おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


e0158128_18560626.jpg

公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


e0158128_18581898.jpg
e0158128_18590676.jpg

石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


e0158128_19001504.jpg

公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


e0158128_19022052.jpg

そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


e0158128_19042518.jpg

名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


e0158128_19042952.jpg

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


e0158128_19043466.jpg

討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


e0158128_19075055.jpg

後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


e0158128_19101138.jpg

こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


e0158128_19113460.jpg

裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


e0158128_19124501.jpg

この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その107 「千種忠顕戦死之地」 京都市左京区

前稿で紹介した雲母坂を登ること約1時間半、標高660mのあたりに、「千種忠顕戦死之地」と刻まれた大きな石碑があります。

ここは、比叡山に逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を守っていた千種忠顕が、攻め寄せる足利直義軍と激戦の上、討死した場所と伝えられます。


e0158128_17512813.jpg

千種忠顕は早くから後醍醐天皇の近臣として仕え、元弘2年(1332年)の元弘の乱で天皇が隠岐島配流となると、これに付き従います。


e0158128_17513455.jpg

そしてその翌年、天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて再び挙兵すると、伯耆国の名和長年とともにこれを助けます。

そして、楠木正成赤松則村(円心)らが京を奪還すべく各地で奮戦している報を受けると、天皇は忠顕を山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

千種軍は進軍途中で増え続け、『太平記』によると、その数20万7千騎にも及んだとか。

京に上った千種軍は赤松円心の六波羅探題攻めに加わり、やがて足利高氏(尊氏)寝返りもあって天皇方が勝利し、鎌倉幕府は滅亡します。


e0158128_17535842.jpg

建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、莫大な恩賞を受けますが、贅沢三昧の暮らしぶりが新政の批判の対象となり、出家に追い込まれます。

やがて、足利尊氏が新政に反旗を翻すと、忠顕は新田義貞北畠顕家らと共に天皇方として尊氏を追い、九州へ駆逐しました。

しかし、再び力を得た尊氏が「湊川の戦い」にて楠木正成を打ち破ると、忠顕は新田義貞らと共に天皇を比叡山に逃し、比叡山西側の登山道・雲母坂、つまりこの地にて足利軍と激突。

そして討死しました。


e0158128_17540251.jpg

『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」によると、足利軍は三石岳、松尾坂、水飲より三手に分れて攻撃し、迎え討つ千種忠顕、坊門正忠300余騎はよく守るも、松尾坂より進軍してきた足利軍に背後を突かれたため、一人残らず討死、全滅したとされています。


e0158128_17554946.jpg

石碑は千種家の子孫によって大正10年(1921年)5月に建てられたもので、高さは3m、巾65.5cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は直径約9mあります。

石碑にはめ込まれている銅板は、明治・大正の歴史学者・三浦周行によって撰文されたものです。


「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。

大正十年五月

文学博士 三浦周行撰並書」


e0158128_17571998.jpg

ここを訪れたのは4月22日で、外界のは散ってしまっていたのですが、標高660mのこの地では、まだ桜が残っていました。


e0158128_17581499.jpg

また、ここから北へ200mほどの登山道の端に「千種塚旧址」と刻まれた小さな石碑がありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようでした。


e0158128_17591945.jpg

「千種忠顕戦死之地」から少し南西に下ったところにある休憩所からの眺望です。

京都市内が一望できます。

写真右下の小高い山が宝ヶ池、その向こうに見える山が金閣寺などのある北山地区で、さらに遠くに見えるのが、嵐山です。

写真中央左に見える小さな森が下鴨神社で、その左奥に見える大きな森が京都御所、さらにその向こうには、二条城が見えます。

比叡山と都を結ぶこの雲母坂は、1000年以上、すっと京の町を見下ろしています。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-18 20:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その106 「雲母坂~雲母坂城跡」 京都市左京区

延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦い楠木正成が討死し、退却した新田義貞が京に戻ってくると、足利尊氏軍の追撃を防ぐため、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を京から比叡山に移します。

そして、東坂本(現在の滋賀県側)を新田義貞名和長年が守り、西坂本(現在の京都府側)を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。

そして6月7日、尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂(きららざか)で激しい戦闘となります。


e0158128_17160425.jpg

比叡山につながる登山道・雲母坂は、現在ハイキングコースとなっています。

叡山電鉄修学院駅から登山道に向かう途中には、「千種忠顕卿遺跡是ヨリ三十町」と刻まれた古い石碑があります。


e0158128_17173973.jpg

雲母坂へは、音羽川沿いに上流を目指して歩きます。

前方には、標高848mの比叡山が聳えます。


e0158128_17193229.jpg

川沿いを10分ほど歩くと、雲母坂の入口、雲母橋に到着します。


e0158128_17204376.jpg

橋を渡ると「親鸞上人旧跡きらら坂」と刻まれた石碑が。

雲母坂は平安時代から都と比叡山を結ぶ主要路として利用され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳のときに出家して叡山修行のためこの坂を登り、29歳のときに叡山と決別し、この坂を下りたと伝わります。


e0158128_17214893.jpg

石碑を過ぎると、いよいよガッツリ登山道です。


e0158128_17224081.jpg

登山道に入ってすぐのところにある、「雲母寺跡」と刻まれた小さな石碑。

雲母寺は平安時代に建立された寺院で、現在は別の場所に移設されています。


e0158128_17260868.jpg

雲母坂の登山道は長年の浸食によって深いV字形になっており、谷底歩いているような気分になります。


e0158128_17281060.jpg

足利軍が雲母坂から西坂本へ攻撃してきたのを見た千種忠顕は、京の南に布陣させている四条隆資に背後をつかせて足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていたといいますが、四条軍も苦戦しており、雲母坂に駆けつけることができませんでした。

また、万一の場合、東坂本を守る新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていましたが、それも上手く連携がとれず、千種軍は全滅、忠顕も討死します。


e0158128_17302684.jpg

雲母橋から30分ほど登ると、標高330mあたりで少し尾根道になるのですが、しばらく尾根道を進んだところに、こんもりとした丘陵があり、なにやら標示板が見えます。


e0158128_17322964.jpg

近づいて見てみると、なんと、「きらら坂城跡」と記されています。

えっ? ここって城跡だったの?


e0158128_17343794.jpg

早速スマホでググってみると、築城年代や築城者については詳らかでないものの、土塁跡が約70~80mに渡っており、城跡と考えられているようです。

城跡というより、砦跡といった方がいいのかもしれません。


e0158128_17344285.jpg

その立地から考えて、千種軍と足利軍の戦いにこの砦が利用されなかったはずはないでしょうね。

どちらがここを陣としたかはわかりませんが、ここから少し登ったところに、足利軍が陣を布いた「水飲」というところがあり、あるいは、ここも足利軍に占領されていたかもしれません。


e0158128_17365074.jpg

で、城跡から10分ほど登ったところにある、「水飲」です。

端には「水飲対陣の碑」が建てられています。

「水飲」という名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されているそうです。

たしかに、川のせせらぎの音が耳を和まさてくれました。


e0158128_17365467.jpg

『太平記』によると、ここ「水飲」に陣を布いた足利軍は、ここから三手に分かれて攻撃を開始し、千種軍もよく防戦したものの、足利軍に背後をつかれて一人残らず討死したといいます。


e0158128_17395248.jpg

「水飲」から200mほど登ったところに、「浄刹結界趾」と刻まれた石碑があります。

この浄刹結界は比叡山と外界との境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。

この石碑は、大正10年(1921年)3月に建てられたものです。


e0158128_17395787.jpg

ここをさらに30分近く登ると、「千種忠顕戦死之地」と伝えられる場所があるのですが、長くなっちゃったので次稿にて。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-17 23:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その105 「楠木正季・和田和泉守重次の墓(寶國寺)」 大阪府和泉市

大阪府和泉市にある寶國寺にやってきました。

ここに、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで、兄・楠木正成と刺し違えて自決した弟・楠木正季の墓があります。


e0158128_17042859.jpg

自決後、兄・正成の首級は京都六条河原で晒された後、足利尊氏の命で河内国の観心寺に届けられ、首塚として祀られたと伝えられますが(参照:その101)、正成に殉じた者たちがどうなったかは伝わっていません。

普通に考えれば、兄と一緒に弟の首も京都六条河原に晒され、その後、楠木家の菩提寺である観心寺に送られたと考えるのが自然だと思うのですが、観心寺に正成の首塚しかないことを思えば、正季の首は、違うルートで葬られたことになるのでしょうか?

でも、じゃあ、なぜ和泉国の寶國寺なのか、はっきりした理由はわからないようです。


e0158128_17054091.jpg

手前の細長い墓碑と、その向こうの低い自然石の墓石と、どちらが正季の墓石かわかりません。


e0158128_17085523.jpg

細長い墓石の裏を見ると、「楠木正成弟和田二郎正季 嫡子和田和泉守重次 墓碑」と刻まれています。

和田二郎とは、正季の改名。

和田和泉守重次という人物がわからないのですが、「嫡子」とありますから、正季の息子ということでしょうか?


e0158128_17093234.jpg

自然石の墓石の台座には、「和田墓」と刻まれています。


e0158128_17104006.jpg

『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」と答えたというくだりは有名ですね。

吉川英治の小説『私本太平記』でも、兄より忠誠心の熱い男に描かれています。

兄の首塚はたくさんありますが、弟は、こんなところにひっそりと眠っていたんですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-16 23:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その104 「楠木正成首塚(杜本神社)」 大阪府羽曳野市

大阪市羽曳野市にある杜本神社にも、楠木正成首塚があると聞いて訪れました。


e0158128_14594602.jpg

神社入り口には、「水分神社併楠公遺物陳列場」と刻まれた石柱があります。

「水分神社」とは、「その21」の稿で紹介した千早赤阪村にある建水分神社のことだと思いますが、「楠公遺物陳列」というのは、正成の首ってことでしょうか?


e0158128_15020624.jpg

鳥居をくぐって丘の上にある本殿を目指します。


e0158128_15034854.jpg

こちらは拝殿です。


e0158128_15053919.jpg

由緒書きには、たしかに「大楠公首塚」が紹介されています。

それによれば、河内に送られてきた正成の首を、この地に密かに隠して敵の目を逃れたとあります。


e0158128_15092388.jpg

拝殿横の小さな鳥居をくぐります。


e0158128_15104607.jpg

その奥に、さらに小さな鳥居があります。


e0158128_15112547.jpg

その奥にある小さな祠には、「南木神社」と書かれています。

「南木神社」は、千早赤阪村の建水分神社境内にある、楠木正成を祀った最古の神社です。

その横に、隠れるように五輪塔が見えます。


e0158128_15141442.jpg

どうやらこれが、「大楠公首塚」のようです。


e0158128_15141803.jpg

たしかに、かなり古いもののようですね。


e0158128_15142291.jpg

花立には、「楠公御墳前」と刻まれています。


e0158128_15154442.jpg

まあ、英雄であればあるほど、この種の伝承は数多く存在するものですが、それにしても、楠公さんの首ってどんだけあんねん!って感じですね。

ほとんどキングギドラ八岐大蛇状態です(笑)。


e0158128_15165353.jpg

ちなみに『太平記』とは無関係ですが、楠公首塚のすぐそばに、奈良時代の左大臣・藤原永手の墓があったので、せっかくなので掲載しておきます。

どんな人物かは、調べてください(笑)。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-13 16:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その103 「楠木正成首塚(観心寺)」 大阪府河内長野市

楠木正成廟所「その94」で紹介した神戸市の湊川神社にありますが、前稿で紹介した大阪府河内長野市にある観心寺には、正成の首塚があります。


e0158128_14350426.jpg

こちらが正成の首塚です。

石碑に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


e0158128_14362155.jpg

まるで天皇陵のような厳かさです。


e0158128_14372454.jpg

門扉には、楠木家の家紋「菊水」があります。


e0158128_14415622.jpg

墓石は五輪塔です。

高さは1mほどでしょうか?

特に立派なものではありません。


e0158128_14443175.jpg

湊川の戦いに敗れ、弟・楠木正季と差し違えて自刃した正成の首は、一時、京都の六条河原に梟首されますが、その後、足利尊氏の命により、ここ観心寺に届けられて首塚として祀られたといいます。


e0158128_14443455.jpg

『太平記』巻16「正成首送故郷事」では、正成の首が届けられたときのことを、こう伝えます。


貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。


父・正成のあまりにも変わり果てた姿を見た11歳の嫡男・楠木正行は、父の形見の刀で自害しようとした・・・と。

これを見た母・久子は急いで駆け寄り、こう叱責します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


e0158128_14482557.jpg

傷んで読みづらいのですが「詠楠木正成卿歌短謌」と刻まれているようです。

正成関連の歌を集めた碑でしょうか?


e0158128_14483633.jpg

墓所横に建てられた忠魂塔です。


e0158128_14475122.jpg

寺領には、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)陵もあるのですが、また別の機会に紹介します。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-11 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その102 「観心寺」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある観心寺を訪れました。

ここは、観心寺は楠木正成一族の菩提寺で、正成の少年時代の学問所だったという伝承もあります。


e0158128_14143519.jpg

山門横では、正成の騎馬像が迎えてくれます。

神戸の湊川公園の騎馬像よりは小振りなものです。


e0158128_14151526.jpg

逆光の撮影なのでわかりにくいですが、精悍な顔をしています。


e0158128_14163545.jpg

観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年) に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


e0158128_14181309.jpg

国宝の金堂です。

14世紀に入ると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は当寺を厚く信任し、建武の新政成立後(1334年ごろ)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営のを出し、 現在の金堂ができたそうです。


e0158128_14193776.jpg

金堂は「折衷様建築」の代表作といわれているそうです。

寺院建築には、鎌倉以前から寺院建築として用いられた地震に強い「和様」、鎌倉時代初期にに東大寺再建にあたって採用された大形建築に対応できる「大仏様」、同じく鎌倉時代初期に禅宗と共に日本に伝わった「禅宗様」があるそうですが、「折衷様」は、その良いとこ取りをした建築様式のことをいうそうです。

かつては折衷様のことを「観心寺様」とも呼んだほど、この金堂が折衷様を代表する建物なんだそうです。


e0158128_14202564.jpg

金堂は大阪府下最古の国宝建築物といわれているそうで、これまで、17世紀はじめの豊臣秀頼の時代、江戸時代中期、明治の初め、昭和の初めに修理が行われ、昭和59年(1984年)に昭和大修理が行われ、現在に至っています。


e0158128_14224714.jpg

こちらは、重要文化祭の建掛塔です。

正成は報恩のため三重塔の建立に着工したと伝わりますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が戦死したため工事はストップし、“建掛(たてかけ)”の塔として今に残ってと伝わります。


e0158128_14242175.jpg

のちに屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられたそうです。

たしかに、これ単体のお堂と見るには、やけに屋根が大きくてアンバランスな気がしないでもないです。

でも、正成が死んでも、その子供たちが遺志を継いで完成させることはできたはずなんですけどね。

境内には、楠木正成の首塚と伝えられる場所がありるのですが、続きは次稿にて。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-10 21:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その101 「真光寺」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある真光寺を訪れました。

一遍上人が中興の開祖として知られる同寺ですが、「湊川の戦い」の戦後、足利尊氏楠木正成供養を行ったと伝わる寺でもあります。


e0158128_13595756.jpg

正成の首は前稿で紹介した阿弥陀寺の石の上で首実検が行われたあと、京の六条河原1日だけ晒されますが、その後、尊氏はここ真光寺において正成の大供養会をとりおこない、首は正成の本拠地である河内の水分に届けさせたと、『太平記』は伝えます。

正成と袂を分かつことになった尊氏でしたが、かつての戦友の死を、決して粗末に扱わなかった点、尊氏も思うところがあったのかもしれませんね。


e0158128_14035653.jpg

現在の境内には、その歴史を知らせてくれる史跡はありません。


e0158128_14051540.jpg

真光寺はたいへん大きなお寺で、一遍上人が没した寺だと伝わります。

境内の一角には一遍上人の廟所があり、五輪塔は国の重要文化財に指定されています。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

# by sakanoueno-kumo | 2017-08-09 23:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)