか秀逸なアレンジだったんじゃないでしょうか。『三河物語』では、信康をかばわなかった忠次に対して家康は、「知らぬと言えばよかったものを」と嘆き、他の家臣たちからも憎まれたとされていますが、ドラマでの忠次も家康から叱責されていましたが、忠次は忠次なりに徳川家を守るための最善策をとった結果であり、一方的には責められません。通説を上手く料理した脚本でしたね。


 こうなった以上、信康の首を差し出すしかないと意見する忠次。憤る家康。そこに、家康の実母・於大の方が訪れ、信康を斬りなされと諭します。


「獣はお家のため我が子を殺めたりいたしませぬ。なれど武家とはそういうものです。お家を守るためには己自身、親兄弟も、いえ、子の命すら人柱として絶たねばならぬことがある。そのなかで生かされてきたのですから。そなただけが逃れたいというのは、それは通りません。それは通らぬのです。」


 母の言葉。みごとでしたね。最近の大河ドラマでは、こういった台詞がありませんでした。現代のヒューマニズムの観点からいえば、許されない考えだからでしょう。しかし、かつて我が国の武家の秩序では、肉親の命より大切なものがあったのです。それを正しく描くことが、非人道的なことだとはわたしは思いません。よくこの台詞を、しかも女性に吐かせてくれたと思います。今話のこのワンシーンだけで、わたしはこのドラマが巷で批判されているような酷い作品じゃなかったと言いたくなりました。最終回まであと数話。楽しみです。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


# by sakanoueno-kumo | 2017-11-13 01:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~

二条城本丸へは、二ノ丸御殿との間の内堀に架かる東橋を渡り、本丸櫓門(本丸東櫓門)から入ります。


e0158128_18105253.jpg

本丸櫓門は入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、寛永3年(1626年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、天明8年(1788年)に起きた天明の大火で唯一焼け残った遺構だそうで、国の重要文化財に指定されています。


e0158128_18145885.jpg

寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸の際、そのときの木橋2階橋だったそうで、天皇は二ノ丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれたといわれます。

その2階橋の一部は昭和5年(1930年)頃まで残っていたそうですが、その後、解体されたそうで、その部材は土蔵で保管されているそうです。


e0158128_18145325.jpg

木橋から北側の内堀を撮影。

前稿で紹介した鳴子門が見えます。


e0158128_18150289.jpg

こちらが南側の内堀。

前稿で紹介した桃山門が見えます。


e0158128_18170936.jpg

櫓門をくぐると、両側に櫓跡と思われる石垣があり、その向こうは枡形虎口になっています。


e0158128_18171355.jpg

枡形の奥には雁木があります。

これは往時のものではないような・・・。


e0158128_18184643.jpg

振り返って櫓門を見ます。

櫓の土塀には砲撃用の狭間が見えます。

この両側の石垣上にも櫓があったとすれば、防御は完璧

この門をくぐった時点で蜂の巣状態ですね。


e0158128_18203350.jpg

櫓門をあとにして、本丸庭園に向かいます。


e0158128_18204455.jpg

この庭園は明治29年(1896年)に明治天皇(第122代天皇)の指示によって造られたものだそうです。


e0158128_18222308.jpg

本丸御殿御常御殿です。


e0158128_18234203.jpg

現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893年)から翌年にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。


e0158128_18254779.jpg

創建当時の本丸御殿は、現存する二の丸御殿にほぼ匹敵する規模だったそうですが、天明の大火によって焼失してしまったそうです。

その後、本丸御殿は再建されませんでしたが、幕末に第15代将軍・徳川慶喜の住居として再建されました。

しかし、この御殿も明治14年(1881年)に撤去されました。


e0158128_18255210.jpg

こちらは、本丸御殿玄関です。

現在の本丸御殿は、玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間4棟からなります。


e0158128_18275189.jpg

そして、本丸西南にある天守台を登ります。

かつてはここに天守がありましたが、寛延3年(1750年)に落雷焼失して以来、再建されませんでした。


e0158128_18283817.jpg

天守台には手すり付きの階段が設置されており、簡単に登れます。


e0158128_18293796.jpg

石垣は「打込み接ぎ」です。


e0158128_18303038.jpg

天守台の上です。

石垣の高さは18m、広さは427㎡だそうです。

かつてここにあった天守は、寛永3年(1626年)に伏見城から移設されたと考えられています。

屋根は5重、内部は地上5階、地下1階の構造だったと伝わります。


e0158128_18340482.jpg

天守台から本丸御殿を望みます。


e0158128_18340991.jpg

こちらは天守台から北側に見える本丸西門西橋です。


e0158128_18341376.jpg

こちらは天守台西側に見える土蔵


e0158128_18341719.jpg

そしてこちらは、南側内堀です。


e0158128_18362443.jpg

徳川家康によって築城された当時の天守は、こことは違う場所(城の北西部分)にあったといわれ、『洛中洛外図屏風』望楼型の5重天守として描かれています。

その天守は、ここに家光が天守を築いたとき、淀城移築されたと言われます。


e0158128_18375387.jpg

天守台を降りて、本丸西側の西門から外に出ます。


e0158128_18384720.jpg

見事に残る打込み接ぎの石垣。


e0158128_18401230.jpg

西門も東門と同じく枡形虎口になっています。


e0158128_18410737.jpg

西門の橋から見た天守台。


e0158128_18425305.jpg

さて、4稿に渡って紹介してきた二条城ですが、これですべて回りました。

大政奉還から今年で150年、その他にも、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の会見など、時を超えて歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


e0158128_18443818.jpg

帰りに二条城を次代へ保存・継承していくための募金「二条城一口城主募金」をしたところ、缶バッジクリアファイルなどの記念品をいただきました。

今日からわたしも二条城の城主です(笑)。







ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-11 00:31 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 ~内堀~

二条城二ノ丸庭園の西側には、内堀に囲われた本丸があります。

その本丸に登る前に、内堀沿いを歩いてみました。


e0158128_17471843.jpg

二ノ丸と本丸の間を通る内堀沿いの南北に、鳴子門桃山門という仕切門がになっています。

上の写真はを守っていた桃山門


e0158128_17472296.jpg

そして上の写真を守っていた鳴子門です。

ここから北回りに内堀を1周します。


e0158128_17491158.jpg

こちらが鳴子門。

寛永3年(1626年)頃の建築と言われ、国の重要文化財に指定されています。


e0158128_17500867.jpg

こちらは北側からみた鳴子門。

門の形式は正、背面に4本の控柱を立てた「四脚門」です。


e0158128_17510800.jpg

鳴子門を過ぎて東北から東側内堀と石垣を撮影。

向こうに見える櫓と橋は、本丸の正門東橋です。


e0158128_17520631.jpg

そして、北側内堀沿いに西へ進むと、ほぼ中央に北中仕切門があります。

この門も南側にある南中仕切門になっていて、寛永3年(1626年)頃の建築と言われており、国の重要文化財に指定されています。


e0158128_17531501.jpg

西二ノ丸側から見た北中仕切門。

門は小ぶりで、背面の屋根だけが延びるという変わった構造で、門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから、「埋門(うずみもん)」とも呼ばれるそうです。


e0158128_17551640.jpg

内堀北側の石垣です。


e0158128_17552049.jpg

そして、こちらは西北から撮影した内堀と石垣。

向こうに見える橋は、本丸西門に架かる西橋です。


e0158128_17573162.jpg

こちらは内堀西北にある土蔵(米蔵)です。


e0158128_17573569.jpg

そして、こちらは内堀西南にある土蔵(米蔵)

どちらも寛永3年(1626年)頃の建築と言われており、国の重要文化財に指定されています。


e0158128_17594309.jpg

先程から紹介するほとんどの門や櫓が寛永3年(1626年)頃につくられていますが、これは、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸にあわせて造られたからです。

当時、上洛中だった第2代将軍徳川秀忠、第3台将軍徳川家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸しました。

秀忠の娘であり、天皇の中宮となった和子らと、5日間滞在したと伝わります。

徳川将軍家は天皇を迎えるにあたって、その2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守行幸御殿、本丸御殿などを造営したと伝わります。


e0158128_18010891.jpg

そして、こちらが本丸西南にある天守台です。


e0158128_18011308.jpg

かつてここに5層の天守が建てられていましたが、寛延3年(1750年)の落雷によって焼失し、その後、再建されることなく現在に至っています。

後水尾天皇の行幸の際、天皇は天守に2回登ったと伝わり、天守に登られた天皇は、このときの後水尾天皇が唯一とされています。


e0158128_18030787.jpg

天守台のある西南から内堀沿いに東へ進むと、南中仕切門があります。

この門は、上に紹介した北中仕切門になった門で、作りもよく似ています。


e0158128_18031220.jpg

こちらは反対側からの南中仕切門。


e0158128_18041860.jpg

本丸東南から見た内堀と石垣。

向こうに見える石垣の出っ張ったところが天守台です。


e0158128_18053302.jpg

そして、この稿の最初に紹介した桃山門にやってきました。

門の向こうに小さく見えるのが、桃山門とになっている北側の鳴子門です。


e0158128_18053682.jpg

門を潜って北側から見た桃山門。

寛永行幸の際の絵図には大きな建物として描かれているそうですが、その後、それを改造して現在の門になったのではないかと考えられています。


さて、内堀を1周して、次稿、いよいよ本丸に登ります。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-10 00:13 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~

二条城東大手門から城内に入り、南側から二ノ丸御殿に向かいます。

写真は城内に設置された案内図です。


e0158128_02445062.jpg

南へ進むと、国の重要文化財に指定されている東南隅櫓が目に入ります。

「その1」では、外から見た東南隅櫓を紹介しています。


e0158128_02463350.jpg

そして、こちらが二ノ丸御殿入口にある唐門です。


e0158128_02500857.jpg

この唐門は、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸にあわせて造られたと伝わります。

二ノ丸御殿の正門にあたり、切妻造、檜皮葺四脚門で、その屋根の前後に唐破風が付きます。


e0158128_02501238.jpg

この唐門も昭和19年(1944年)に国の重要文化財に指定されています。

平成25年(2014年)8月に完成した保存修理では、檜皮の葺替え、飾金具の金箔貼直し、彫刻欄間の彩色の塗り替え、の塗り替えなどが行われ、往時の姿に蘇りました。


e0158128_02501643.jpg

門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾ります。


e0158128_02572440.jpg

そして、唐門を潜って正面に見えるのが二ノ丸御殿

国宝です。


e0158128_02572851.jpg

二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。


e0158128_02573218.jpg

御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。


e0158128_02573545.jpg

正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。

その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。

そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。


e0158128_03000078.jpg

残念ながら、建物内は撮影禁止です。

なので、庭園側から外観を撮影。


e0158128_03041346.jpg

こちらが「大広間」の建物。

「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。

集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。


e0158128_03042851.jpg

そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。

平成29年(2017年)11月9日の今日は、大政奉還から150年の節目にあたります。

写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。


e0158128_03063153.jpg

写真左が大広間、その向こうに見える棟が「式台」で、いちばん奥に見える建物が「遠侍」です。

「遠侍」は来殿者が控える場所で、慶長16年(1611年)に徳川家康豊臣秀頼と会見した際に使われた部屋と伝わります。


e0158128_03082280.jpg

こちらは大広間南西からの撮影で、向こうに見える棟は「黒書院」です。

「黒書院」は大広間に次ぐ公式の場で、将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面した場所だそうです。


e0158128_03104388.jpg

大広間と黒書院前の庭園です。


e0158128_03104777.jpg

こちらは黒書院側から撮影した庭園と大広間。

慶喜の大政奉還の意思表示の際には、ああやって障子は閉ざされていたんでしょうね。


e0158128_03123983.jpg

多くの歴史を刻んだ二ノ丸御殿を後にして、本丸へ向かいます。






ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-09 00:01 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

平成29年(2017年)の今年は、大政奉還から150年にあたります。

京都では「大政奉還150年周年記念プロジェクト」と題したイベントが各所で行われていますが、大政奉還といえば、いちばんはやはりその発表の舞台となった二条城を訪れるべきでしょう。

というわけで、先日、朝から夕方まで二条城をみっちり歩いてきました。


e0158128_02044330.jpg

写真は東大手門前に設置された金屏風風の看板。

いまから150年前の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げました。


e0158128_02080049.jpg

その前日の10月13日に、ここ二条城の二の丸御殿に上洛中の40藩の重臣を召集し大政奉還を発表しました。

その二の丸御殿に行く前に、まずは城の外堀に添って外周を歩きます。


e0158128_02095918.jpg

上の写真は東南隅櫓

国の重要文化財に指定されています。

堀川通を南から北上してくると、まず最初に目に入るのが、このです。


e0158128_02113232.jpg

現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたもので、東南隅櫓はその築城当初に造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年(1788年)に起きた大火によってそのうちのふたつが焼失してしまい、現在はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。


e0158128_02134587.jpg

東南隅櫓から外堀沿いに西へあるくと、南門があります。

この南門は大正4年(1915年)に大正天皇(第123代天皇)の大典に備えてあらたに造られたもので、本来の城門ではないそうです。


e0158128_02150322.jpg

外堀に面した石垣

「打込み接ぎ」ですね。

慶長年間(1600年~1615年)に築かれた城は、この「打込み接ぎ」の工法が多いです。

現存する大坂城などに見られる「切込み接ぎ」は、大坂夏の陣以降の元和期に多用されるようになった工法で、また、関ヶ原の戦い以前は、自然石を積み上げる「野面積み」が主流でした。

この「打込み接ぎ」は、石垣が進化する過渡期の工法といえます。


e0158128_02183040.jpg

そして、こちらが西南隅櫓

東南隅櫓と同じく慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

こちらも国の重要文化財に指定されています。


e0158128_02183449.jpg

二重二階の構造で、西と南に石落としが見えます。


e0158128_02194155.jpg

西南隅櫓と外堀です。


e0158128_02212653.jpg

西南隅櫓から北上すると、西門があります。

寛永年間(1624年〜1643年)に造られたといわれています。

大政奉還を発表したとき、徳川慶喜がこの西門から城外に出たと伝わるそうです。


e0158128_02230930.jpg

西面の外堀です。


e0158128_02244383.jpg

そしてこちらは北大手門

ここも東南隅櫓や西南隅櫓と同じく、慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られて寛永3年(1626年)に改修されました。

ここも国の重要文化財に指定されています。


e0158128_02264213.jpg

東面の外堀。


e0158128_02305450.jpg

外堀を1周まわって東大手門に戻ってきました。

ここが二条城の正門です。


e0158128_02305813.jpg

現存の門は、寛文2年(1662年)頃に造られたと考えられています。

築城当時は現在のような2階建の櫓門でしたが、寛永3年(1626年)の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸の際には、天皇を2階から見下さないようにとの配慮から、一重の唐門に建て替えられたと言われています。


e0158128_02310192.jpg

門幅13間におよぶ勇壮な門で、国の重要文化財に指定されています。


e0158128_02345227.jpg

東大手門は平成26年(2014年)10月から改修工事が行われ、今年(平成29年)3月に完成しました。

この日は、その記念として櫓内部を特別公開していました。


e0158128_02345688.jpg

櫓内部です。


e0158128_02345945.jpg

さて、外堀と門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次回に続きます。










ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

# by sakanoueno-kumo | 2017-11-07 23:22 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)