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古代城と中世城が混在する城山城。 その1 <古墳群・登山道>

西播磨を南流する揖保川と、北西より合流する支流の栗栖川が形成する平野を東に臨む標高458m亀山(きのやま)の山頂に、かつて城山城がありました。

ここは、奈良時代の古代山城赤松則祐が築城したと伝わる室町時代の中世山城のふたつの遺構があることで有名になった城跡です。


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東側麓から見た亀山です。

この山塊の尾根伝いに広範囲にわたって山城が築かれていました。


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古代城と中世城が混在する城山城。 その1 <古墳群・登山道>_e0158128_15442561.jpg


立派な看板が。


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登山口は複数あるようでしたが、この日は「大手道」と呼ばれる馬立登城口から攻めます。

東北の麓の馬立に鎮座する山神社脇から尾根上まで約1時間かけて登るルートで、その後、尾根上を約30分かけて南下して、城域に到達します。

けっこう険しい登山です。


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登山口にあった登山マップ。

②の登山口から出発して、⑤を経由して⑫の城跡を目指すコースです。


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山神社です。


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登山中けがのないよう参拝してから出陣します。


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神社を過ぎるとすぐに、古墳群が現れます。

さすが古代城の登山口です。

この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけてつくられ、全国的に古墳の数が激減する後期古墳時代のものだそうです。

こおでは、郷戸型といわれる高さ3m以上の大型横穴式古墳12をはじめ31の石墳があります。


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古墳群マップ。


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さっそく現れたのが、姥塚古墳

ドーム型の円墳で、百済にその原形があることから、帰化系氏族の墳墓ではないかと見られているそうです。


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姥塚古墳の説明板。


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姥塚古墳の中をのぞいてみましょう。


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おおっ!

石積み!

城跡じゃないけど、石積みをみると興奮する。


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こちらは6号墳


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続いて7号墳


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やはり中は石積みです。


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12号墳


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17号墳


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あっちもこっちも古墳だらけ。


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先を急ぎましょう。


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石がゴロゴロ。


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しばらく登ると、ロープが張られた場所に出ます。

やっぱ険しい。


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登り始めて約1時間。

眺望の開けた場所に出ました。


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いい眺めです。


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揖保川が見えますね。

そうめん「揖保乃糸」で有名な揖保川です。


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さらに険しい道を進みます。


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登り始めて70(途中古墳群でちょっと時間をとりましたが)、ようやく尾根道に出ました。


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供養碑と標柱に描かれた巨石が現れました。

南無阿弥陀仏の銘があるそうです。


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う~ん、わからん。


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蛙岩と書かれた標柱が。


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たしかに、蛙に見えなくもない(苦笑)。


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おっ、これは石積みの痕跡?


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尾根は続くよどこまでも。


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登山開始から約1時間半、ようやく城域に入りました・・・が、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。


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# by sakanoueno-kumo | 2024-03-19 14:04 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

赤松氏庶流の城・楯岩城。 その3 <本丸>

「その2」のつづきです。

楯岩城本丸エリアに入りました。


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ここは北西段曲輪のいちばん下の曲輪です。

本丸エリアは、頂上の主郭を中心に北西南の三方に段郭が伸びている縄張りです。


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ここで、「その1」でも載せた縄張り図鳥観図を載せます。


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その次の段


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主郭北西の切岸。

石積みが残っていますね。


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角度を変えて石積みを見てみましょう。


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振り返って本丸北西段曲輪を上から。


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さて、主郭に登りましょう。


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主郭には、現在、テレビ塔が設置されています。


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主郭です。


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主郭には石碑などは建てられていませんが、樹木に木札が掲げられていました。


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主郭東側は尾根伝いになだらかな傾斜がかかっていて、左側に土塁のような場所が見えますが、これは往時の遺構ではないように思いますね。

想像ですが、テレビ塔を建てるときに作られた道じゃないでしょうか?

知らんけど。


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スロープを降りて東へ進みます。


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立派な竪堀が!


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竪堀の横には石積みが残っています。

ここは東側の虎口だったのかな?


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石積みを過ぎると、立派な土橋が。

果たして土橋だろうか?

これも、テレビ塔建設時に作られた道のような気がしますね。

あまりにもきれいすぎる。


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主郭に戻って昼食


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腹ごしらえを終えたので、今度は主郭南側の段曲輪に降りていきます。

縄張り図で観るように、南側の段曲輪は長く伸びていて、石積みが多く残っているようです。


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おおっ!

たしかにスゴイ!


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これは石積みというより、岩盤かな?


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らに下の段へ。


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これも自然の岩盤に見えますが、一部加工された石が積まれているようにも見えます。


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これなんか加工石ですよね。


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さらに下の段へ。


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あ~、これは完璧に石積みですよね。


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こっちも。


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美しい!


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さらに下の段へ。


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これまた石積みです。


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でもこっちは天然の岩盤ですよね。


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楯岩城という名前から想像するに、まさに楯になるような巨石がたくさんあって、その岩盤を利用して、そこに石積みを施したお城だったのかもしれませんね。

天然の岩盤と加工した石積みのハイブリッド石垣と言えるでしょうか?


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これなんか、登り石垣っぽい残り方。


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赤松満祐が起こした嘉吉の乱によって一度赤松氏は滅び、ここ楯岩城も落城したと伝わりますが、しばらくして赤松則村(円心)の次男・貞範の曽孫で、足利将軍の近習を務めた赤松貞村が移り住み、その後130ほど、5にわたって続いたとされます。

しかし、天正5年(1577年)から始まる羽柴秀吉播磨攻めの際に落城し、その後、廃城となったようです。


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さて、石積みを堪能したので、楯岩城のハイブリッド石垣を堪能したので、このあたりでシリーズを終わります。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-03-17 12:02 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

赤松氏庶流の城・楯岩城。 その2 <三ノ丸~二ノ丸>

「その1」のつづきです。

楯岩城三ノ丸エリアに入りました。

本丸、二ノ丸、三ノ丸といった呼び方は豊臣時代以降のものですが、麓にあった縄張り図鳥観図にそう書いてあったので、便宜上、その呼称に従います。


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三ノ丸エリアでいちばん広い曲輪です。


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その北側の横掛け道に面した切岸には、土塁が盛られています。


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土塁、わかるでしょうか?

おそらく往時はもっと高く盛られていたのでしょう。

向こうに見えるのが横掛け道


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土塁ウォーク


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反対から見た土塁と横掛け道


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ここで、「その1」でも載せた縄張り図鳥観図を載せます。


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三ノ丸を東へ進むと、何やら巨石が集まった場所に出ました。


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石積み?

にしては、曲輪のど真ん中にあって、ここに石を積む理由がわかりません。

磐座?

それとも古墳?


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どう見ても人工的に積まれた感じに見えますよね?

やっぱ石積み?

古墳?


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石積みを過ぎると、二ノ丸エリアに入ります。

このあたりに来ると、さっきの巨石よりは小さめの石が散乱し始めます。


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これはやっぱ、石積みの痕跡ですよね?


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あっちもこっちも。


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ここなんか、削平地に入る虎口跡に見えますね。


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さらに進むと、巨石というか巨岩が現れます。

これは自然石でしょうね。


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これこそ磐座かな?


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その磐座の横の道の下を覗きこむと・・・・。


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おおっ!


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これは石垣?・・・石積み?


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いずれにせよ人工的に積まれたものと考えて間違いないでしょう。


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江戸時代の地誌「播磨鑑」によると、楯岩城は建武年間(13341338年)に赤松刑部少輔則弘が築いたとされ、嫡子の次郎泰秀が相続したとあります。

時代は下って嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れ討たれた「嘉吉の乱」の際、ここ楯岩城は一度落城したとあります。


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石積みから北側を見ると、立派な竪堀が2あります。


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磐座の上の曲輪に上ってきました。


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そこから見た次の段の切岸

石積みの痕跡が見られますね。

ここを上がると本丸エリアに入りますが、長くなっちゃったので、「その3」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-03-14 21:47 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

赤松氏庶流の城・楯岩城。 その1 <若王子神社~登山道>

今回も播磨国の赤松氏の城・楯岩城を攻めます。

別名「太田城」ともいいます。

播磨の山城のほとんどは、赤松氏の嫡流、庶流のどこかに関連していますが、ここは、赤松刑部少輔則弘が築いたとされています。

赤松則弘は赤松則村(円心)の孫で、広岡氏の祖となる人物です。

広岡氏と言ってもピンと来ないと思いますが、現在の大同生命の前身「加島屋」を興した広岡家です。

NHK朝ドラを観ている方ならわかるかと思いますが、何年か前の朝ドラ『あさが来た』のモデルになった広岡浅子のご先祖さんってことですね。


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登山口は若王子神社の境内にあります。


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鳥居横に設置された誘導碑


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神社境内まで車で行けますが、ご覧のとおりめっちゃ狭い道

運転に自信のない方はやめておいた方がいいかも。


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防獣柵を開けて中に入ります。

開けたら閉めましょう。


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神社境内には広い駐車スペースがあります。


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せっかくなので、若王子神社を参拝していきましょう。

石燈籠は寛政7年(1795年)に奉納されたものだそう。

由緒ある神社ですね。


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社殿です。


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狛犬は天保6年(1835年)に奉納されたものだそうです。


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御祭神は仁徳天皇


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拝殿内には古い絵馬が数多く飾られています。


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この砲弾は何だろう?


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台座に「凱旋記念」の刻まれているようです。


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参拝を終えて、登山開始。


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登山口に設置された説明看板。


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縄張り図が載っています。


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こちらは鳥観図


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デザインチックな看板があります。

地元の龍田小学校と太田小学校の児童たちが卒業記念に作った看板だそうです。

ここは兵庫県太子町だけに、聖徳太子がいますね。

太子町の地名の由来は聖徳太子ゆかりの地というところからきています。


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登山道です。


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登山道は整備されていて、いいハイキング


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神社から約30分。

削平地が現れました。

どうやら城域に入ったようです。


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城道を曲輪から狙われています。


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スロープ状の城道。

ここも、横の曲輪からも前の曲輪からも狙われていますね。


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麓の看板の縄張り図と鳥観図にあった三ノ丸エリアに入りましたが、長くなっちゃったので「その2」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-03-13 19:59 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

光る君へ 第10話「月夜の陰謀」 ~花山天皇の出家(寛和の変)~

久しぶりに大河ドラマのレビューです。

10話では花山天皇出家事件が描かれましたね。寛和2年(968年)623日の丑剋(午前1時から3時)花山天皇が秘かに清涼殿を出て、縫殿陣(朔平門)に用意してあった車に、藤原兼家の三男・藤原道兼と同乗し、東山の元慶寺に着くと、すぐさま出家入道させられました。これより先に、神璽宝剣は兼家次男の藤原道綱によって凝華舎に移され、東宮懐仁親王に献上されていました。兼家は内裏に参入して諸門を固め、譲国(東宮に皇位を譲ること)の儀を行いました。それは、譲位宣命の宣せられない、異例の「譲位」でした。


 光る君へ 第10話「月夜の陰謀」 ~花山天皇の出家(寛和の変)~_e0158128_20380276.jpg花山天皇が出家を決意した理由については、ドラマで描かれていたように、寵愛する妻・藤原忯子17歳の若さで懐妊中に死んでしまったことによるショックから・・・というのが、『栄花物語』『大鏡』の伝えるところで、一般には通説となっています。自身が出家することにより、忯子の罪を軽くするため・・・というのが、その動機だったと。忯子は死んだのに、罪ってどういうこと?・・・って疑問が生じるかと思いますが、忯子は天皇の子を身ごもったまま亡くなったので、天皇の子を殺した罪があるって解釈になるようですね。女癖が悪く奇行が多かったと言われる花山天皇ですが、忯子のことは、それほど心から慈しんでいたんでしょうね。


 光る君へ 第10話「月夜の陰謀」 ~花山天皇の出家(寛和の変)~_e0158128_18122740.jpg一方で、『大鏡』によると、この出家は藤原兼家が外孫の懐仁親王を即位させるために仕組んだ陰謀だったと伝えます。蔵人として花山天皇に仕えていた兼家の三男・道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家するとそそのかし、出家に導いた、と。道兼はひそかに天皇を内裏から連れ出しますが、天皇は「月が明るいので日を改めよう」と言って出発を躊躇いますが、そのとき都合よく雲が月を隠したため、天皇は「やはり今日出家する運命であった」と納得したといいます。ところが、内裏を出る前に、かつて妻からもらった手紙を持ってくるのを忘れたといって取りに帰ろうとしますが、出家の手筈を整えていた道兼は、嘘泣きをするなどして強引に天皇を連れ出したといいます。概ねドラマで描かれていたとおりですね。


 元慶寺へ着き、天皇が落飾したのを見届けた道兼は、父の兼家に事情を説明してくるという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げてしまいます。ドラマでは、「私は、これにて失礼いたします。お側にお仕えできて、楽しゅうございました」といって立ち去りましたね。どちらにせよ、ここで初めて騙されたことに気づいた花山天皇は、愕然としたに違いありません。しかし、すべてはあとの祭り。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った側近の藤原義懐藤原惟成は、元慶寺で剃髪した天皇と会い、そこで政治的な敗北を知り、共々に出家しました。この事件は「寛和の変」とも言われています。


 光る君へ 第10話「月夜の陰謀」 ~花山天皇の出家(寛和の変)~_e0158128_18160383.jpg『大鏡』には、陰陽師の安倍晴明の話も記されています。今回のドラマでも描かれていましたが、安倍晴明の屋敷の前を花山天皇の乗った牛車が通ったとき、晴明は天皇が退位なさるとの天変があったと言い、「式神一人、内裏へ参れ」とのお告げがあったとしています。晴明は超能力者という設定ですから、屋敷の前を通っただけでそれがわかったわけです。つまり、いち早く安倍晴明は花山天皇の退位を察知していた、と。今回のドラマでは、この逸話を逆手にとって、すべてのシナリオは晴明が描いて兼家にアドバイスしたという設定でしたね。これは面白い脚本でした。今回のドラマでの安倍晴明は超能力者というより、ダーティーな政治家という役どころ。今後の物語への関りが楽しみですね。


 ここに、7歳の一条天皇が誕生しました。この一条天皇が、紫式部藤原道長のその後に深く関わっていくことになります。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-03-11 18:17 | 光る君へ | Trackback | Comments(2)