太平記を歩く。 その91 「湊川公園」 神戸市兵庫区

前稿の「楠木正成本陣跡」から直線距離にして約1km弱東にある湊川公園です。

この辺りは、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、楠木正成軍と足利尊氏の弟・足利直義を司令官とする陸軍が激突した場所です。


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公園内には、巨大な楠木正成の騎馬像が建てられています。

600回目の正成の命日に当たる昭和10年(1935年)5月25日、神戸新聞社の音頭で、楠正成公600年祭に市民の浄財で建設されたそうです。


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精悍な顔をしています。


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説明板です。


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こちらは、『大楠公六百年祭齋行之碑』です。


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公園の片隅には、『旧湊川址』と刻まれた石碑があります。

現在、湊川はここから2kmほど西に「新湊川」と呼び名を変えて流れていますが、当時の湊川は、今の新開地本通りを流れていました。


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『太平記』巻16「正成兄弟討死事」によれば、楠木軍約700に対して、足利軍50万

まあ、これはかなり盛った数字かと思われますが、兵力に大差があったのは事実でしょう。

数の上では圧倒的に不利な楠木軍もよく奮戦し、一時は大将の捕まえんとするところまでいったといいますが、結局は多勢に無勢、約6時間の奮戦のすえ、正成は弟の楠木正季とともに自刃して果てます。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-22 21:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その90 「楠木正成本陣跡」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区の山の手にある会下山公園を訪れました。

ここは、湊川の戦いにおいて楠木正成が陣を布いたといわれるところです。


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『太平記』には楠木正成軍が陣を置いた地について、「湊川の西の宿にひかえて、陸地の敵に相向う」と記されており、『梅松論』には「湊川の後ろの山より里まで」とあります。

それらの条件を満たす場所といえば、高台になっているこの場所なんですね。

現在は、見晴らしのいい公園になっており、その公園内のいちばん高いところに、「大楠公湊川陣之遺蹟碑」と刻まれた巨大な石碑が建てられています。


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建武2年(1335年)12月11日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は、竹之下で新田義貞を破り、翌年の1月、京に攻め上がりましたが、その隙をついて北畠顕家が尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破します。

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さらに豊島河原・打出浜の戦いにも敗れた尊氏は、海路九州へ敗走しますが、その後、多々良浜の戦いに勝利して体制を立て直すと、光厳天皇(北朝初代天皇)を奉じて東上を開始。

これを迎え撃つため、楠木正成は京を発し、5月24日、既に新田義貞が布陣する湊川に着陣し、ここ会下山に本陣を布きます。

楠木勢の総兵力は、わずか700余りだったといわれます。


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石碑の揮毫は東郷平八郎元帥だそうです。


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石碑の建つ場所からは、神戸市の中心部が一望できます。

現在は高いビルに阻まれていますが、かつてはここから海辺が見渡せたはずです。

勝算の薄い戦いを前にしてこの地に着いた正成たちは、この景色を前に何を思っていたのでしょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-21 18:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その89 「松尾稲荷神社」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある松尾稲荷神社という小さな神社も、『太平記』にかかわりがあると聞いて訪れました。


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現在は「松福さん」とよばれるアメリカ渡来の福神ビリケンが社殿の中の奥に祀られていることで知られています。


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その社伝によると、かつては湊川の堤防上に鎮座していたといい、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に足利尊氏軍と激突した「湊川の戦い」に臨む楠木正成が、堤防上に聳える松の大樹を目印に一族郎党の集合を命じ、一同が身につけていた神仏の護符が血に汚れるのをはばかって、その松の木の根元に祀られていた稲荷の祠に納めたといいます。


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つまり、楠木正成軍決起の地というわけですね。

その松の木は、およそ100年前の大正3年(1914年)まで残っていたそうですが、社殿の造営に伴い伐採されたそうです。


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その後、正成ゆかりの松というわけで、これに因んで「松尾稲荷」という社号になったそうです。


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戦前ごろまでは、当時、神戸の繁華街の中心地だった新開地の近くにあることもあって、多くの商売人や劇場の役者、福原の遊郭で働く芸妓たちが参拝して栄えたそうですが、いまは、住宅街の中に隠れるように鎮座しています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-20 20:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その88 「南宮宇佐八幡神社」 神戸市中央区

神戸市中央区脇浜にある、南宮宇佐八幡神社を訪れました。

ここは、湊川の戦いに出陣途中の楠木正成が、この付近に馬を留めて武運を祈願したといわれ、のちに村人が八幡社をこの地の建てたと伝わる神社です。


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現地説明板の文をそのまま引用します。


創建は古書によると、「建武3年(1336年)楠木正成、足利尊氏追討の命を奉じ、兵庫に出陣の途次、当脇浜に同志を集め休息せし時遥に八幡宮を拝して湊川に下向し、勝利をおさめた。依って村民等其の跡地南宮川畔に八幡神社を勧請し、脇浜村の鎮守として尊崇怠りなし」と伝えられてる。


ん?・・・なんかおかしくないですか?

「勝利をおさめた」って、勝ってないし!


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言うまでもありませんが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に行われた湊川の戦いにおいて勝利したのは足利尊氏軍で、楠木正成軍は敗走の上自刃して果てます。

正成が勝利をおさめたのは、同じ年の2月10・11日に起きた打出合戦ですが、この戦いは、ここより20km近く東の芦屋市で行われた戦いですから、進軍の途中にこの地を訪れるというのは無理があるでしょう。
古老による言い伝えということですが、伝承なんて、あてにならないものですね。


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なお、「南宮」は「楠」の「きへん」を後世おとしてしまったものであるといわれているそうです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-19 22:14 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第28話「死の帳面」 ~おんな大名 寿桂尼~

 寿桂尼、最後の政治でしたね。武田信玄の息子・武田義信が幽閉先の東光寺自害(病死とも)したのが永禄10年(1567年)10月19日。その翌月には義信の正室・嶺松院(実名は不明)がその娘とともに今川に送還されているので、ドラマはこの1ヵ月前後の政治を描いています。寿桂尼が没するのは翌年の3月14日。死の4~5ヵ月前ということになりますね。そんな寿命が尽きる寸前のばあさんが、甲斐へ相模へと奔走しえたとはとても思えませんが、「死しても今川の守護たらん」という有名な遺言を残すほど今川の行く末を案じていた寿桂尼ですから、きっと、最後まで孫の今川氏真にまつりごとを任せられず、あんな感じで口を出していたんじゃないでしょうか。


信玄「お具合がよろしゅうないと聞いておりましたが、ご息災で何よりでございます。」

寿桂尼「神仏も我には会とうないようにございます。」

信玄「それは神仏も正直なことを。」


寿桂尼「老婆心ながら、そなたほどのお方が尾張の若造に足をすくわれませぬように。」

信玄「ご忠告、痛み入ります」


 圧巻の舌戦でしたね。老獪VS老獪古雌狐VS古禿狸。実に見ごたえがありました。でも、明らかに寿桂尼がイニシアティブを取っていましたね。


氏真「おばばさま、首尾はいかがでしたか?」

寿桂尼「鈴は武田にとっては決め手となる人質です。われが行ったくらいで手放すわけが・・・」

氏真「では、何のために行かれたのですか?」

寿桂尼「シテにお出ましいただきやすくするためです。」

氏真「シテに?」

寿桂尼「春どの、お父上に仲立ちをお頼みしたいので、一筆したためていただけるかの?」

氏真「北条に?・・・では初めからそうすればよかったのではございませぬか?」

寿桂尼は「直に関わる者同士が話し合うておらぬ場にシャシャリ出るのは、北条も望むまい。武田は、北条にはまだ大切な味方・・・」


 寿桂尼のいう「シテ」とは、における「主人公」という意味だそうです。つまり、主人公の出る幕を作りに行ったのだと。仲裁役が仲裁し易いようにお膳立てをしに行ったわけですね。さすがは寿桂尼、したたかな外交手腕です。


 今川氏親の正室として駿河国に嫁ぎ、夫の死後、わが子の氏輝、義元、そして孫の氏真と、今川家4代に渡って政務を補佐し、「駿河の尼御台」「女戦国大名」などと称された寿桂尼。実際、桶狭間の戦いで義元が死んだあとも、今川氏が何とかその大名としての面目を保ってこられたのは、寿桂尼のちからだったともいわれ、武田信玄などは、「寿桂尼が生きているうちは駿河を攻められない」と言っていたとか。事実、寿桂尼が死ぬやいなや、信玄は駿河侵攻を開始しますしね。一説には、駿河攻めを開始した信玄は、まず手始めに寿桂尼の墓を破壊してから今川に攻め入ったなんて話もあります。本当に墓から出てきそうな気がしたのかもしれません。まさに、おんな大名・寿桂尼です。


 さて、ドラマに戻って井伊直虎ですが、井伊直親への所業について寿桂尼から問われた直虎は、こう答えます。


直虎「家を守るということは、きれい事だけでは達せられませぬ。狂うてでもおらねば、己の手を汚すことが愉快な者などおりますまい。汚さざるをえなかった者の闇はどれほどのものかと・・・そう思います。」


 涙する寿桂尼。そなたがわが娘であれば・・・と。そして、そのまま寿桂尼はこの世を去る・・・と思いきや、デスノート×井伊直虎」の文字が!!!
曰く、「われに似た女子は、衰えた主家に義理立てなど決してせぬ。」・・・と。
いや~、見事な結末でしたね。さすが、寿桂尼は最後まで寿桂尼でした。今話は、これまででいちばん見応えがあったかも・・・。


 ちなみに上記の直虎の台詞、のちの小野但馬守政次に対する所業の伏線かもしれません。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-17 20:09 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その87 「櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)」 大阪府三島郡島本町

大阪府と京都府の府境近くに位置する「櫻井驛跡」を訪れました。

「駅跡」といっても現代でいうところのそれではなく、古代律令制度下の「駅家」の跡です。

ここは、「楠公父子訣別之所」として知られています。


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『太平記』によると、建武3年(1336年)、九州から大軍を率いて上洛してくる足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、この地で11歳になる嫡子・楠木正行に訓戒を与え、河内国に帰らせたと伝えられています。


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『太平記』巻16「正成下向兵庫事」には、その別れの情景が記されています。


今度の合戦、天下の安否と思う間、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。

正成すでに討死すとききなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代になりぬと心得べし。

然りといえども、いったん身命を助からんるに、多年の忠烈を失いて隣人に出ずること有るべからず。


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史跡公園内に建ついちばん大きな石碑『楠公父子訣別之所』の碑です。

大正2年(1912年)に建立されたそうです。

揮毫は陸軍大将の乃木希典

でも、乃木は明治天皇崩御の際に殉死していますから、この碑が出来たときには、既にこの世にいなかったことになります。


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こちらは、昭和6年(1931年)に建てられた『明治天皇御製碑』で、明治天皇が明治31年(1898年)に詠まれた歌が刻まれています。


「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」


揮毫は海軍大将・東郷平八郎だそうです。


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こちらは、『楠公父子子別れの像』です。

昭和15年(1940年)に建てられた最初の像は銅製だったそうですが、その後、戦争の協力で金属供出され、石像に変わったそうです。

更に時を経て、現在の像は平成16年(2004年)に有志によって寄贈されたものだそうです。


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どうりで、アニメちっくな顔だと思いました(笑)。


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正行の頭上のは、本物です(笑)。


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台座の「滅私奉公」の文字は、公爵・近衛文麿の揮毫です。

昭和15年の「滅私奉公」が何を意味するか・・・、後世の私たちは知っています。


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こちらのは最も古い石碑で、明治9年(1879年)に英国大使パークスが楠木正成の精忠に感じて、「楠公訣児之処」と刻した石碑を建てたそうです。

楠公さんの精忠はインターナショナルのようです。


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こちらは「旗立松」「子別れの松」と呼ばれる古松の幹です。

この松の木の袂で、楠木父子が決別したと伝えられます。

明治30年(1897年)に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存したそうです。


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「桜井の別れ」のエピソードは、戦前の国語の教科書には必ず乗っていた逸話で、「桜井の訣別」という学校唱歌にもなりました。

乃木希典、東郷平八郎、近衛文麿。

戦前の国粋主義バリバリですね。

乃木も東郷も、日露戦争後は生きながらにして神に祀り上げられた人物です。

忠臣の象徴として神格扱いされた大楠公と同じですね。

ただ、正成が後世に神扱いされることを望んでいたかどうかは、定かではありませんが。


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ちなみに、この「桜井の別れ」の逸話は『太平記』のみに記されているだけで、また、当時の正行は左衛門少尉の官職に就いており、年齢はすでに20歳前後だったという説が古くからあり、史実かどうかは疑わしいとされています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-15 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その86 「楠木正成奉納の灯籠(極楽寺)」 大阪市住吉区

大阪市住吉区にある極楽寺に、楠木正成が奉納したと伝わる灯籠があると聞き、足を運びました。

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門の横にある石碑には、「毘沙門天王」と刻まれていたそうですが、表面が削れて「天王」の部分が確認できません。

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その右上には「楠正成」と刻まれていますが、その後は読解できず・・・。

いつの時代に建てられた石碑かはわかりませんが、かなり古いもののようです。


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本堂左に見えるのが、正成が奉納したと伝わる灯籠です。

極楽寺の創建は不明ですが、本尊の毘沙門天は聖徳太子の真作で、ここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられています。


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正成の父が子供を授からないのを悲しみ、この毘沙門天王に50日の願をかけたところ、妻が身ごもり誕生したのが、のちの正成だったとの伝承があります。

この話を父母から聞かされていた正成は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の住吉行幸に同行した折にここに立ち寄り、報恩のため石灯篭を寄進したと伝えられます。


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灯篭には「建武三年三月楠木正成建」の銘があるとのことですが、表面の風化が甚だしく、その銘を確認することはできません。


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でも、建武3年(1336年)3月といえば、打出合戦足利尊氏を撃退してから1ヶ月後のことで、後醍醐天皇の住吉行幸のときではないんじゃないかと。

まあ、伝承なんて、そんなもんでしょうけどね。


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境内には、「正成手植えの楠」と伝わる巨樹がそびえます。

確かに大樹ではありますが、樹齢700年近いとは思えないような・・・。


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伝承が本当なら、正成はこの灯籠を奉納した2ヶ月後、湊川の戦いで討ち死にすることになります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-14 01:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その85 「瓦林城跡」 兵庫県西宮市

兵庫県西宮市にある日野神社を訪れました。

ここは、かつて瓦林城があったとされる場所です。


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白旗城で新田義貞の進軍を阻止した赤松則村(円心)でしたが、赤松軍は播磨だけでなく、摂津にも防衛線を張っていました。

そのなかの拠点のひとつが、ここ瓦林城だったとされます。

湊川の戦い時には、円心の家臣・貴志五郎四郎義氏がこの城を守っていました。


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「貴志義氏軍忠申書」という史料によると、湊川の戦いでは、北の香下寺城丹生山城から押し寄せてきた南朝軍と戦ったとあるそうです。


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その後、しばらく瓦林城という名は古文書から消えますが、やがて16世紀に越水城が出来ると、以後、瓦林城はその支城となります。


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現在は石碑のみが建ち、遺構は見られません。


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拝殿横にそびえ立つ楠の巨木です。

推定樹齢650年だそうで、あるいは、680年前の往時を知っているかもしれません。


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敷地内は「日野神社の森」として、県の天然記念物に指定、保護されています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-13 10:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その84 「鏑射山城跡」 神戸市北区

舞台を東に移して、神戸市北区にある獨鈷山鏑射寺を訪れました。

ここ獨鈷山鏑射寺とその裏山に、かつて鏑射山城があったとされています。


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赤松則村(円心)の家臣・貴志庄の貴志五郎四郎義氏は、建武3年(1336年)3月26日に円心の子・赤松範資に属して湊川の戦いでは南朝軍と戦い、やがてここ鏑射山城に籠城。

翌月2日よりこの地で合戦したといいます。

この戦火により鏑射寺の建物はすべて焼け落ちたそうです。


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現在の獨鈷山鏑射寺の建造物は、すべて近年に建て替えられたもので、当時を偲ぶものはなにも残されていません。


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この三重塔も、昭和48年(1973年)に建てられたそうです。


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こちらの本堂も、見るからに新しそうですもんね。


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標高327メートルの裏山の山頂に向かう山道です。

途中まで登ってみましたが、草深くかなり険しそう。

ここを訪れたのは初夏の7月2日で、マムシが怖かったので、登山は諦めました。


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鏑射寺の戦いで南朝方の攻めに後退した義氏は、13日には摂津西宮の瓦林城に移りました。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-12 00:25 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第27話「気賀を我が手に」 ~義信事件と瀬戸方久城主説~

武田義信、まだ死んでなかったんですね。幽閉の報せが届いたのがずいぶん前(たしか18話)だったので、てっきりもう死んじゃったとばかり思っていました。井伊直虎が城主になって以降、物語の進行がひじょうに緩やかなので、時代背景がわからなくなります。


 義信の幽閉、廃嫡からそのまでを簡単におさらいしておくと、永禄8年(1565年)、義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎(昌国)曽根周防守らが武田信玄暗殺を企てるも、計画は事前に虎昌の実弟・飯富三郎兵衛によって露見し、同年10月、虎昌ら側近たちは謀反の首謀者として処刑されます。その後、義信は甲府の東光寺に幽閉され、義信の正室で今川義元の娘・嶺松院(実名は不明)と強制的に離縁させられ、嫡子としての地位も異母弟の武田勝頼に奪われます。そして2年後の永禄10年(1567年)10月19日、義信は幽閉先にて死去しました。享年30


 ドラマではその死を自害と伝えていましたが、病死という説もあって定かではありません。また、自害説のなかでも、絶望した義信が自らの意志で自害したという説と、信玄に命じられて切腹したという説があります。昭和最後の大河ドラマ『武田信玄』では、前者の設定でしたね。まあ、どんな感情のもつれがあろうと親子ですから、父親が息子を死に追いやったとは思いたくありませんが、一方で、義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなかったともいわれ、対今川氏の方針をめぐって父子の間で対立を深めると、親今川派を一掃するために、信玄自身が自身の暗殺計画をでっち上げて粛清したという見方もあります。さすがは戦国時代、親子といえども血も涙もない話ですが、しかし、見方を変えると、飯富ら側近がすぐさま処刑されたにもかかわらず、義信は2年間生きながらえたことを思えば、やはり、そこには親心があったのかなぁ・・・とも。結局のところ、真相は藪の中です。


 ただ、いずれにせよ、この義信の死が今川氏真にとって大打撃だったことは間違いないでしょう。今川氏にとって武田義信夫妻は武田氏との唯一の架け橋であり、これを失うということは、武田氏との国交断絶、全面対決を意味します。義信の死の翌月には、嶺松院が駿河に送り返されています。ドラマの氏真、荒れてましたね。


 で、話は変わって気賀堀川城ですが、なんか色々あったすえに井伊家が治めることになりましたが、実際には、そのような説は存在しません(たぶん)。ただ、瀬戸方久城主を務めたという説は存在します。というのも、この時期、方久は今川氏真に取り入り、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得る代わりに、堀川城、刑部城などの築城の費用を請け負っていたといわれます。また、堀川城の城代として入った大沢基胤配下の新田友作という地元領主が、後年、出家して「法休喜斎」と名乗っていたそうで、これらの逸話から、新田友作と瀬戸方久が同一人物ではないか、というんですね。まあ、俗説ではありますが、ドラマでは、方久は井伊家の家臣という設定ですから、方久が城主(あるいは城代)になるのであれば、堀川城は井伊家のものということになるんでしょうね。


 もっとも、盗賊団が城の普請をするなんて話は、古今東西聞いたことがありません。まあ、城といってものようなものだったでしょうから、気賀の領民が工事を手伝ったということはあったかもしれませんが、設計を任すなんてことはありえません。盗賊に設計なんてさせるから、あんなヘンテコリンな城になっちゃうんですよ。満潮干潮を利用した画期的な設計だそうですが、湖といえども荒波もあれば高波もあります。あの城、波浪警報が出たら一巻の終わりだと思いますよ。


 「大したものだ」(政次)


どこが!!!(笑)



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# by sakanoueno-kumo | 2017-07-10 21:41 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)