おんな城主 直虎 第2話「崖っぷちの姫」 ~井伊家と家老・小野家~

 井伊直満を陥れて死に追いやった小野和泉守政直は、駿府から井伊谷に帰国すると、次は、直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)の行方を探しました。『井伊家伝記』によると、「直満実子亀之丞を、失い申す可き旨、今川義元より下辞の旨申し候」とあります。つまり、政直は今川義元から亀之丞を殺すよう申しつかっていたわけです。しかし、これを事前に予想していた井伊家では、なんとしても亀之丞だけは殺させまいとして、家老の今村正實に託して逃亡させます。


 『井伊家伝記』によると、正實は亀之丞を叺(かます)に入れて背負い、追手の目をくらませて逃亡。いったんは井伊谷の山中、黒田郷に潜みますが、そこもすぐざま政直の知るところとなったため、やむなくさらに北に逃れて渋川の東光院へと逃げ込みます。東光院の住持・能仲は、龍潭寺の住持・南渓瑞門の弟子でした。南渓は井伊直平の次男で、おとわ(のちの井伊直虎)の父・井伊直盛の叔父にあたり、殺された直満とは兄弟になります。東光院に逃れた正實は能仲を通じて南渓と接触し、この先のことを相談したところ、信濃国松源寺へ逃れるようじ助言されました。こうした僧門ネットワークを使って、亀之丞は追手の目をからくもすり抜けます。


 ドラマでは、直満の謀反を見抜けなかったこと、亀之丞を逃したことに対する今川義元からの下知として、小野和泉守政直を目付けとし、その子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦にせよ、とのことでした。つまり、鶴丸がのちの井伊家の当主となるわけですね。家老が主家を乗っ取るかたちで、小野家にしてみれば、なんとも都合のいい話です。実際にこのような話があったのかはわかりませんが、作家・高殿円さんの小説『剣と紅』でも、同じ設定が採られています。この小説では、もともと政直は自身の息子と直虎を夫婦にして井伊家を乗っ取ろうと企んでおり、そのため、直満を陥れて死に追いやり、亀之丞との婚約を破談にさせるという展開でした。


 それにしても、いくら戦国の世といえども、家臣の身でありながら、なぜ政直はここまで主家を苦しめたのでしょう。歴史家の楠戸義昭氏は、その著書のなかで、井伊家の代々家老を務めてきた小野家は、今川家のスパイであったとみて間違いない、と述べられています。小野氏といえば、古代から八色の姓朝臣に列せられた由緒ある家柄で、遣隋使になった小野妹子『令義解』を編纂した小野篁世界三大美人で名高い歌人・小野小町など、錚々たる顔ぶれが思い出されます。『井伊氏と家老小野一族』によれば、小野和泉守政直は小野篁から数えて21代目だといわれているそうですが、この時代の系図はあてにならないものが多く、事実どうかは定かではありません。小野家は政直の父が井伊直平に取り立てられて以降、代々家老職を世襲する家柄になったといいます。ところが、先述したとおり、小野家は井伊家の様子を逐一内偵して、今川家に報告していた形跡があるようで・・・。むしろ、直平の時代に井伊家が今川家の配下に入ったとき、公認の目付役として小野氏が今川家から送り込まれたのかもしれませんね。井伊家にしてみれば、形式上は家臣でも、実際には腫れ物扱いだったのかもしれません。


 「答えはひとつとは限らぬからの。」


 南渓和尚がおとわに言った台詞ですが、どうやら、この言葉が物語のテーマになりそうですね。既成概念にとらわれない発想が、思いもよらぬ答えを導き出すことがある。それが、「おんな城主・直虎」につながっていくわけですね。物語は始まったばかりです。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-16 22:51 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第1話「井伊谷の少女」 ~井伊家のルーツと小野和泉守政直の讒言~

 2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まりましたね。今年も1年間よろしくお願いいたします・・・と言いたいところですが、昨年末の「おんな城主直虎 キャスト&プロローグ」の稿でもお話しましたが、わたしは今年の主人公・井伊直虎のことも井伊家の歴史のこともよく知りません。なので、例年よりもゆる~いブログになるかと思いますが、よければ今年もお付き合いください。


 物語は天文13年(1544年)、直虎の少女時代から始まります。といっても、直虎の生年は不明なので、年齢はわかりません。許嫁となった亀之丞(のちの井伊直親)が天文4年(1535年)生まれとされているので、おそらく、同年代だったのではないでしょうか。となれば、ドラマのこの時期は、満9歳前後ということになります。ドラマでは、おとわと名乗っていましたが、実名もわかっていません。つまり、ほとんど謎の人物なんですね。


 直虎の生まれた井伊家のルーツは古く、平安時代にまで遡ります。その伝承によると、寛弘7年(1010年)1月、井伊谷八幡の神主が社頭に参ったとき、御手洗の井戸のなかに生まれたばかりの男の赤ん坊を発見します。その容貌はたいそう美しく、瞳が輝いていたといい、神主はその赤子を養育することにしました。その後、7歳になった赤子は、公家の藤原共資の養子となり、共保と名付けられます。


やがて壮年になった共保は、自身の生誕の地である井伊谷に城をかまえて移り住みました。このとき、家名を藤原から井伊に改めたといいます。この井伊共保を祖とし、井伊家の系図ははじまっています。ドラマでおとわたちが訪れていた井戸がその伝承の地で、「ご初代様」と呼んでいたのが共保のことですね。つまり、井伊家の始祖は井戸から生まれた・・・と。まあ、にわかに信じられる話ではありませんが、それだけ歴史のある家柄ということは間違いありません。


その後、鎌倉時代には井伊谷を支配していたようですが、南北朝時代には南朝方に与したため、北朝方に攻められて井伊城は落城。遠江国の守護となった今川家の配下となります。しかし、戦国期を通して今川家とは微妙な関係だったようで、たびたび摩擦があったようです。直虎が生まれた頃の井伊家は、そんな不遇の時代でした。


 直虎の父・井伊直盛は男子に恵まれなかったため、直盛の叔父にあたる井伊直満の子息・亀之丞を養子に迎え、直虎と結婚させて後継者にしようとしました。ところが、その養子縁組が順調にすすむなか、井伊家筆頭家老の小野和泉守政直が、駿府の今川義元に対して、直満・直義兄弟が謀反を計画していると讒言します。この頃、井伊家では甲斐国の武田家が遠江国への圧力を強めたため、対武田軍に備える軍備を進めていました。これを、謀反の意としたわけです。なぜ、政直は自身の主君を売るような讒言をしたのか定かではありませんが、『寛永諸家系図伝』などの記録によると、もともと政直は直満と関係が悪かったらしく、その直満の子・亀之丞が井伊家の後継者となることを嫌って、直満を陥れたのだと伝わります。


 なんで家臣にそんなことが出来るのか・・・と思ってしまいますが、戦国時代においては家老の力は大きなもので、家の後継者を決めるのも、当主が勝手に決められず、当主を支える家臣の意向を無視できませんでした。同族会社といえども社長が変わるには、重役会議にかけて幹部の賛意を得なければならなかったわけです。となれば、筆頭家老である政直としては、不仲である直満の子息が当主になることに賛成するはずがありません。あるいは、直接反対の意を表したものの受け入れられなかった経緯があったのかもしれませんね。どうしてもこの養子縁組を破談させたいと考えた政直は、直満を陥れる策にでたわけです。


 天文13年(1544年)12月、直満・直義兄弟は駿府に召喚され、同月23日、処刑されました。みごと政直の思惑通りとなったわけですね。家臣の策略によって一族が殺されたわけですから、井伊家当主である直盛としては政直に報復すべきところだったでしょうが、今川家が絡んでいるとなれば、そうもいかなかったわけですね。きっと政直を八つ裂きにしたいほどの怒りだったでしょうが、その怒りをしずめて泣き寝入りするしかなかったわけです。ただ、亀之丞の命だけはなんとしても守りたい。直盛は家老の今村正らに亀之丞を託し、逃亡させます。当然ながら、直虎と亀之丞の婚約は、いったん白紙にせざるを得なくなりました。こうして、直虎の波乱の生涯がはじまります。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-13 22:42 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その5 「天守台」

津山城シリーズ最終稿です。

本丸西側には、天守台石垣がそのままのかたちで残っています。

残念ながら明治初期の廃城令によって天守は取り壊されていますが、かつてここに五層の立派な天守がありました。


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津山城の天守は地上5階建で、破風を持たない質実な造りだったそうです。

城の造りはその築城主の人間性を表しているようにも思いますので、森忠政という人は、きっと生真面目な人物だったのでしょうね。

高さは天守台石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模のものだったようです。

壁は漆喰塗りの白壁とし、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものでした。


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現存している天守台には、自由に登ることができます。


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上から見ると、こんな感じ。


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天守台から見た本丸跡です。


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天守台から見た津山城西側の眺望です。


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こちらは南側の眺望


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こちらは、天守台から見た「備中櫓」です。

天守の南西側、西側、北西側を取り囲むように、「多門櫓跡」があります。


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こんな感じの細長い空間で、天守を西側から守っていた櫓です。


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多門櫓跡から見た天守台です。


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多門櫓北面は「七番門」に接続されています。

そして、下の写真は、本丸北側の「長屋櫓」から見た天守台。

なんか、但馬の竹田城みたいですね。


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森氏は初代の忠政から4代続きましたが、元禄10年(1697年)、4代藩主・森長成の跡継ぎを立てられずに改易となり、翌年に松平宣富が美作10万石を領して津山城に入城します。

その後、松平氏は慶倫まで9代続き、明治維新を迎えます。

江戸時代の終焉とともにその役目を終えた津山城は明治7年(1874年)から取り壊されますが、石垣はそのまま残され、明治32年(1899年)から公園化が進められ、現在に至ります。

この豪壮な石垣群を、よく残してくれていたものですね。

天守台の脇には、「森侯入封三百年記念碑」と刻まれた石碑が建てられています。


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最後に、三の丸に建つ松尾芭蕉の句碑を紹介します。


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鐘つかぬ里は何をか 春のくれ


今度は、名物の桜の季節に訪れてみたいものです。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-11 22:40 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その4 「備中櫓」

60棟以上あったとされる津山城の櫓のなかで、現在ひとつだけ復元されているのが、本丸から南へ張り出した石垣上に建てられた「備中櫓」です。


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高さ約13m、幅約24m、奥行き約8mで、延べ面積は約288㎡という津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物だったと考えられます。


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津山城は美作国の城なのに、なんで“備中”櫓なんだ?・・・という疑問が浮かびますが、『森家先代実録』という史料によると、当時の鳥取藩主で、のちに備中国松山城主となる池田備中守長幸が津山を訪れたときに完成した櫓だからだとか。

長幸と津山藩の関係は、初代津山藩主・森忠政の娘が池田家に二人嫁いでおり、忠政にとって長幸は娘婿にあたる人物です。


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奥向御殿のさらに奥という立地を考えると、備中櫓は藩主もしくはその家族という限られた者だけのスペースだったと推定されているそうです。


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そのため、通常の櫓ではまれな全室畳敷き、天井張りという構造で、絵図によると、「御座之間」「御茶席」「御上段」などが存在しており、それらも復元されています。


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御座之間です。


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御茶席です。


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御上段の間です。


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そしてです(笑)。


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この備中櫓は、森忠政が津山城の築城を開始してから400年の節目にあたる平成16年(2004年)に復元整備されたそうです。


次回、最終稿




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-10 23:12 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その3 「本丸」

ようやく本丸まで登ってきました。

3,496坪の本丸跡にも、多くの櫓跡が現存しています。

そのいくつかを追っていきます。


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まずは本丸東側の「矢切櫓跡」です。

石垣がみごとですね。


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その南側にある「包櫓跡」

「鐘撞堂」があります。


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矢切櫓跡北側にある「月見櫓跡」


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さらにその北側にある「栗積櫓跡」です。


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栗積櫓跡からみる津山城北面の眺望です。

遠方の山の頂には、「神楽尾城跡」が見えます。


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栗積櫓跡の西側にある「大戸櫓跡」


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その南側に位置する「長屋櫓跡」です。


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さらに、そこから裏鉄門跡を挟んで南にある「腰巻櫓跡」


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そして、そこから西側に向かった天守台北にある「長櫓跡」

そして、本丸南西に復元された「備中櫓」があります。


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津山城の建造物は、本丸に31棟、二の丸に12棟、三の丸に17棟が建てられ、門は本丸に15、二の丸に、三の丸に11あったそうです。

これは広島城姫路城よりも多い数だそうで、両城に比べて比較的コンパクトな面積の中に、これだけの建物がひしめき合っている様は、実に壮観だったでしょうね。

もともと、この地には嘉吉年間(1441~44年)に山名忠政鶴山城を構えていましたが、慶長9年(1604年)に森忠政が鶴山を「津山」と改め、12年間の年月をかけて築城したのが津山城です。

当時は築上の最盛期であり、おそらく、当時の技術の粋を集めた城だったのでしょうね。


次回に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-06 13:12 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その2 「二の丸」

津山城二の丸に登ってきました。

かつて二の丸には、12棟の櫓と大小7棟の門があったそうです。


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現在二の丸広場となっているこの地には、かつて二の丸御殿があったと伝わり、津山藩3代藩主・森長武は、一時ここに移り住んだこともあったそうです。


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その後、4代藩主・森長成のときに改易となった森家に代わって、越前松平家から松平宣富が藩主として津山城に入城しますが、間もなく、二の丸の殿舎は撤廃されたそうです。


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二の丸から見上げた「備中櫓」です。


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二の丸から本丸への通路を仕切る切手門跡です。

2階部分は、南側にある「弓櫓」に接続されています。


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その弓櫓から見た備中櫓です。


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こちらは、搦手側の二の丸と本丸を結ぶ「裏中門跡」です。

左側の木の階段は、石階段が不安定のため観光客用に設置されたものです。


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裏中門横にある「荒布櫓跡」です。


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裏中門を上ったところにある「裏鉄門跡」です。

ここを上がると本丸に入ります。


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こちらは切手門を上がったところにある「仕切門(十四番門)」


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そしてこちらがその横にある「表鉄門」

本丸に入る正面入口です。


さて、次回は本丸を攻めます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-05 17:15 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

豪壮な石垣群の津山城登城記 その1 「城門~三の丸」

過日、岡山県津山市にある津山城跡を訪れました。

津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山に築いた平山城で、別名・鶴山城とも呼ばれます。


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現在は復元された備中櫓以外石垣しか残っていませんが、その豪壮な石垣群はみごとなもので、たいへん見ごたえがあります。


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入口の側には、忠政の銅像があります。

どう見ても、4頭身ほどの人間離れした銅像ですね(笑)。

忠政は、織田信長の小姓だった森蘭丸の弟にあたります。

兄貴は美少年に描かれることが多いのですが、弟はどう見てもがきデカのような・・・(笑)。


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冠木門です。

ここで入場料300円を払って、城跡公園内に入ります。


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冠木門を入ってすぐの階段を登ると、三の丸東の高台に鶴山館という建物があります。

ここは、かつて津山藩の学問所として建てられたもので、明治維新後も小・中学校や幼稚園、女学校などに使用され、明治37年(1904年)にこの地に移設されたものだそうです。


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その鶴山館の建つ高台から見た石垣群です。

みごとですね。

中央に見える櫓は「備中櫓」といい、平成17年に建てられた復元です。

下の写真はアップ。


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三の丸です。


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ここ津山城は桜の名所だそうで、三の丸、二の丸ともに桜並木が続いています。

秋は紅葉が綺麗みたいですね。

わたしが訪れたこのときは初秋だったで、桜も紅葉もありません。


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三の丸から二の丸へ登る「表中門跡」「見付櫓跡」です。

表中門は城内にある門のなかでは最大のもので、正面玄関にあたります。

門の櫓部分の長さは16間(約32m)もあり、これは、大坂城や江戸城に匹敵するほどの規模だそうです。


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表中門跡から見上げた備中櫓です。


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こちらは搦手から三の丸に降りる、「裏下門跡」です。


さて、次回は二の丸を攻めます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-04 15:02 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

2017年年頭のご挨拶と初日の出。

あけましておめでとうございます。

旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。

本年も相変わらず、宜しくお願いします。


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写真は神戸市垂水区の高台から見た東南の景色です。

毎年大晦日から元旦の朝にかけてはだいたい仕事で、会社もしくは現場で年を越すことが多いのですが、今年も昨年同様、徹夜になっちゃいました。

昨年は会社で朝を迎えたので、会社屋上から初日の出を拝んだのですが、今年はもうちょっと早く終われたので、家路の途中で初日の出を撮影です。

向こうに見える海は、大阪湾

その海近くまで迫る写真左の山は、六甲山系最西端にある標高246mの鉢伏山と標高253mの旗振山です。

旗振山周辺は東西に見通しがよく、17世紀末の元禄時代から電信が普及する大正初期まで、大阪堂島の米相場畳1枚ほどの大きな旗を振って伝達する中継点だったそうで、それが由来となって旗振山と呼ばれているそうです。

旗振山から大阪堂島までというと、直線距離にして30km以上離れています。

本当に畳1枚分の旗が見えたのかなぁ・・・。


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江戸時代以前、あの旗振山を境に、東は摂津国、西は播磨国でした。

現在でも、あの山を境に東が須磨区、西が垂水区です。

今はどちらも神戸市ですが、かつては、国境だったんですね。

あと、あの山の南側麓は一の谷と言い、12世紀の源平合戦のひとつ、一の谷合戦の舞台でもありました。

有名な源義経の逆落としは、あの山だったかもしれないと言われます。


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遠く彼方に見えるのは、大阪府再南東にある標高1,125mの金剛山と標高959mの葛城山です。

大阪府と奈良県の県境にそびえる山で、歴史的には、旧河内国大和国の国境にあり、金剛山中腹には、中世、楠木正成がわずか1000人足らずの兵で鎌倉幕府軍100万と対峙したことで知られる千早城があります。

神戸市に西の端であるここ垂水区から金剛山までは、直線距離にして70kmほど、車で高速をとばしても2時間ほどかかる距離ですが、空気が澄んだ晴れた日は、こうして肉眼で見えることがあります。

題して、播磨国から望む金剛山と初日の出

貴重です。


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私事で恐縮ですが、今年、あと2週間ほどで、私もとうとう大台の50歳になります。

「五十知命」と言いますが、とてもそんな境地にはほど遠く、いまだ迷いの中ですが・・・。

とにもかくにも、半世紀を生きたメモリアルイヤー、いい1年にしたいですね。

本年もよろしくお願いします。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-01-01 17:56 | 日常 | Trackback | Comments(2)  

「ポケモンGO」ならぬ「発見!ニッポン城めぐり」にハマった2016年下半期。

今年もあとわずかになりましたが、今年最も話題になったもの代表してひとつあげるとすれば、「ポケモンGO」ではないでしょうか?

聞くところによれば、世界で5億ダウンロードに達したのだとか。

世界中でスマホが何台使用されているのか知りませんが、5億っていうと、たぶん、かなりの確立ですよね。

もはや社会現象などといった言葉では言い尽くせない、ひとつの歴史的事象になりつつあります。

たかがゲーム、されどゲームですね。


で、じゃあ、わたしは「ポケモンGO」をやってるかっていうと、実はやってません

これまでスマホゲームってのを全くやったことがなかったのですが、これだけ話題になってるのだから、話のネタにやってみたらよかったのでしょうが、実は、「ポケモンGO」が日本でダウンロード開始された今年の7月から、別のスマホゲームにハマっちゃってたんですね。

それが、これ。


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「発見!ニッポン城めぐり」というスマホゲームで、GPS機能を使って、日本全国に設定された3,000ヵ所城郭をめぐるゲームで、城はすべてわが国に実在した城跡で、実際にその地に足を運んで城を攻略していくというゲーム。

つまり、「ポケモンGO」と同じシステムで、いうなれば「城めぐりGO」です(笑)。


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遊び方はいたって簡単、城跡の所在地近くで城攻めボタンをタップするだけ。

攻略エリア内に城があれば、上のような画面がでて攻略成功です。

攻略エリアは城によって様々で、数キロメートル離れたところからでも落とせる城もあれば、寸前まで近寄らないと落とせない城もあります。


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上の画像はトップ画面。

城は、行軍によって稼いだお金で私が築城したものです。

金といっても、ゲーム内のバーチャルな通過(両)で、加金はいっさいしないで楽しめます。

ゲームをはじめて約半年のわたし現在の成績は、271城攻略、308万石の知行を治めています。


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271城の内訳は上のとおりで、主に近畿エリアが中心です。

旧令制国内のすべての城を攻略すると、国守の官位が名乗れます。

ちなみに、現在、黄色い文字になっている和泉国河内国を平定しており、河内守を名乗らせていただいております。


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上の画像は総攻略城数で与えられる官職の一覧です。

黄色い文字が、わたしが就任した官職です。

総攻略城数271城のわたしは、現在、六位下・宮内まで与えられましたが、先はまだ長い。

3000城すべてを平定すると、正一位・征夷大将軍になれるみたいです。

そんな人いるのかなあ。

官位官職とは別に、同じ城を何度も攻めることによって、1ヶ月間、その城の城主になれます。

ひとつの城は2時間ないし3時間に1回しか攻略できず、1ヶ月毎に集計して1位が城主、2位が城代、3位が城番になれます。


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先月、はじめて城主争いを制覇し、神戸市東灘区にある平野城12月度城主になりました。

でも、来月は陥落決定です。

この画面もあと2日で見納め。


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あと、行軍中に牢人に遭遇すると、登用して家臣にすることができます。

つまり、家臣ゲットだぜ~!ですね(笑)。

現在、98人の家臣を抱えています。


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見てのとおり、結構錚々たるメンバーでしょ。

このなかでいちばん高い知行は豊臣秀吉15万石

現在、308万石中246万石を家臣登用に充てていて、わたしの石高は62万石です。


あと、定期的に合戦イベント狼煙伝達ミッションなど、攻城以外の楽しみも盛り沢山。

もともと史跡めぐりが趣味だったわたしとしては、いいアイテムができました。

実はこのゲーム、5年前からあったそうです。

GPSと連動させたゲームって、「ポケモンGO」が先駆けじゃなかったんですね。

このゲームを参考にしたとか?

まあ、こちらは社会現象にはなってないですが(笑)。


以上、わたしの2016年下半期のマイブームの紹介でした。

それでは、良いお年を。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-31 04:04 | 日常 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 キャスト&プロローグ

 来年の大河ドラマは『おんな城主 直虎』ですね。主人公の井伊直虎は、ドラマのタイトルどおり女性でありながら家督を継いで城主となったといわれる人物。たぶん、大河ドラマの制作発表で初めて知ったという人が多いんじゃないでしょうか。かくいう私も、そういう人物がいたことは知っていましたが、詳しい内容までは知りませんでした。

で、大河ドラマを観るにあたって、何冊か関連本をかじり読みして予習した程度の知識ですが、超簡単に直虎という女性を紹介すると、遠江国浜名湖の北にある井伊谷の領主・井伊家22代当主・井伊直盛の娘として生まれた直虎は、直盛に男子が生まれなかったため、従弟(従兄)の井伊直親許嫁となって家督を継がせる予定でした。ところが、直親の父が今川氏に殺され、直親自身も命を狙われたため、10年以上身を隠すこととなり、その間、直虎は出家して次郎法師を名乗ります。やがて、直親は井伊谷に戻ってきますが、許嫁だった直虎は出家しており、別の女性と結婚。虎松が生まれます。この虎松が、のちに徳川四天王のひとりとなる井伊直政です。

その後、父の直盛が桶狭間の戦いで戦死、その2年後には直親が讒言によって謀殺されると、その翌年には曽祖父の井伊直平も死去し、井伊の名を継ぐ男子は、幼少の虎松ただ一人となりました。そこで、直虎は虎松の後見人となり、女領主として井伊家を支えることになるわけです。このとき、男名である「直虎」を名乗るようになった・・・と。「井伊」という姓を聞くと、徳川四天王のひとりとして彦根藩主となった井伊直政や、幕末の大老・井伊直弼を思い浮かべますが、直虎の時代の井伊家は、滅亡の崖っぷちにありました。そんな時代が、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の舞台です。

以下、現在発表になっているキャストです。

********************************************

井伊家

井伊直虎・・・・・・・柴咲コウ(おとわ(幼少期):新井美羽)

井伊直盛・・・・・・・杉本哲太

千賀・・・・・・・財前直見

井伊直平・・・・・・・前田吟

井伊直満・・・・・・・宇梶剛士

井伊直親・・・・・・・三浦春馬(亀之丞(幼少期):藤本哉汰)

しの・・・・・・・貫地谷しほり

井伊直政・・・・・・・菅田将暉(虎松(幼少期):寺田心)

佐名・・・・・・・花總まり

井伊家臣

中野直由・・・・・・・筧利夫

中野直之・・・・・・・矢本悠馬

今村藤七郎・・・・・・・芹澤興人

弥吉・・・・・・・藤本康文

たけ・・・・・・・梅沢昌代

小野家

小野政直・・・・・・・吹越満

小野政次・・・・・・・高橋一生(鶴丸(幼少期):小林颯)

小野玄蕃・・・・・・・井上芳雄

奥山家

奥山朝利・・・・・・・でんでん

なつ・・・・・・・山口紗弥加

奥山六左衛門・・・・・・・田中美央

龍潭寺

南渓和尚・・・・・・・小林薫

傑山・・・・・・・市原隼人

昊天・・・・・・・小松和重

井伊谷の民

瀬戸村

甚兵衛・・・・・・・山本學

八助・・・・・・・山中崇

角太郎・・・・・・・前原滉

祝田村

富助・・・・・・・木本武宏

福蔵・・・・・・・木下隆行

今川家

今川義元・・・・・・・春風亭昇太

今川氏真・・・・・・・尾上松也(龍王丸(幼少期):中川翼)

寿桂尼・・・・・・・浅丘ルリ子

太原雪斎・・・・・・・佐野史郎

新野左馬助・・・・・・・苅谷俊介

関口氏経・・・・・・・矢島健一

あやめ・・・・・・・光浦靖子

岩松・・・・・・・木村祐一

徳川家

徳川家康・・・・・・・阿部サダヲ

瀬名/築山殿・・・・・・・菜々緒(幼少期:丹羽せいら)

その他

龍雲丸・・・・・・・柳楽優弥

瀬戸方久・・・・・・・ムロツヨシ

高瀬・・・・・・・髙橋ひかる

松下常慶・・・・・・・和田正人

********************************************

 主人公の井伊直虎役は、柴咲コウさんですね。直虎という女性がどのような人物像で描かれるのかはわかりませんが、男名を名乗って城主になるわけですから、きっと、男まさりで勝気なキャラなんでしょうね。柴咲さん、ピッタリなんじゃないでしょうか? 巷では誰かの代役だったなんて話も耳にしますが、それが本当だろうがデマだろうが、柴咲直虎を楽しみたいと思います。

 許嫁だった井伊直親役は三浦春馬さんということなので、年下の設定なんでしょうね。直親は天文4年(1535年)の生誕と伝わりますが、直虎の生年は不詳で、実際の直親との年関係もわかりません。ただ、歴史作家・楠戸義昭氏の著書では、直親が年下だった可能性が考えられるとされており、この設定は一応の根拠があるみたいです。

 井伊家家老の小野政次役は、高橋一生さん。この小野政次という人物が、物語の全編を通して重要な役どころになってくるのですが、直虎とどのような関係に描かれるのか、また政次をどのような人物像に描くのか楽しみです。

 あと、注目したいのが井伊直政役の菅田将暉さん。いま乗りに乗ってる菅田くんですが、たぶん、大河ドラマは初出演ですよね。わたし、この人いつか、大河の主役やるんじゃないかと思っています。期待しています。

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 近年、ほぼ1年交代のように女性を主人公にした大河作品が描かれますが、井伊直虎という人物は、歴史マニア以外にはあまり知られておらず、また、実際に直虎に関する史料も乏しく、史実としてドラマを描くのはかなり困難だと思われます。つい最近では、直虎は実は男だったんじゃないか、と思われる史料が見つかったとの報道もありましたよね。そんなほぼ謎の人物とも言える素材を主役にしてまで、女性を主人公にした作品を作らないといけないのか・・・という声も多く、わたしも、その意見に賛成です。いくら男女平等の世の中と言っても、歴史は圧倒的に男社会だったわけで、大河の主役になり得る女性なんて、そんなにいませんからね。

 ただ、今回大河ドラマを観るにあたって、直虎を主人公にした高殿円さんの小説『剣と紅』を読んだのですが、これがなかなか面白く、このまま大河ドラマにしたらいいんじゃないかと思うほどでした。もちろん、直虎自身の史料はほとんどないため、作者独自の設定で、ちょっとファンタジックな人物像に描かれていたのですが、井伊家の苦難の時代は実に興味深いものがありました。主人公の知名度が低くても、描き方次第では見ごたえのあるドラマに出来ると思います。今回、脚本はJIN--などを手掛けた森下佳子さんだそうですね。期待しましょう。

 とにもかくにも、また今回も1年間お付き合いいただけたら幸いです。

 楽しみましょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-12-29 11:30 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)