三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その44 ~西脇城跡~

兵庫県西脇市にあったとされる「西脇城跡」を訪れました。

ここは、三木城から直線距離にして20km以上北上した場所にある城ですが、ここも、三木合戦時に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わる城です。


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西脇城跡のある西脇市は、東経135度・北緯35度が交わる地点で、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとPRしています。

北は北海道から南は沖縄まで、日本列島すべての時刻はここ東経135度線(子午線)に合わせていますから、日本で最も正確な時刻を刻むまちでもあります。

もっとも、西脇城があった時代には、そんなこと知る由もなかったでしょうが。


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西脇城の遺構は市街地に埋没して全く残されておらず、パチンコ屋駐車場脇の一角に、石柱のみが建てられています。


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石柱横の階段を上ると、大きな石碑五輪塔、石地蔵が建てられた廟所になっています。


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高さ3mほどの石碑には「西脇城主高瀬氏政所之址」と刻まれています。

高瀬氏播磨守護職赤松氏の一族で、三木合戦時は三木城主の別所長治方に与していました。


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こちらは五輪塔

「高瀬家」とありますから、おそらく高瀬家の誰かの墓石でしょう。


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こちらの石仏にも、「高瀬家」とあります。


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西脇城は、古地図の復元から約100m四方を堀と土塁で囲った方形居館と呼ばれる城だったことがわかっていて、現在、廟所がある場所より西にあったと伝えられていますが、現在はその痕跡を見ることはできません。

また、城主についても、高瀬土佐守円山兵庫頭祐則が伝えられ、最近では這田荘と呼ばれていたこの地域の政所であったとの研究もあるそうです。

三木合戦時の城主と伝わる高瀬氏は、合戦を境に滅亡したと伝えられます。


次回も西脇市内の史跡を訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-07 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~

 今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。


 おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。


e0158128_02593242.jpg この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。


 そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。


 さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みやっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。


ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。


 e0158128_18432594.jpgこの間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。


そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~

山下城跡から3kmほど北西にある飯盛山山頂に、春日山城跡があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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春日山城は兵庫県神崎郡福崎町の最南端ある標高198mの飯盛山山頂にあります。

写真は西側から撮影した飯盛山。

この少し南は、姫路市になります。


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山頂にズームイン!


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登山口は2ヶ所ありますが、この日は南側山麓にある春日山キャンプ場からの登城。


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キャンプ場内にある登山口です。


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登山道は写真のように整備されていて、登りづらいといったことはありませんでした。

ただ、勾配は急なので、決して楽ではありません。


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道標です。


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頂上近くになると、登山道脇には曲輪跡と見られる削平地が目につき始めます。


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頂上らしき空が見えてきました。


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頂上の本丸跡です。


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結構広い面積の山頂です。


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三木合戦のときの春日山城主は、後藤基信

基信はあの後藤又兵衛基次の父・後藤基国の兄で、又兵衛の叔父にあたる武将です。

天正5年(1577年)の加古川評定を機に後藤家は別所方に与し、三木合戦が始まって間もない5月、羽柴軍によって城は落とされ、基信は討死したと伝わります。

春日山城の築城時期は南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨の守護赤松氏の幕下としてこのあたりを統治していた後藤三郎左衛門尉基明が築城したと言われます。

その後、応仁の乱では赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てたと伝わります。

三木合戦時の城主・基信は、初代・基明から数えて9代目にあたります。


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説明板です。


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食料貯蔵庫跡だそうです。


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北側の眺望です。


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こちらは西側の眺望。

撮影は夏至近い6月18日の夕方4:00頃です。


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こちらは南側の眺望。

3kmほど南下したところには、甥の後藤又兵衛基次が生まれたとされる南山田城跡があります。

三木合戦時、又兵衛は姫路城主の黒田官兵衛孝高の元にいましたが、黒田家は羽柴方に、後藤家は別所方についたことから、黒田家を去ることになるんですね。

又兵衛18歳のときでした。


次回に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-01 20:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~

前稿の野上城跡(常泉寺)から直線距離にして4.5kmほど西の兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは三木合戦当時、別所長治の幕下・浦上久松の居城だったと伝わります。


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城跡近くに常行院という寺院があり、その横に駐車場があります。

寺院前には城跡までの案内板が設置されています。


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城跡に向かう遊歩道にも誘導表示が設置されていて、迷うことはありませんでした。


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しばらく進むと、丘の麓に登城口が見えます。


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おそらく、ここは大手口搦手口といった正式な城の入口ではなく、城巡り客用に作られた登城口だと思います。


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しばらく登ると、大きな堀切跡に目を奪われるのですが、写真じゃわかりづらいですね。


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登城道は整備されていて、簡単に登れます。


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二ノ丸跡です。

それほど広くはありません。


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上から見下ろした二ノ丸跡です。


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そして更に上を目指し・・・。


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本丸跡です。


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本丸跡には、常行院前にあった案内板より詳細は想定縄張り図が設置されています。

いま登ってきたルートは、左下の遊歩道入口から大堀切横を通って、二郭、本郭というルートです。


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ここ山下城主の浦上久松は、三木城主・別所長治の幕下として兵を伴い三木城籠城戦に参陣、最後は長治と共に自刃して果てたと伝わります。

その久松の母は、黒田官兵衛孝高の父・黒田職隆の娘とも言われます。

ということは、久松は官兵衛のということになりますね。

久松は長治と同じく若い城主だったのでしょうか?


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山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。

その本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます。


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城跡の外周を散策しました。

田園が美しい。


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南西から見た山下城跡です。

さぞ立派な城だったんでしょうね。


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先ほどいた本丸跡を見上げます。

浦上久松が三木城に籠城したという記録は残っていますが、ここ山下城が三木合戦でどんな戦いをしたかはわかっていません。

これだけ立派な城ですから、別所方の拠点として何らかの役割を果たしていたのではないでしょうか?


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ちなみに、ここ山下城は、南北朝時代の光明寺合戦にも関わっていたようです。

その話は、また別の機会で。


次回に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-11-30 18:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~

 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。

e0158128_22213540.jpg 徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。

e0158128_22212613.jpg 同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。

ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。

 かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その41 ~野上城跡(常泉寺)~

兵庫県加西市にあった伝わる「野上城跡」を訪れました。

現在、城跡とされている場所は、常泉寺というお寺になっています。


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野上城の築城時期は不明ですが、城主は別所長治の幕下だった岩崎源兵衛という人物でした。

三木合戦に際に源兵衛は、三木城に篭って大いに奮戦したそうですが、三木城開城前に自刃して果てたと伝わります。


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その後、岩崎伝兵衛という人物(たぶん源兵衛の一族?)によってこの地に常泉寺が開かれ、源兵衛の菩提寺となりました。

そしてその子孫は、この地に代々永住したと伝えられます。


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現在の常泉寺周辺は、城跡の遺構は何も残されていません。

ただ、お寺は田園風景のなかの高台にあり、まわりは水路で囲まれていて、なんとなく、城跡っぽい雰囲気を醸しだしていました。


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まあ、城跡と知って見ると、そう見えるのでしょうけどね。

元来、寺院と城というのは、一対だった場合が多いですから。


次回につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-11-26 05:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その40 ~阿形城跡~

兵庫県小野市にあったとされる「阿形城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦の際に別所氏に従って戦下に加わった城と伝えられます。


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現在、城跡の遺構は本丸跡と思われる「陣山」と名付けられた丘陵のみ残されています。


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陣山の入口には、小さな説明板のみ設置されています。


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陣山の頂上には、結構な樹齢と思われる巨木が聳えます。

でも、往時を知るほどではないかな。


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説明板によると、阿形城が文献などに出てくるのは、天正年間(1573~1594年)だけだそうで、それ以前のことはまったく不明だそうです。

『播磨古城軍記』によれば、阿形城の城主であった油井土佐守勝利別所長治の幕下であり、三木合戦の際に三木城籠城に参加したため、ここ阿形城は羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わります。


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現在、陣山の上は、ご覧のとおりになっています。


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陣山の周りには水路が巡らされていて、なんとなく、かつての堀跡の名残なのかなあといった雰囲気でした。


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ここ阿形城は加古川万願寺川の合流点の西に位置し、標高35mの高台にあります。

城の規模は南北150m、東西70mほどだそうで、陸上競技場くらいの広さがあったようです。

地方の田舎豪族としては、結構な大きさですよね。

油井氏というのはよく知りませんが、当時は、このあたりで結構な力を持っていたのかもしれません。


次回に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-11-24 23:52 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その39 ~豊地城跡~

小沢城跡から2kmほど南西に「豊地城跡」があります。

現在の住所でいえば、兵庫県小野市と加東市のちょうど境目あたりが城跡とされています。


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かつては小沢城主の依藤氏が豊地城を居城としていたようですが、三木合戦当時は、三木城主・別所長治の叔父・別所重宗の居城となっていました。

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三木合戦以前は、兄の別所吉親(賀相)と共に若き長治の補佐役を務めていた重宗でしたが、かねてから兄との折り合いが悪く、家内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。

その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。


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一時は織田氏指示でまとまったかに見えた別所氏でしたが、「その18」で紹介した加古川評定の席で兄の吉親(賀相)が羽柴秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は織田氏に叛旗を翻します。

しかし、重棟は納得がいかず、別所家を出奔して織田方につきました。

この、いわば兄弟喧嘩が、三木合戦のキッカケだったともいえます。

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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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土塁の南側(写真右側)は外堀跡です。


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みごとな土塁跡ですね。


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土塁に登って北側を望みました。


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紺のプリウスαは、わたしの愛車です(笑)。


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豊地城の歴史は古く、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に焼き払われたと伝わる東条城は、ここ豊地城の前身と考えられているそうです。

その後、赤松氏の有力家臣だった依藤氏の居城となり、その依藤氏から城を奪ったのが、別所氏だったと伝わります。

しかし、三木合戦終結後に重宗は但馬国に移封となり、同年6月に秀吉から播磨8城の破城令が下され、豊地城は破城となりました。




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# by sakanoueno-kumo | 2016-11-23 19:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第46話「砲弾」 ~真田信繁調略失敗と、本町橋の夜襲~

 真田丸の戦いで甚大なダメージを受けた徳川家康は、ひとまず和議の方向に動きはじめます。その一方で、今や大坂方の英雄となった真田信繁に狙いを定め、調略の手を伸ばします。この時点で信繁が、今後の戦いにおけるキーパーソンと家康が睨んでいたことがわかる話ですね。信繫を寝返らせることができれば、今後の戦いが大いに楽になる。家康はそう考えていたに違いありません。真田丸の戦いは、それほど家康にとって手痛い敗北だったのでしょう。


 信繁の調略の使者として白羽の矢が立ったのは、信繁の叔父・真田信尹でした。このとき信尹は、徳川方の家臣になっており、家康の側近・本多正純を介して命令が下ったとされます。信尹と信繁の会見が行われたのは慶長19年(1614年)12月14日。真田丸の戦いから10日後のことでした。


 『慶長見聞録』によれば、信繁と信尹の会見は夜半に行われたといいます。しかし、その内容については、あくまでも伝承レベルにすぎません。『真武内伝』によれば、信繁が徳川方についてくれれば3万石を与えようと言ったとされ、また、『慶長見聞録』によれば、信濃国内に10万石を与えるとの意向を伝えたといいます。しかし、信繁は豊臣秀頼への恩義を重んじてこれを拒絶し、ただし、和睦が成立すれば、たとえ千石でも仕えると申し添えたといいます。つまり、ことの判断は報酬の大小ではない、ということですが、この報告を受けた正純は、10万石の報酬が不服だったのだろうととらえ、今度は信濃一国を与えるという条件で再び交渉に向かわせます。ところが、信繁はこの言葉を聞いて激怒し、信尹との面会を拒否したといいます。信濃一国といえば40万石以上あり、兄・真田信之を遥かに凌ぐ石高で、あまりにも現実味のない話。もし、信濃一国を信繁に与えるとなると、豊臣方を滅ぼさない限り領地が足らないんですね。信繁にしてみれば、「バカにするな!」といった心境だったのでしょう。


 ドラマでの信繁と信尹の会見は、そんな見え透いた駆引はなしでしたね。


信尹「寝返ったときの褒美が書いてある。読まんでいい。」


名シーンでした。


 徳川方からの和睦交渉の申し入れに困惑するなか、大野治房の指揮下にあった塙団右衛門直之が、夜襲を提案します。団右衛門は豪傑で知られた猛将で、このまま功を立てずに和議に持ち込まれることが不服だったのでしょう。進言を受けた治房もまた、ここまで大きな戦果をあげておらず、団右衛門の案を許可します。その夜襲が行われたのが、大坂城の東に流れる東横堀川に架かる本町橋です。


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慶長19年(1614年)12月17日未明、団右衛門は本町橋の南に陣を布いていた蜂須賀至鎮の陣を襲撃し、その家臣・中村右近を討ち取るなど戦果をあげます。このとき団右衛門は、本町橋の上に置いた床几に座ったまま兵を指揮し、「夜討ちの大将、塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせたというエピソードが伝わります。ドラマで団右衛門が名刺代わりのように小札を配っていたのは、この逸話からくるものです。浪人の彼らにとって、戦果は宣伝だったわけですね。


 なかなか和議に応じない豊臣方に対して、家康は矢文を使って盛んに投降を呼びかけるとともに、300挺という大量の大砲を用意し、城に向かって一斉に砲撃を開始しました。その轟音たるや凄まじいものだったようで、『時慶卿記』によれば、大砲の音が京都の朱雀あたりまで聞こえていたといいます。『台徳院殿御実記』によれば、「その響き百千の雷の落ちたるが如く、側に侍りし女房七八人たちまち打倒され、女童の泣き叫ぶことおびただし」と伝えています。


 片桐且元が家康に淀殿の居場所を教えたという話は『難波戦記』にみられるもので、同記によると、家康は城内の淀殿の居場所をめがけて砲を打ち込ませ、のひとつを打ち崩して淀殿の侍女7、8人が命を落としたといいます。それを目の当たりにした淀殿は震え上がり、それまでの強硬論から和議へと転じる姿勢を見せ始めたといいます。これも、家康が描いた筋書きどおりだったのか、あるいは、本気で淀殿を狙ったのかはわかりませんが、いずれにせよ、もし、このとき砲弾が淀殿に直撃していたら、歴史はもう少しシンプルな結末になっていたかもしれません。このときの砲弾が淀殿の命を奪わず、目の前にいた侍女の身体を粉砕したことで、歴史はよりドラマチックなストーリーに繋がっていくんですね。歴史って、つくづく偶然の産物だと思わざるを得ません。


 「私には、あの人が死にたがっているように思えてならないのです。心のどこかでこの城が焼け落ちるのを待っているような。私たちの父も母も城と共に命を絶ちました。姉も自分が同じ運命であると半ば信じています。姉を救ってやってください。」


 淀殿の妹・初(常高院)が信繁に語った台詞です。


 「あなたはきっと戻ってくる。そして、私たちは同じ日に死ぬの。」


 かつて若き日の信繁に向かってそう言った淀殿の心中が、少しだけ見えてきたような気がします。今までにない不思議ちゃんキャラの淀殿の最期をどう描くのか。彼女の心の闇をどう始末するのか。あと4話、楽しみですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-11-22 03:31 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)