IE9ピン留め

平清盛 第6話「西海の海賊王」

 保延元年(1135年)4月、平清盛の父・平忠盛に瀬戸内海に荒らしていた海賊討伐の命が鳥羽院より下った。この当時、瀬戸内海では海賊がはびこり、数十艘の船を操って輸送船を襲い、乗員を殺害して貨物を略奪していた。のちに西国では“水軍”と呼ばれる武力集団が生まれるが、その前身がこの頃から形成されつつあったのである。

 忠盛はこの6年前の大治4年(1129年)にも一度、山陽・南海道の海賊討伐を命じられており、おそらく、このときの手腕が買われたのだろう。公卿たちの忠盛の人選の理由は「西海に勢力を有する」というものだった。このとき、もうひとりの候補としてあげられていたのが源義朝の父・源為義である。公卿たちが最終的な判断を鳥羽院に委ねたところ、「為義では追討使が進む路次の国々が滅亡してしまうので忠盛がよいであろう」という指示があったため、忠盛の派遣が決定されたという。為義では国々が“滅亡”してしまうというのは、西国に地盤のない追討使を派遣することで、かえって混乱を生じるかもしれないといった懸念からだったのであろう。その点、忠盛はすでに伯耆や備前などの西国の受領を歴任し、6年前の海賊追捕の実績もあった。源氏一門は、またしても伊勢平氏の後塵を拝すことになったのである。

 清盛がこの追討に参加したかどうかは記録が残っていないのでわからない。ただ、当時清盛は18歳であり、父に従って参戦していたと考えるのが妥当であるかもしれない。平氏にとって海賊討伐は、瀬戸内海の水軍や在地武士を組織して西国に幅広く平氏の勢力を拡大するためのものでもあった。時期棟梁である清盛の姿を、西国衆に披露する良い機会にもなったはずである。ドラマのとおり、清盛にとってこれが初めての実戦経験だったかもしれない。

 まるで、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』ジョニー・デップが演じているジャック・スパロウのような扮装で登場した西海の海賊王・兎丸だったが、彼はドラマオリジナルの架空の人物。おそらくドラマでは、この兎丸が清盛の水軍形成の柱となっていくのだろう。だた、実際にも海賊討伐の際に、こうして能力のある人材と主従関係を結んで、平氏の清涼の拡大をはかっていたとしてもおかしくはない。その意味では、清盛にとってこの初陣は、武勇を磨く以上の意味があったといっていいだろう。

 鳥羽院から海賊追討を命じられてからわずか4ヵ月、捕虜にした海賊たちを引き連れて、忠盛率いる平氏軍が京に凱旋した。これにより、京における平氏の武威はいやが上にも高まっただろう。だが、華やかな凱旋パレードの影では、黒い噂が囁かれてもいたのである。忠盛が京に連行してきた海賊たちは、日高禅師をはじめとする70人であったとされるが、そのうち28人が検非違使に引き渡されたものの、忠盛の家人ではない手下を「賊虜」と称して引き渡したに過ぎないというのである。忠盛にとっての海賊討伐は、西国の武士との主従関係を強める機会であったとともに、平氏の武勇を京の人々に示すためのパフォーマンスでもあったようである。


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# by sakanoueno-kumo | 2012-02-13 01:08 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0) 

大平シローさんの急逝を悼む。

元漫才師の大平シローさんの急逝の報に驚いています。
私は、昭和の漫才ブームが中学生の頃で、『THE MANZAI』にどっぷりハマった世代です。
太平サブロー・シローといえば、同時代の紳助竜介ツービートB&Bザ・ぼんちのりおよしおなどの漫才ブームのメーバーの中では一番若手で、少し遅れて出てきたコンビだったと記憶しています。
どちらかと言えば、当時のメンバーの中では地味な存在だった印象がありますが、しかしそれは上述した他のメンバーがあまりにも強烈なインパクトを持ったコンビたちが揃っていたからで(おさむちゃんやのりおさんなんて、ほとんどインパクトだけと言ってもいいかも)、“上手さ”という点でいえば、サブシロが一番だったように思います。
ツービートの「コマネチ」やB&Bの「もみじまんじゅう」のような定番ギャグというものをほとんど使用せず、純粋に“しゃべくり”だけで笑いを取っていた数少ない正統派のコンビだったといえるのではないでしょうか(強いてサブシロのギャグをあげるとすれば「ちょっと田中は〜ん」ぐらいでしょうか・・・笑)。
実際、上述した他のコンビがブームが去るやいなや尽く漫才コンビを解散していったのに対し、サブシロの漫才はブームが去ってからもさらに支持され、上方漫才大賞をはじめ数々の賞を受賞していることからも、彼らの漫才がいかにクオリティの高いものであったかがわかります。
あのまま吉本興業に所属していたら・・・と、今さらではありますが、惜しまれる思いです。

以前、相方の大平サブローさんがテレビで言っていましたが、シローさんは基本的に漫才の台本を書かなかったそうで、出番当日に「俺が酔っぱらいやるから、サブやんはそれに絡まれる役をやってくれ」とだけ言われて、それだけで漫才をやってしまうことがほとんどだったそうです。
また、台本があるネタをやる場合も、シローさんはアドリブで台本をドンドン離れていこうとし、サブローさんは必死でそれを戻そうとするといった感じで、毎回どんな仕上がりになるかサブローさんにはまったく予想がつかなかったと語っていました。
そんな、ほとんどネタ合わせなしで簡単な打合せだけで会場を大爆笑させてしまう彼らの才能に、オール阪神・巨人島田紳助さんなどの仲間たちは舌を巻いたとか。
しかし、そんな天才肌のシローさんのやり方についていくサブローさんは必死だったようで、自分とシローさんの才能の違いに毎回悩んだそうです。
観ている私たちにしてみれば、完成された名人芸に思えましたが、やってる彼らはいつも戦いだったんですね。
後年、喧嘩別れして絶縁状態になったといわれる二人ですが、サブローさんはシローさんという天才芸人と一緒にやれたことで今の自分があると語っていました。
もう一度見たかったですね。



吉本興業に反旗を翻したことで干されたかたちとなり、売れっ子の座から転落してしまった二人でしたが、その後コンビ解散したのちにサブローさんだけが吉本興業に復帰。
その際、明石家さんまさんや島田紳助さん、オール巨人さんに伴われて吉本に謝罪したという話は有名ですね。
一方のシローさんは、自身が率先して啖呵を切って飛び出したという経緯や、天才であるがゆえのプライドが邪魔して謝罪を頑なに拒んでいたそうですが、その才能を惜しんだ島田紳助さんが吉本に掛け合ったといわれ、サブローさんに送れること6年後に吉本に復帰しました。
しかし、復帰したシローさんには残念ながら以前のようなキレはなく、紳助さんの番組に出演していたシローさんを観たことがありましたが、見ていてツライものがありました。
一方のサブローさんは、天才シローさんの相方として鍛えた経験が生きてか、やしきたかじんさんや上沼恵美子さんなど関西の大物MCの脇を固めるスーパーサブとして、関西のテレビではほぼ毎日見る顔となっています。
東京でいえば、関根勤さんのようなポジションといっていいでしょうか。
天才といわれたシローさんが芸能界から姿を消し、凡才(というと失礼かもしれませんが、本人がそう言っているのであえてそう言わせていただきます)だったサブローさんが今も売れっ子として活躍しているというのは何とも皮肉な話で、人生とはわからないものですね。

ちなみに、私の青春時代は『オレたちひょうきん族』と共にあったといっても過言ではない世代です。
シローさんのデーモン小暮マドンナのモノマネは、抱腹絶倒ものでした。
雁之助はんのモノマネにいたっては、当時学校でみんな真似してましたよ(笑)。
「いやっ、えらいとこ見つかってしもうたわ!」・・・(笑)。
ユーチューブで探してみたけど見つかりませんでした。

55歳は早すぎますね。
心よりご冥福をお祈りします。


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# by sakanoueno-kumo | 2012-02-10 22:51 | 芸能 | Trackback | Comments(0) 

ドラマ『運命の人』にみる、「国民の知る権利」の危険性。

今、『運命の人』という連続ドラマをやってますよね。
『白い巨塔』『華麗なる一族』『沈まぬ太陽』などで知られる山崎豊子氏の原作小説のドラマ化で、今から約40年前の沖縄返還密約をめぐり元新聞記者が逮捕されたという実際の事件を下敷きにした物語です。
当時、私は4歳でしたからこの事件を知るはずもなく、原作小説も読んでいないので何の予備知識もありませんが、さすがは数々の名作を世におくりだした巨匠の作品、第一話を見逃したにもかかわらずハマっております。
物語も引きこまれますが、当時の政治家さんたちを演じられる俳優さんたちのキャスティングがハマり過ぎてて笑っちゃうほどなんですよね。
田中角栄元総理をモデルとした田淵角造役の不破万作さんや大平正芳元総理をモデルとした小平正良役の柄本明さんなど、いずれも「上手いな〜」と感心してしまいますし、福田赳夫元総理をモデルとした福出武夫役の笹野高史さんなんて、はっきり言ってそのまんまですよ(笑)! 
佐藤栄作元総理をモデルとした佐橋総理役の北大路欣也さんは少々カッコよすぎる気がしないでもないですが、これは物語の役どころ上、仕方がないでしょうね(まあ、実際の佐藤栄作氏もダンディーな人でしたけどね)。

で、先日第4話を観ましたが、物語は本木雅弘さん演じる主人公の弓成記者が、外務省の機密文書漏洩に際して、真木よう子さん演じる外務省勤務の女性事務官に機密文書を持ち出すようそそのかした罪で逮捕されてしまいます。
一方その頃、弓成記者が所属する毎朝新聞社では「報道の自由を守ろう」という気運が高まり、他の新聞社も巻き込んで「国民の知る権利」をうたった一大キャンペーンが展開され、逮捕拘束中の弓成記者は一躍世論によって英雄視され、釈放に至ったとう話でした。

実際のこの事件のときもドラマのような世論だったのかは、当時4歳だった私は知るはずもありませんが、ドラマ中やたらと連呼されていた「国民の知る権利」という言葉は、私たちも記憶に新しい言葉ですよね。
そう、一昨年の尖閣諸島沖漁船衝突事件の折り、当時の菅直人内閣が公開していなかった衝突事件の一部始終が撮影された動画を、「sengoku38」なる登録名を名乗った現職の海上保安官が無断でYouTube上に投稿した、あの尖閣ビデオ流出事件の際です。
あのときの世論も「国民の知る権利」が声高にうたわれ、sengoku38氏の行動を「よくやった!」と支持するといった声が大半を締め、一躍時の人として英雄扱いされていました。
でも、当時は言うと袋叩きに合いそうな雰囲気だったので発言しませんでしたが、私は正直言って彼を英雄扱いする空気は危険極まりないと思っていましたけどね。

たしかに映像を見れば、国家機密に値するような内容だとはとても思えず、政府が何を頑なに秘匿しているのか理解に苦しむものでしたが、だからといって、政府が国家機密としているものを、国家公務員の末端の一兵卒である海上保安官が独断で公開するなどあってはならないことで、そこが崩れたら国家は成り立たなくなるんじゃないでしょうか。
「国民の知る権利」はたしかに大切ですが、その前に公務員には守らなければならない秘匿義務があり、この行動を許せば、第二第三のsengoku38氏を生むことになり、それはともすれば国家の秩序を破綻させることで、その先に見えるのは国の破滅といっても大げさではないと思えるわけで・・・。
にもかかわらず、sengoku38氏の行動は「愛国心に燃えた憂国の士だ」などと擁護され、半ば世論に負けるようなかたちで不起訴処分となり、海上保安官という職は自主退職というかたちで辞めることになったものの、その後、著書を出版したり、コメンテーターとしてテレビやラジオに出演したりと、ちょっと勘違いしていませんか?・・・と言いたくなるようなご活躍ぶりです。

このドラマの主人公のモデルである元新聞記者の西山太吉氏は、公務員でもないのに国家公務員法違反の罪を問われ、当時の国家権力によって葬り去られた人物といっていいのでしょう。
一方、本来ならば国家公務員法違反の罪を問われても仕方がなかったsengoku38こと一色正春氏は、今やまるでウィキリークスの創設者、ジュリアン・アサンジ氏のような英雄扱いです。
この違いは、この三十余年でそれだけ日本は進歩した良い国になったということでしょうか?
私には、その逆に思えてならないですけどね。

話をドラマに戻しますが、主人公の弓成記者のライバルで、大森南朋さん演じる読日新聞政治部の山部記者のモデルは、ナベツネさんこと渡邉恒夫氏だそうですね。
何ともカッコよすぎる配役ですが、あろうことか、ご本人がその人物像にクレームをつけているそうで・・・。
なんでも、料亭で政治家(田中角栄のモデル)にペコペコしながらごちそうになったり、買収される下等な「たかり記者」のように描かれていることを、そんな事実はないとして激怒しているとか。
いつものことながら、態度はデカイけど度量は小さい人ですね、このジイさんは・・・。
ムキになって怒ったほうが、かえって図星なんじゃない?・・・と思われちゃいますよ。


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# by sakanoueno-kumo | 2012-02-09 20:42 | その他ドラマ | Trackback | Comments(2) 

平清盛 第5話「海賊討伐」

 「おまえは人ではない・・・“もののけ”だ。」
と、ドラマでは、およそ人の気持ちがわからない天然系の悪女として描かれている待賢門院璋子。たしかにあれでは、鳥羽院が“もののけ”と罵りたくなるのも無理はない。ある意味、歴史を大きく動かしたといえる彼女。実際にはどんな女性だったのだろうか。

 鳥羽上皇(第74代天皇)の后妃として知られる待賢門院(藤原璋子)美福門院(藤原得子)。もちろん、他にも后妃はいたようだが、天皇の生母となったのはこの二人だけである。この時代、天皇に複数の皇后がいた場合、そのうちの一人を中宮と呼んだが、武家の正室と側室とは違って、中宮と皇后との間には待遇などの面で大差はなかったようである。待賢門院璋子は崇徳上皇(第75代天皇)、後白河上皇(第77代天皇)の生母で、美福門院得子は第76代・近衛天皇の生母となった。

 待賢門院璋子は、藤原北家の傍流である閑院流当主・藤原公実光子(隆方の娘)の間の末娘として、康和元年(1101年)にこの世に生を受けた。生母・光子は鳥羽上皇、第73代・堀河天皇の乳母をつとめた女性だったというが、その縁あってか、璋子は白河上皇(第72代天皇)の寵妃であった祇園女御の養女となったとされている。さらに璋子はその祇園女御の縁で、白河上皇にもことのほか可愛がられて育ったという。

 2人の愛情を受けて美しい女性に成長した璋子は、16歳となった永久5年(1117年)に白河上皇の孫である鳥羽天皇の後宮に入内させられ、翌年、皇后の宣旨を受け中宮となる。当時、鳥羽天皇は14歳。璋子は絶世の美女だったといわれ、14歳の鳥羽院にしてみれば、2歳年上の璋子の美しさに心を奪われるには、さして時間はいらなかっただろう。ただ、14歳と16歳のカップルで、現代で言えば、夫・中学2年生と妻・高校1年生。心身ともに夫婦となり得ていたかは微妙なところで、この翌年に生まれた第一皇子(崇徳天皇)が、鳥羽天皇のではないのでは・・・といった醜聞が飛び交うのも無理はなかった。しかも、その胤の主が、鳥羽天皇の祖父であり璋子の養父でもある白河上皇だというのである。

 実際に白河院の璋子に対する溺愛ぶりは尋常ではなかったようで、たとえば『今鏡』によれば、幼いながらの類稀なる美貌の持ち主だった璋子を、白河院は毎夜懐に抱いて就寝した、と記されているらしい。また、白河院は適齢期となった璋子を、最初は関白・藤原忠実の嫡男・藤原忠通との縁組を進めようとするが、忠実の猛烈な反対により破談となり、やむなく孫の鳥羽院に入内させた、という逸話もある。この辺りの経緯は忠実の日記『殿暦』に詳細に記されているそうで、璋子が生んだ第一皇子が白河院の胤であるとの記述も、この日記に認められるそうである。真実は定かではないが、忠実・忠通はこの縁談話の破談によりしばらく中央政界から失脚させられており、そんなリスクを負ってまで破談に持ち込んだ事実を思えば、事実か否かはともかく白河院と璋子の不埒な噂というのは当時からあったのだろう。忠実はこの日記の中で璋子のことを、「奇怪不可思議の女御」と評している。

 そんな白河院と璋子の乱淫な噂を鳥羽院も知っていたようで、崇徳天皇のことを「叔父子」と呼んで冷遇したと伝えられる。実際にどちらの胤であったかは璋子しか知る由もないが、鳥羽院がそう信じて疑わなかったところを見れば、鳥羽院には男としての身に覚えがなかったのかもしれない。自身の嫁さんと祖父が密通していたなんて、男としてこの上ない屈辱だと思うが、にもかかわらず白河院、鳥羽院、璋子の三人の関係は壊れることなく、三人仲良く連れ立って紀伊熊野参詣に赴くことも一度や二度ではなかったとか。現代の感覚では理解しがたい三角関係である。その後も璋子は鳥羽院との間に五男二女も儲ける。白河院に逆らえなかったという理由もあっただろうが、璋子はよほど魅力的な女性だったのだろう。

 白河院と鳥羽院の二代を手玉に取った魔性の女・待賢門院璋子。ドラマでは、デリカシーの欠片もない天然キャラに描かれているが、男は往々にしてこの種の悪女に弱いものである(もちろん美人であることが大前提だが・・・笑)。これが計算された悪女なら男次第で変わりようもあるが、天然だから余計にタチが悪い。そんな“もののけ”・・・“奇怪不可思議の女御”に危うくハマりかけた男性は、現代でも結構いるのでは・・・? 


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# by sakanoueno-kumo | 2012-02-06 20:48 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2) 

やしきたかじんさんに見る、“東京嫌い”を痛快に思う関西人。

今週、歌手でタレントのやしきたかじんさんが初期の食道がんであることが判明、治療のためにしばらく芸能活動を休止するという発表がありましたね。
やしきたかじんさんといえば、言わずと知れた関西芸能界のドン的存在で、テレビの高視聴率番組を複数かかえる“浪速の視聴率男”の全番組降板にテレビ局は混乱しているようです。
関西以外の地域に住む方々にどれほど知名度があるかはわかりませんが、私たち関西人にとっては、昨年の島田紳助さんの突然の引退に匹敵するほどの衝撃・・・といえば、たかじんさんが関西でどれほどの格のタレントさんであるかがおわかりいただけるかと思います。
ここ2日ほど、関西発のテレビやラジオではこの話題でもちきりですが、東京発のワイドショーなどではほとんど取り上げられていなかったようですね。
どこの地方にもご当地タレントさんというのはいるでしょうが、たかじんさんほど極端な例は珍しいのではないでしょうか。

その理由は、たかじんさんの極端な“東京嫌い”によるものだというのは、関西では周知のところですね。
かつては、引退した上岡龍太郎さんも同じ理由で東京行きを嫌っていましたし、若き日の笑福亭鶴瓶さんも、東京の芸能界は性に合わないといって頑なに関西を動かなかった時期がありましたが、いずれものちに東京進出を果たし、それぞれに確固たる地位を築かれました。
たかじんさんも20年ほど前に一度東京進出したこともあったのですが、その際、東京キー局の番組が利権しがらみのために制約が多いことや、すぐ掌を返す体質や極端に横柄な態度が気に入らず、自分のやり方を否定するプロデューサーやディレクターを殴ったりしたそうで、半年ほどで関西に帰ってきました。
まあ、そもそも彼の東京に対する偏った先入観から、「何かあったらいつでも喧嘩してやる」といった攻撃的な気構えが招いた結果だったように思えますが、それ以後、たかじんさんの“東京嫌い”はさらに筋金入りとなり、今では関西発の彼の番組が東京で放送されることすら拒否する始末で・・・。
実際、彼の現在の人気番組『たかじんのそこまで言って委員会』は日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたそうで、制作元の大阪読売テレビもこれを望んでいたそうですが、肝心のたかじんさんが「関東には絶対流させない」「関東で放送するくらいならこの番組を辞めさせてもらう」と頑なに拒否し、圧力をかけ、結果、日本テレビ側にネットを断念させたそうです。
東京と大阪ではタレントさんのギャランティーの額が一桁違うなんて話も聞きますし、関西以外の方にしてみれば、何故そこまで頑ななのか理解に苦しむかもしれませんが、関西人はこのたかじんさんのこだわりに呆れることはあっても冷笑する人はほとんどなく、むしろ、そんな彼の言動を痛快に感じる空気さえあります。
それはちょうど、阪神ファンが阪神の勝利よりも巨人の敗戦に快感を覚えるのと同じで・・・。
この空気感は、関西人にしかわからないでしょうね。

関西人(この場合、主に大阪人を指すと思いますが)の東京に対する敵対心は、いつ頃から始まったのでしょう。
古くは、徳川家豊臣家の確執がそのまま江戸対大坂の敵対心を生み、それが400年後の現在にも残っていると分析する声もありますし、実際、当時の大坂の人たちにしてみれば、豊臣家の滅亡によって関西の経済は一気に冷え込んだでしょうから、新政権の徳川幕府をスンナリ受け入れられない空気はあったでしょう。
さらに京都の人たちにとっては、都人としてのプライドもあったでしょうしね。
しかし、平成の現代では東京が日本の中心であることは動かし難い事実で、大阪人が東京を嫌うのはコンプレックス以外の何ものでもないようにも思えます(実際、阪神ファンはアンチ巨人ですが、その逆はあまり聞きませんもんね)。

江戸時代、大坂には藩主がおらず、代官のみが居る幕府の直轄地でした。
一説には、江戸時代中期の大坂の人口は、町人14万人に対して侍900人ほどしかいなかったといわれ、その比率から考えれば、街を侍が歩いている光景など殆どなかったに等しいといっても過言ではないでしょう。
一方江戸は、参勤交代で常に地方から来た侍たちでごった返していました。
つまり、大坂は庶民のまち、江戸は侍(エリート)のまちだったわけです。
「東京は理屈のまち、大阪は情のまち」などとよく言われますが、こうして両町の歴史的成立過程をみても、頷けるような気がします。
大坂のような庶民のまちでは理屈はあまり通用せず、コネがモノを言う。
エリートが集まる江戸のような町では、自然と体面世間体が重視される。
そうして形成されてきた両者の価値観が、21世紀になったとはいえ、そう簡単に理解し合えるとは思えませんね。
ただ、こっち(大阪)があっち(東京)を敵視しているほど、あっちはこっちを意識していないというところに、既に勝負はついている気はしないでもないですけどね。

ちなみに、やしきたかじんという人を知らない関東方面にお住まいの方に簡単に紹介すると、本業は歌手でありながら、若い頃からその話術は一流の芸人さんたちも一目置くレベルで、今では“関西最後の大物司会者”といわれるほどの人物です。
私の高校時代(30年近く前)にはラジオの深夜放送『MBSヤングタウン』でメインパーソナリティを務め、あの明石家さんまさんがそのサブパーソナリティだった頃もあったほどで(当時さんまさんはすでにブラックデビルなどで人気を博していた頃です)、当時のさんまさんのギャグの中には、たかじんさんのネタを盗んだものもたくさんあったほどです。
笑福亭鶴瓶さんとはお互いに食えない時代からの親友で、東京に進出して間もない頃の鶴瓶さんはたかじんさんを自身の“最後の砦”だと言っていました(自身が芸能界でいよいよ沈みかけたときには、たかじんと一緒に仕事をしたいという意味)。
その他、桂三枝さん、上岡龍太郎さん、島田紳助さんと、超一流の芸人さんたちが揃って一目置く存在で、単なる地方タレントのレベルではないということがわかっていただけるでしょうか。
まあ、素人の私が必死になって説明することではないんですねどね(笑)。
つまり、東京に“行けない”のではなく“行かない”んだということが言いたいわけで・・・。

ちなみに、そんなやしきたかじんさんの歌手としての最大のヒット曲が『東京』というタイトルの楽曲だというのが、なんとも滑稽な話ですね(笑)。



ご冥福・・・じゃなかった、ご快復を心よりお祈りいたします。
ま、早期発見だそうですから、大丈夫でしょう!


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# by sakanoueno-kumo | 2012-02-03 17:45 | 芸能 | Trackback | Comments(4) 

平清盛 第4話「殿上の闇討ち」

 平清盛の祖父・平正盛の代に白河上皇の引き立てによって中央政界へ進出した伊勢平氏は、清盛の父・平忠盛の代には鳥羽上皇の側近として脇を固め、さらに、得長寿院をはじめとする寺院を寄進するなどして忠勤にはげみ、清盛がが15歳となった長承元年(1132年)、忠盛は初めて武士として内昇殿を許された。内昇殿とは、天皇の居所である清涼殿の殿上の間に上ることを許されることで、貴族にとって非常に名誉なことであった。ましてや、武士である忠盛がこれを許されるのは破格の待遇であり、当時の貴族の日記のなかには「未曽有の事なり」と記した者もいたほどであった。

 殿上人となった忠盛に貴族たちが向ける視線は当然厳しかった。「出る杭は打たれる」のはいつの世も同じで、新参者の出世を快く思わない風潮はどんな社会にもあるものだが、平安時代末期のこの頃は、古参の公家たちが、新たに内昇殿を許された者に恥辱を加えるという、悪しき風習が蔓延っていたという。とくに、毎年11月に朝廷で行われる豊明節会の夜に、古参の公家が新たに内昇殿を許された者を罵倒嘲笑したり、暗闇に乗じてリンチするといった行為が頻発していたと伝えられる。当然、武家出身者としてはじめて内昇殿を許された忠盛に対してはいつも以上に情け容赦のない行為が計画されたはずで、そのことについてよく示しているのが、『平家物語』巻一の「殿上闇討」である。

 長承元年(1132年)11月の豊明節会の夜、陰湿かつ苛烈な「闇討ち」行為を予想した忠盛は、木刀を腰に差して節会へ参加すると共に、秘かに側近・平家貞を御所の小庭に待機させた。「闇討ち」などというと暗殺を想像してしまうが、この場合せいぜい乱暴狼藉をはたらく程度のことで、いってみれば集団リンチのようなもの。もっとも、殺人を生業とする武士の、しかもその棟梁である忠盛を集団リンチしようというのだから見上げたものだが、その程度の嫌がらせしかできないところに、斜陽の貴族階級と新興勢力である武士の違いを見ることができる。

 「闇討ち」を企てた古参の公家たちだったが、忠盛が懐に忍ばせた刀を抜き放ったため度肝を抜かれ、さらに家臣の家貞が小庭に潜んでいたことも知れたため、公家たちは「闇討ち」を断念せざるを得なかった。結果として忠盛の作戦勝ちといったところだが、気が治まらない公家たちは、直後の宴席でさらに卑劣な嫌がらせ行為を実行する。天皇の命により忠盛が得意のを披露していたところ、伴奏していた公家たちが急に拍子を変えたかと思うと、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやし立てたのである。「すがめ」とは、斜視のことで、忠盛は生まれつき斜視だったという。伊勢平氏の忠盛が斜視(すがめ)であったことと、伊勢国産の瓶子(へいし)が粗悪で酢瓶(すがめ)にしか使えないことをかけて、このように嘲笑したのである。人の肉体的欠陥をついて誂うという小学生レベルの行為から見ても、当時の貴族階級がいかに末期症状であったかがわかるというものである。

 公衆の面前で恥をかかされ怒りに震える忠盛であったが、宮中の酒席ではいかんともしがたく、悔しさを押し殺しながら早々に退出するしかなかった。その際、差していた刀を女官に預けて帰った。これが、後に思わぬかたちで忠盛の役に立つ。

 後日、公家たちは忠盛にしてやられた腹いせに、帯刀して節会へ参加した点と、無断で家臣を小庭に潜ませた点を捉え、忠盛に厳重な処分を下すよう鳥羽上皇に訴えた。これに対して忠盛は、預けていた刀を取り寄せてその場で抜いて見せた。その刀は先に述べたとおり木刀で、しかも本物に見せかけるように銀箔を貼ったものだった。これを知った鳥羽上皇は忠盛の機転に大いに感心し、家臣が小庭に潜んでいた件も、家貞が機転をきかせて独断で行ったものであることが判明し、結局はまったく罪に問われなかった。そればかりか、忠盛といい家貞といい、武士の機転と用意周到さに感心した鳥羽上皇は、これまで以上に忠盛を信頼するようになったという。

 というのが『平家物語』にある「殿上闇討」のくだりで、今話のストーリーはこの逸話を下敷きにしたドラマのオリジナルストーリーだと思われる。ドラマでは、忠盛を「闇討ち」しようとしたのは源為義となっていた。まあ、出典元の『平家物語』も読み物として書かれた物語である以上、そこに記された逸話も作り話である可能性も高く、ドラマでオリジナルの設定に作り変えるのは一向にかまわないと思うのだが、ただ少々、為義に気の毒な気がしないでもなかった。ドラマでは、あくまで平氏VS源氏という構図で展開されていくようである。

 「為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏どちらが強いか、それはまた先にとっておくことはできぬか。その勝負、武士が朝廷に対し、十分な力を得てからでもよいのではないか。」

 その勝負は、二人の息子、平清盛源義朝の代まで待たねばならない。


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# by sakanoueno-kumo | 2012-01-30 01:56 | 平清盛 | Trackback(5) | Comments(4) 

ダルビッシュ有投手のメジャー移籍会見に思う、サムライ不在の日本球界

先頃、MLBテキサス・レンジャーズへの入団が決まったダルビッシュ有投手が、7年間過ごした古巣・北海道日本ハムファイターズの本拠地・札幌ドームで退団会見を行い、集まった1万人以上のファンにメジャーリーグ挑戦の経緯を語っていましたよね。
そもそも、ダルビッシュ投手は以前からメジャーには興味がないと語っていましたし、数年前には「メジャーに行くぐらいならば野球を辞める」とまで断言したこともありました。
そんな彼がメジャーに行く気になった理由として、
「野球選手として相手を倒すのが仕事だが、最近は試合前から相手に『このカードで投げないでくれ』とか『絶対に打てないよ』と言われるようになった。冗談と聞いていても、これではフェアな挑戦ができなくなる」
と、日本球界への憤りともいえる心中を語り、さらには、
「僕は勝負をしたかったけど、それは相手にダルビッシュを打ってやるぞという気持ちがあって初めて成立するもの。それがなくなってきているので、野球をやるうえでモチベーションを保つのが難しくなってきた」
と、日本球界に自らの居場所が無くなってしまったことを告白していました。
私はこの言葉を聞いて、日本プロ野球の人気低迷の要因を見たような気がしましたね。
かつて、イチロー選手が日本球界にいた最後の方でも、敬遠ばかりでマトモに勝負してもらえない存在となってしまい、そのことがメジャー行きを決意した理由のひとつだったと聞きましたが、投手が打者を敬遠するのはルール上ある話ですが、打者が投手を敬遠するなんて、話にならないですね。
それだけダルビッシュ投手の力が突出していたといえばそれまでですが、ライバル不在の日本球界に物足りなさを感じてしまう気持ちも当然なんじゃないでしょうか。

野球がチームプレーの競技である以上、チームの勝利が最優先なのは大前提ではありますが、そんな中でも、個人と個人の1対1の対決の妙味というのも、野球ファンにとっては楽しみのひとつでしたし、一流の選手ならば一流の相手と対決したいと思うものなんじゃないでしょうか。
その意味では、今の日本球界に一流打者がいないということかもしれませんね。
それとも、勝利至上でデータ重視の今のプロ野球のスタイルが、1対1のライバル対決という不合理な勝負を生み出さない環境を作ってしまったのかもしれません。
考えてみれば、マー君のライバルは?・・・おかわり君の好敵手は?・・・・と考えてみても、これといって思い当たりませんもんね。

以前、3代目ミスタータイガース掛布雅之氏が、ライバルだったジャイアンツの江川卓投手との対決について語っていましたが、絶頂期の江川投手は今のダルビッシュ投手のようなもので、どのチームの主力打者でも手も足も出ない、まさに怪物的存在でした。
とくに高めのストレートの威力はハンパじゃなく、江川投手と対戦するゲーム前のミーティングでは、いつも、「高めの直球には手を出すな」という“お達し”が全選手に出ていたそうです。
ところが、そのミーティングが終わった後、当時の阪神の監督・安藤統男氏が掛布選手だけを呼び出して、「お前はあの高めの直球が打ちたいんだろう?・・・だったら、お前だけは狙っていけ!」といわれたそうです。
安藤監督にしてみれば、掛布は四番打者なんだから江川を打ち崩してもらわなければ困る、といった意味もあったのでしょうが、当時はそういった1対1の対決というものが許される時代だった、と掛布氏はいいます。
相手投手の失投を待つのではなく、その投手の最も得意とする球を打ちに行く・・・。
まさに一流と一流の、こだわりの対決ですね。

掛布選手と江川投手の対決のように、かつては村山実投手と長嶋茂雄選手、江夏豊投手と王貞治投手など、自他ともに認めるライバル関係というものがあり、勝敗とは別のところで野球ファンを楽しませてくれたものです。
近年の選手で、そういった1対1の対決に拘っていた選手といえば、清原和博選手ぐらいじゃないでしょうか。
宮本武蔵佐々木小次郎じゃないですが、そもそも日本人はそういったライバル関係が好きで、そんな武士道を愛する日本人気質に野球というアメリカ生まれの球技が受け入れられたのは、団体競技でありながら、そういった武士道的な1対1の対決があったからだと思います。
攻守入り乱れるサッカーのような競技には、あり得ない勝負ですからね。
WBCの日本代表を“サムライジャパン”なんて呼んでいましたが、ダルビッシュ投手の言葉を聞けば、今の日本球界には“サムライ”はいなくなったようにも思えます。
これは、ともすれば日本プロ野球の衰退を意味するのではないでしょうか。

ダルビッシュ投手がこれまで「メジャーには行かない」といっていた理由は、「自分は日本人であり、日本のプロ野球を観て野球が好きになったから」ということを言っていたと記憶しています。
いうまでもなく、ダルビッシュ投手は日本とイランのハーフで、そのことで少年時代はいじめられたりもしたそうです。
その彼が、自分は日本人だから日本のプロ野球に残りたい・・・といっていたわけで、その思いは純血の日本人よりもはるかに日本人らしい姿ではないでしょうか。
ちょっと活躍したらすぐにメジャー志向に走りたがる昨今の日本人選手に、深くかみしめて聞いてほしい言葉ですね。
彼が海を渡るのは、「夢を叶えたい」とか「自分を試したい」といった旅行気分の甘っちょろい理由ではなく、ライバルを求めてより高いレベルを模索した結果、答えはメジャー行きしかなかったわけで、彼はメジャーに憧れて移籍するのではなく、日本人としてアメリカに戦いに行くのです。
だから、日本一の投手が世界で2番や3番になるようでは行く意味がなく、世界一の投手になると宣言していましたね。
彼は日本球界唯一の“サムライ”だったのかもしれません。


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# by sakanoueno-kumo | 2012-01-26 00:18 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(2) 

平清盛 第3話「源平の御曹司」

 平清盛の前半生のライバル(という設定)だったのが、のちに清和源氏の棟梁となる源義朝。彼は、崇徳天皇が即位した保安4年(1123年)に源為義の長男として生まれる。清盛が生まれたのは元永元年(1118年)だから、義朝は清盛より5歳下ということになる。前話の岩清水臨時祭で舞を奉納した清盛は数えで12歳なので、その姿を見ていた義朝は7歳。今話はそれから3年経った設定だったので、清盛15歳で義朝10歳、今で言えば、中学2年生と小学4年生の二人である。どう見ても大人にしか見えない・・・なんて無粋なツッコミはやめて、鷹揚に観ていくことにしよう(笑)。つまり、今話は子供同士の喧嘩の話で、もちろん創作である。

 清盛の家系、義朝の家系は本拠をおいた国にちなみ、それぞれ伊勢平氏河内源氏と呼ばれてきた。清盛が生まれた当時の伊勢平氏は、祖父・平正盛、父・平忠盛の不断の努力が実を結び、隆盛の一途を辿っていた。清盛は比較的恵まれた環境で、まさしく御曹司として育ったといっていいだろう。一方で、義朝が生まれた当時の河内源氏は、様々な理由から衰退気味だった。そもそも清和源氏の中でも河内源氏は、源頼信源頼義源義家の三代の活躍により、中央政界でも確固たる地位を築いていた。しかし、天任元年(1108年)に義家の嫡子だった源義親(義朝の祖父)が出雲で叛乱を起こした。その義親の追討を朝廷が命じたのが、清盛の祖父・正盛だった。正盛は見事に義親を討ち取り京に凱旋、朝廷より恩賞が授けられ、義親は梟首とされた。これをきっかけに河内源氏では内紛が起こり凋落、代わって中央政界では伊勢平氏が台頭する。清盛と義朝の因縁は、お互いの祖父である正盛と義親の時代に始まったといっていい。

 ちなみに、義親討伐については諸説あって、剛勇で知られた義親が、それまでさしたる武功のなかった正盛に簡単に討たれたことを疑問視する声が当時からあったようで、一説には、正盛が別人を討ち取り、その首を義親のものとして披露したという説もある。おそらく邪説だろうとは思うが、もし事実ならば、正盛も義親以上に悪人である。ただ、無名の人物ならともかく、義親の顔は中央政界にも知れ渡っていたはずで、偽首を押し通すのは無理がある話ではあるが・・・。いずれにせよ、これを境に平氏と源氏の立場は逆転し、その息子、忠盛と為義の代になるとその差はいっそう開いた。その息子である清盛と義朝では、スタートラインから大きく違っていたのである。義朝は清盛に対してライバル心を抱いていたかもしれないが、清盛にとっては5歳下で官位もずっと下の義朝は、たいして眼中になかったかもしれない。ましてや、遠い将来、その義朝の子である源頼朝の手で伊勢平氏が滅ぼされることになろうとは、夢にも思わなかったことだろう。

 「3代目にして家は潰れる」なんて言葉をよく耳にするが、伊勢平氏にしても河内源氏にしても、3代4代と繁栄し続けることがいかに難しいことであるかは歴史の知るところである。まさしく、「おごる平家は久しからず」ですよね?・・・大王製紙さん。


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# by sakanoueno-kumo | 2012-01-23 23:44 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2) 

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