真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~

e0158128_18432594.jpg 真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。


e0158128_18385012.jpg その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。


e0158128_02592871.jpg で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩り釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。


 昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。


 やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。


 慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その1 「夢さき夢のさとコテージ村」

ちょっと時期がずれちゃいましたが、夏休みの備忘録です。

今年もお盆休みを利用して、毎年恒例のアウトドア旅行に行ってきました。

今年から8月11日が新しく祝日になった兼ね合いで、盆休みが長くなったという方が多いんじゃないでしょうか?

ところで8月11日って、何の日でしたっけ?

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毎年、神戸から2時間ほどで行けるキャンプ場にコテージなどを借りて1泊するのですが、今年訪れたのは、兵庫県姫路市夢前町にある「夢さき夢のさとコテージ村」

「夢前」と書いて「ゆめさき」と読みます。

素敵な地名ですよね。

夢前町は、かつては独立した自治体として姫路市の北部にあった飾磨郡に属していましたが、「平成の大合併」によって姫路市に編入合併となり、現在は、「姫路市夢前町○○」といったかたちでその名称を残しています。


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以前は4家族18人が集まっていたこの夏のイベントも、子供たちが大きくなってなかなか都合も合わなくなり、今年は3家族9人の参加でした。

まあ、それでも何だかんだで20年近く続いているというのは、われながらスゴイと思います。

可能な限り続けたいですね。


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キャンプ場といえば、なんといってもバーベキューでしょう。


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そして毎年恒例のスイカ割


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これも、子供たちが幼稚園児の頃からやっているので、かれこれ17~8年目になります。

今年はとうとう小学生がひとりもいないスイカ割となりました。


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この日はペルセウス座流星群がよく見えるとのことで期待したのですが、夜になって雲が出てきたのと、ご覧の通りの月明りだったので、流星群はおろか、ほとんど星が見られませんでした。

残念。


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思い出した!

8月11日は「山の日」ですね!

私たちのキャンプは毎年、山に行っていますから、言わずもがなです。

もっとも、この日は8月12日でしたが・・・。

次回に続きます。


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# by sakanoueno-kumo | 2016-09-25 16:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第37話「信之」 ~関ケ原の戦い・第二次上田合戦エピローグ~

 第二次上田合戦徳川秀忠軍を撃破した真田昌幸・信繁父子でしたが、誤算だったのは、慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ケ原の戦いがわずか1日で決着がつき、西軍の大敗に終わったことでした。信繁の舅・大谷吉継は壮絶な最期を遂げ、石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは戦場から落ち延び、大坂城にて豊臣秀頼を守っていた毛利輝元は、大坂城を退去して徳川家康に恭順の意を示しました。家康は9月22日に輝元と和睦し、27日には大坂城に入城します。家康の大勝でした。

e0158128_19301095.jpg 石田三成は間もなく捕縛され、10月1日、京の六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らと共に斬首されます。享年41。三成の処刑に際しては、数々の逸話が伝わります。たとえば、処刑直前の三成が、警護の人間に喉が乾いたのでを所望したところ、「水はないので、代わりに柿を食せ。」と言われ、これを聞いた三成は「柿は痰の毒だ!」といって拒否します。これを聞いた警護の者は、「いまから処刑される者が毒を気にしてどうする。」と笑いますが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ!」と、泰然としていたといいます。

また、別の逸話では、処刑前の三成、行長、安国寺の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は有りがたく受け取りますが、三成は「この小袖は誰からのものか?」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と言い放ち、受け取らなかったといいます。これらの逸話がどこまで実話かどうかは定かではありませんが、江戸期を通じて天下の大悪人に仕立て上げられてきた三成でありながら、このような賞賛すべき伝承が残されていることを思えば、遠からずの立派な最期だったのかもしれませんね。

e0158128_02592871.jpg 西軍の敗北を知った真田昌幸は、それでも戦いをやめようとせず、9月18日、上田城に近い虚空蔵山城坂木葛尾城に陣を布いていた森忠政の軍勢に夜襲を仕掛け、さらに23日には、信繁率いる軍勢が坂木葛尾城を攻めます。ドラマでは父を抑えていた信繁でしたが、実際には、信繁が先頭を切って軍事行動を起こしていたようです。昌幸らにしてみれば、自分たちは秀忠軍を撃破していたわけですから、敗北を認められなかったのでしょう。しかし、最後の悪あがきもここまで。嫡男・真田信幸の説得もあって、渋々降伏します。ドラマで昌幸は廊下に拳を打ち続けて悔しがっていましたが、たぶん、400年前の昌幸も、あんな感じだったんじゃないでしょうか・・・。そりゃ悔しいでしょうね。勝ってたんだから・・・真田は・・・。

e0158128_02593024.jpg 昌幸・信繁が降伏すると、ひとり徳川方についていた信幸は、懸命にふたりの助命嘆願を訴えます。家康にしてみれば、二度も煮え湯を飲まされた昌幸を許さず、殺すつもりだったといいます。しかし、信幸の懸命な訴えに、舅の本多忠勝の援護も加わり、どうにかこうにか命だけは助けられました。ドラマでもありましたが、このとき忠勝は、「もし真田父子に死を与えるというのであれば、某は婿の信幸とともに真田父子を支援して上田城に籠り、主君・家康と戦うも辞さぬ」と言い放ち、家康を驚かせたと伝わります。よほど、婿の信幸のことを気に入っていたんでしょうね。

 信幸は父と弟の命乞いの代償として、「信之」に改名します。これについて、多くの小説などでは、父から受け継いだ「幸」の字を使うことを憚り、自ら改名したように描かれてきましたが、今回のドラマでは、家康から「捨てよ」と命じられての改名でしたね。それに対して、「文字」は変えても「読み」は変えないという信之なりの意地だったと・・・。この設定、なかなか良かったんじゃないでしょうか?

 かくして昌幸・信繁父子の流罪が決まり、紀州高野山の麓、九度山に流されます。その後、家康はよほど上田城が目障りだったのか、徹底的に破壊したといいます。そのせいで、真田時代の上田城の遺構は、ほとんど残されていません。

 昌幸・信繁が上田を後にしたのは慶長5年(1600年)12月13日のことでした。昌幸は信之と別れるに際して、「それにしても悔しい限りだ。家康こそこのような目にあわせてやろうと思っていたのに」と嘆き、悔し涙を流したと伝わります。昌幸54歳、信繁34歳でした。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-09-20 23:38 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第36話「勝負」 ~第二次上田合戦~

e0158128_23052141.jpg 犬伏で真田信幸と決別した真田昌幸・信繁父子が自領の上田城に戻る途中、信幸の居城である沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正妻・小松姫が、夫の敵となった義父・義弟の入城を拒んだという話は有名ですね。軍記物などの記述によれば、「孫の顔を見たい」という昌幸の言葉を、城を乗っ取るための昌幸の計略とみた小松姫は、鉄砲隊を狭間に配置させ、自らも薙刀を持って門扉に立ち、開門を拒んだといいます。これを見た昌幸は、「さすがは日本一の本多忠勝の娘である。武士の妻はこうあるべきた!」と、褒め称えたとか。小松姫を語るに、外せない逸話です。

 しかし、近年の研究によれば、実際には、このとき小松姫は大阪で石田三成方に人質として取られていたと考えられているそうで、このエピソードは、後世の創作とみられています。ただ、あまりにも有名な話なので、ドラマでこれを描かないわけにはいかなかったでしょう。そこで、今回の物語では、石田方が人質を取り始めたことを受けて、急遽、上方を脱出してきたという設定でしたね。実際、黒田家山内家など、上手く捜査網を掻い潜って脱出した奥方たちはたくさんいますから、ない話ではありません。史実と逸話を上手くつなげた設定でしたね。

e0158128_02592871.jpg 上田城に帰った昌幸は、すぐさま反徳川の姿勢をとらず、しばらく自らの去就を明らかにしませんでした。その狙いは、石田方に自らを高く売るためだったと見られます。昌幸を味方に引き入れたい三成は、慶長5年(1600年)8月5日付けの書状で信濃一国を与えると明言し、さらに6日付の書状では、甲斐国も与えると約束しています。この条件を得た昌幸は、ようやく西軍に与することを言明します。さすがは抜け目ない昌幸といえますが、この書状から、たかだか5万石程度の領主である昌幸を、三成はそれほど価値があるとみていたことがわかりますね。

 小山評定で旧豊臣恩顧の大名の多くを味方に引き入れることに成功した徳川家康は、大坂の石田三成を討つべく軍を西上させます。その際、家康率いる約3万3000の軍勢は東海道を、息子の徳川秀忠率いる約3万8000の軍勢は中山道を進軍しました。中山道のルートには、昌幸、信繁が籠る上田城があります。この秀忠軍を、上田城に籠るわずか2500ほどの兵力の真田軍が大いに翻弄し、その結果、秀忠軍は足止めをくって関ケ原の戦いに遅参してしまうんですね。これが有名な第二次上田合戦です。

 合戦の内容をここで詳細に解説するのは、長くなりすぎるのでやめます。超簡単に説明すると、籠城している真田軍が徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍は真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けました。第一次上田合戦のときもそうですが、昌幸は、大軍相手に寡兵で戦う術を心得ていたんですね。逆に言えば、二度も同じ手を食って惨敗した徳川軍の軍法はどうよ!・・・と言いたくなりますが、大軍というのは、寡兵相手では得てして油断が生じるものなのかもしれません。このとき総大将の秀忠は初陣でしたしね。

e0158128_22593837.jpg ただ、一説には、上田城など捨て置いて西上すればいいものを、まだ若い秀忠が軍功にはやって上田城攻めを強行し、その結果、関ケ原の戦い大遅参したといわれますが、これらの話はすべて江戸時代の創作だそうで、近年明らかになった説では、そもそも秀忠軍が中山道を進軍したのは上田城攻めが目的で、その途中で家康が作戦を変更し、上田城攻めを中断して関ケ原に呼び寄せたことがわかっています。このたびのドラマは、その新説に則って描かれていましたね。どうりで、本多正信榊原康政大久保忠隣酒井家次など徳川家譜代のビッグネームがことごとく秀忠軍につけられているはずです。家康にしてみれば、それほどまでに昌幸の存在が目障りだったのでしょう。小山評定で豊臣恩顧の武将がことごとく徳川方に与するなか、ひとり反旗を翻した昌幸・信繁父子を、捨て置くわけにはいかなかったのでしょうね。でも、結局、手玉に取られたのは徳川軍のほうでしたが。

 秀忠軍の大遅参のおかげで、関ヶ原の戦いでは徳川家譜代の家臣の活躍がほとんど見られず、戦後の論功行賞で、家康は外様大名に多くの恩賞を与えるはめになったと言われます。しかし、そのおかげで、家康は後継者である秀忠や譜代の家臣を失わずにすんだのも事実で、穿った見方をすれば、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もあります。まあ、すべては結果論にすぎず、後付説の感は拭えません。家康とて、関ヶ原の戦い前から勝利を確信していたなんてことはなかったでしょうからね。すべては偶然の結果かと。

 第二次上田合戦で改めてその存在感を見せつけた真田昌幸でしたが、大きな誤算だったのは、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わってしまったことだったでしょうね。もし、関ヶ原の戦いが長期戦になっていれば、秀忠軍退却後、昌幸は甲斐国、信濃国を席巻していたに違いありません。しかし、歴史は彼らに味方しませんでした。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-09-17 23:05 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第35話「犬伏」 ~犬伏の別れ~

 8月後半から仕事が忙しくなり、特に今週は超激務をこなす毎日となり、昨夜、ほぼ1週間ぶりに家に帰り、ようやく大河ドラマを視聴しました。真田一族の物語を語るにあたって、いちばんの見せ場といってもいい「犬伏の別れ」。遅ればせながらの起稿です。

 慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を掲げて大坂を出陣。7月2日には江戸城に入り、諸大名に上杉攻めに加わるよう要請します。家康は上杉征討にあたって、豊臣家より軍資金二万両と米二万石をもらい、上杉攻めを豊臣秀頼の命というかたちにしていました。豊臣の御旗が掲げられた以上、諸大名はこれに参加せざるを得なくなります。このあたり、家康の政治力の巧みさがうかがえますね。

 一方、家康の上杉征討を知った石田三成は、家康の元に向かおうとしていた大谷吉継を蟄居中の佐和山城に呼び寄せ(ドラマでは、三成が吉継の元を訪れていましたが)、打倒家康の挙兵を持ちかけます。吉継はその無謀を説きますが、三成の決意が固いことを知るや、「わしがおぬしを勝たせてみせる」と言ったかどうかはわかりませんが、三成に同心します。吉継を味方につけた三成は、毛利輝元を大坂城に呼び、秀頼を奉じて挙兵するんですね。

 上杉征伐の要請を受けた真田昌幸、信幸、信繁父子は、家康の元に合流すべく宇都宮に向けて進軍し、下野国の犬伏に着陣します。ここで彼らのもとに、三成挙兵の報せが届きました。これを聞いた昌幸が「早すぎるわ!」と言ったかどうかはわかりませんが、たしかに、三成の挙兵は少し早すぎました。歴史のタラレバはナンセンスですが、もし、三成の挙兵がもう少し遅く、上杉との戦端が開かれてから行われていれば、家康は簡単には引き返せなくなり、歴史はまた違ったものになっていたでしょう。一説には、三成と会津の直江兼続が共謀して家康を挟撃するシナリオだったという見方がありますが、その説に否定的な意見の根拠としては、この三成の挙兵のタイミングを指摘します。電話もメールもない時代ですが、共謀していたのなら、三成の挙兵はもう少しあとだったんじゃないかと・・・。真相はどうだったんでしょうね。

e0158128_02592871.jpg 三成の挙兵を知った昌幸は、7月21日、信幸、信繁兄弟を呼び寄せて密談を行ったとされます。これが、世に言う「犬伏の別れ」を決定した密談ですね。この密談で、真田家は昌幸と信繁が三成方につき、信幸が家康方につくことを決めたとされますが、ただ、この密談の内容は、一級史料では確認することができず、すべて後世の軍記物に頼るしかありません。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁は戦陣を離脱し、上田に向けて帰還したこと、それらの家来たちはあわててその後を追っていったこと、信幸だけが戦陣に残り、24日、家康の元に参陣したことくらいだそうです。でも、それらの事実を見る限り、この密談で兄弟父子が敵味方に別れる決意をしたことは、間違いなさそうですね。

e0158128_02593242.jpg 兄弟父子が敵味方に別れた理由については様々な説がありますが、どちらが勝っても家が存続できるため、というのが、通説となっている理由ですね。実際、合戦時にお家存続のために親兄弟が別れるという話は、他にもたくさんありました。この時代、家の存続というのは、武士にとって何より大切な仕事でしたからね。さらには、信繁の妻は三成方の大谷吉継の娘であり、信幸の妻が徳川家家臣の本多忠勝の娘だったことも、大いに作用したでしょうね。信繁も信幸も、舅への義理は蔑ろにはできないですからね。そうみれば、この密談の結論は、はじめから見えていたといえます。

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 また、密談中に様子を伺いに来た家臣の河原綱家が信幸から水筒を投げつけられるシーンがありましたが、あれは、三谷脚本らしいコメディーシーンに見えましたが、実は、河原家の伝承で残っている逸話です。それによると、投げたのは信幸ではなく昌幸で、投げたものは水筒ではなく下駄だったとか。下駄は綱家の前歯にあたり、彼は生涯、前歯が欠けたままだったといいます。入れ歯もインプラントもない時代ですからね。少々気の毒な気がしますね。

「もし徳川が勝ったならば、俺はどんな手を使ってもお前と父上を助けてみせる!」

 本当にそうなっちゃうんですよね。温厚篤実な人物だったという信幸。弟や父の神出鬼没ぶりばかりが目立つ真田家ですが、真田家でもっとも優れていたのは、実は信幸だったのかもしれません。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-09-11 03:02 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第34話「挙兵」 ~七将襲撃事件~

  石田三成徳川家康暗殺未遂事件からわずか1か月余りの慶長4年(1599年)3月3日、太閤死後に豊臣秀頼の後見役を務めていた前田利家が病没します。五大老の一角として唯一、家康と対等に渡り合うことができ、さらには、武断派、文治派の双方から人望に厚かった利家の死によって、それまでなんとか保たれていた均衡が一気に崩れ、予てから「三成憎し」で団結していた武断派の加藤清正、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、脇坂安治の七将が暴発。三成を殺害すべく襲撃します。


しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせます。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となりました。こうして三成は政治の表舞台から遠のくことになります。


e0158128_19301095.jpg この経緯のなかでの有名な逸話として、武断派の襲撃を受けた三成が、敵である家康のもとに助けを求めて単身乗り込み難を逃れたという話がありますよね。このエピソードから、三成が単に小賢しいだけのインテリ官僚ではなく、豪胆な一面を持った武将だったという印象を受けます。石田三成という人物を描く上で欠かせないエピソードといえますが、今回のドラマでは、この逸話は採用されませんでした。というのも、この話は最近では否定的な見方が強いようです。この説の典拠となっている史料はすべて明治以降のもので、それ以前に成立した史料には、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。まあ、たしかに、あまりにもリスキーな選択で、合理主義の三成としては、冒険的すぎる行動といえます。小説やドラマなどでは、ここは三成のいちばんの見せ場なんですけどね。


e0158128_21350278.jpg ただ、血気にはやる武断派との間の調停役を家康が引き受け、騒動を収拾したというのは史実のようです。ドラマの時代考証を担当されている丸島和洋氏のツイッターによれば、このとき、家康に事態収拾の協力を要請したのは、大谷吉継だったといいます。今回のドラマで、吉継が娘婿の真田信繁を家康のもとに派遣したのは、その動きを下敷きにしたストーリーだったわけですね。実際、このとき吉継はがかなり進んでいて動きづらかったでしょうから、使者を通じての協力要請だったかもしれません。信繁の動きは、まったくもって荒唐無稽フィクションではなかったんですね。


 この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は一時失脚します。一説には、すべて家康の描いたシナリオ、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もありますが、いかがなものでしょう。いずれにせよ、この武断派と文治派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いありません。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなります。


 三成が失脚して約1年が過ぎた慶長5年(1600年)4月、会津国の上杉景勝が、家康との対立姿勢を露わにします。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します。世に言う「直江状」ですね。歴史はいよいよ、関ヶ原の戦いに向かいます。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-08-29 22:54 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

SMAP解散の舞台裏に見る、関ケ原の戦いと女の確執。

世間がリオデジャネイロオリンピックに熱狂している真っ只中、SMAP年内解散が発表されましたね。

まあ、今年の1月の騒動がありましたから、「やっぱりな」といった感じで特に驚くことはなかったのですが、それでも、オリンピック前の27時間TVで中居正広さんが明石家さんまさんから釘を刺されていたのを観てると、どうにかこうにか修復されつつあるのかなあと思っていたんですけどね。

彼らも全員40前後の大人ですから、自分たちがどれだけ大きな存在で、自分たちで飯食ってる人たちが大勢いるということを理解したうえで、感情的にならず、大人としての対応ができているものだと・・・。

残念ですね。

わたしは、とくに彼らのファンと言うわけでありませんが、なんなんでしょう?、この得も言えぬ喪失感は・・・。


そもそもの発端は、事務所内の女性副社長と敏腕女性マネージャーの確執に巻き込まれたかたちで、グループ内に軋轢が生じたということだそうですよね。

ゴシップ誌などの記事がどこまで鵜呑みにできるのかはわかりませんが、関係者サイドが特に否定していないところを見ると、大筋は事実なんでしょう。

そこで不思議に思うのは、なんで、これほどまで裏事情が明かされているのか?・・・ってことです。

過去、グループの解散というのは数多くありますが、大概の場合、「音楽性の違い」とか「次のステップを目指して」とか、もっともらしい理由付けで解散しますよね。

でも、実際にはそのほとんどがグループ内の人間関係が理由で、ファンもそれはわかっていて、あえてそこを突っ込まず、所属事務所も、解散後の個々の活動のためにも、なるべく綺麗な終わり方を演出するんですよね。

それが、普通だと思います。


ところが、今回のこの醜さはどうでしょう?

想像するに、芸能界一力を持つというジャニーズ事務所ですから、その気になれば、裏事情をもみ消すくらい、たやすいことなんじゃないでしょうか?

それが、このたびのこの筒抜け状態

なんか、あえて裏情報を流しているとしか思えないんですが・・・?

事務所的には、この数ヶ月再三彼らを説得したけど、当人たちの意思がつよくて事ここに至ってしまった・・・と。

だから、事務所的には、最善を尽くしており、悪いのは彼らだ・・・と。

それが言いたくて、わざと裏情報をリークしているんじゃないか・・・と。

穿ちすぎですかね?


この間、もし解散を思い留まるよう彼らを説得できた人がいたとしたら、退社したという女性マネージャーしかいなかったのでしょうが、たぶん、それなりに説得はしたんでしょうが、心の底から説得したかといえば、してなかったんじゃないかと・・・。

だって、彼女は追いだされた身でしょう?

今回の解散発表に至って、どこか痛快に思う気持ちがあるんじゃないですかね?

ほら、やっぱりわたしがいなけりゃSMAPはまとまらないでしょ!・・・的な・・・。

これまた穿ちすぎですかね?

でも、人間ですから、そう思って当然だと思いますけどね。


e0158128_17194731.jpg女性同士の確執
に男たちが巻き込まれた例は、歴史のなかにも存在します。

その最も大きなものとしては、慶長5年(1600年)9月15日に起きた、天下分け目の大戦「関ケ原の戦い」でしょうね。

徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」合わせて20万の兵が激突した、言わずと知れた日本史上最大の内戦ですが、この背景には、実は旧豊臣政権を二分する女の確執があったといいます。

その頂点にいたのが、豊臣秀吉の正室・お寧(北政所・高台院)と、同じく秀吉の側室・茶々(淀殿)でした。

子宝に恵まれなかった北政所と、世継ぎを生んだ淀殿は、秀吉の生前から微妙な関係となりますが、秀吉の死後、その確執は表面化し、側室の淀殿が大坂城を実質掌握し、正室であるはずの北政所は、本丸から西の丸へ移り、やがて大坂城を退去して京都の新城に移り住みます。

経営者よりも敏腕マネージャーのほうが影響力を持ってしまったというジャニーズ事務所の関係性と似てますよね。


e0158128_17203474.jpgこの二人の確執に、秀吉子飼いの大名たちが分裂します。

尾張時代から秀吉に仕え、北政所を母のように慕っていたという加藤清正福島正則らは、必然的に北政所側となり、秀吉が近江長浜城主となってから仕えた石田三成小西行長らは、同じく近江の浅井家の血を引く淀殿に接近します。

もともとこの尾張派近江派は折り合いが悪かったのですが、この北政所と淀殿の対立に便乗するかたちで、より関係は悪化していき、やがて、尾張派は東軍に与し、近江派は三成を大将として西軍となります。

家康にしてみれば、この対立を上手く利用して天下を取ったといえます。


結果は周知のとおり東軍の勝利となり、三成、行長ら近江派は斬首されます。

この戦いで分裂した豊臣政権は屋台骨が崩れ、やがて、滅亡の道をたどることになるんですね。

北政所も淀殿も尾張派も近江派も、豊臣家の存続という目的は一致していたはずが、確執による派閥闘争弱体化を招き、結局は、誰も望まない末路となったわけです。

ちなみに、家康に加担した尾張派も、加藤清正はのちに謎の死を遂げ、福島正則はあらぬ嫌疑をかけられて改易となります。

結局、誰ひとりハッピーエンドになっていません。


副社長と敏腕マネージャーの確執に始まり、それが引きがねとなってグループ内に軋轢が生じ、分裂解散となった今回のSMAP騒動。

結局、誰も得しない結果になるんじゃないでしょうか?

あるいは、ジャニーズの弱体化を虎視眈々と狙っている徳川家康がいるかもしれませんよ。

歴史は教えてくれます。

温故知新です。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-08-25 03:07 | 芸能 | Trackback | Comments(2)  

リオデジャネイロオリンピックが閉幕。いざ、2020東京!

リオデジャネイロオリンピックが終わりましたね。

開催前は、工事の遅れ治安問題運営面などを不安視する声があとを絶ちませんでしたが、終わってみれば、それほど大きなトラブルもなかったようで、南米初のオリンピック大成功といえるのではないでしょうか?


今大会、日本代表選手団は史上最高のメダル獲得数だった前回ロンドン大会の38個を上回る、史上最多41個(金12個、銀8個、銅21個)のメダルを獲得しました。

8年前の北京大会が25個だったことを思えば、確実にレベルアップしているといっていいのでではないでしょうか。

この結果は、もちろん、選手一人ひとりのたゆまぬ努力と、指導者やスタッフの尽力の賜物ですが、それとは別に、北京以降に開設されたナショナルトレーニングセンターの果たした役割も小さくはなかったでしょうね。

やはり、個人の力ではどうにもならない環境や設備の問題がありますから、そこは、国を挙げてサポートしていく。

国家ぐるみでアスリートを育てていこうという計画が、いま、少しずつ実を結ぼうとしているんでしょうね。

「2位じゃだめなんですか?」なんて言ってた政権が続いてたら、決して今回のような結果は得られてなかったでしょう。

といっても、国家ぐるみでドーピングをやっちゃあダメですけどね(笑)。


さて、4年後は東京ですね。

閉会式の東京五輪セレモニーは、なかなか見事だったんじゃないでしょうか?

「君が代」のアレンジもシビレましたし、何といっても、マリオに扮して登場した安倍晋三首相にはぶっ飛びましたね。

一国の首相が五輪の閉会式のセレモニーに登場するのは初めてのことだとか。

賛否両論あるとは思いますが、わたしは良かったと思いますけどね。

なんでも、「安倍マリオ」の発案者は森喜朗元首相だったそうで・・・。

あの方が出しゃばるとろくなことがないイメージがあるのですが(ソチ五輪での浅田真央選手に対する配慮にかけた発言や、新国立競技場建設の一連の問題発言など)、今回はいい仕事をしたんじゃないでしょうか?

これを花道に引退されてはどうですか?(笑)


小池百合子
東京都知事も、和服姿はいかにも花があってよかったですね。

やっぱ、舛添さん、辞めてもらってよかったんじゃないでしょうか?


半世紀前の東京五輪をギリギリ知らない世代のわたしとしては、たぶん、人生最初で最後の自国開催オリンピックになるでしょう(冬季五輪は別にして)。

生まれる前のことなのでよくわかりませんが、たぶん、当時の日本は、今回のブラジルと同じくらい、欧米諸国からみれば五輪開催を不安視されるレベルの国だったはずです。

あれから半世紀以上が経ち、今度は世界をリードする先進国としての五輪となります。

ところが、プロジェクト開始早々から、新国立競技場建設の一連の騒動やエンブレム盗作問題など、どうも、成熟した国家のやることとは思えない稚拙さが露呈しています。

大丈夫なんですかね?

オリンピックの主役は競技にありますが、祭典をどう盛り上げるかは、国家の威信がかかっています。

日本にしかできない、これぞ「お・も・て・な・し」・・・といえるオリンピックにしたいですね。

いまから4年後が楽しみでなりません。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-08-23 22:11 | 他スポーツ | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第33話「動乱」 ~家康襲撃未遂事件~

 太閤亡きあと、五大老筆頭であるはずの徳川家康が、法度に反して諸大名との縁組を次々と行った問題で、慶長4年(1599年)1月19日、家康以外の四大老・五奉行は、伏見の徳川屋敷に詰問使を派遣します。このときの家康は、詰問使を恫喝して追い返したとも、のらりくらりととぼけてあしらったとも伝わりますが、いずれにせよ、家康は私婚の罪を認めようとはしませんでした。これに憤慨した石田三成が、家康に毅然と立ち向かいます。ドラマでは、三成が家康襲撃を企てた設定になっていましたが、別の説では、三成はもうひとりの筆頭大老である前田利家の元に集結し、軍備を整えたともいわれます。


e0158128_23084082.jpg これを受けて、徳川屋敷にも家康を支持する大名たちが集まり、警固が行われます。ここに、情勢は一触即発のムードとなりました。このとき、三成側についたのは、四奉行のほか、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宜、小西行長、長宗我部盛親らで、一方の家康側についた大名は、伊達政宗、福島正則、池田輝政、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長等で、ドラマにあったように、大谷吉継も、この時点では徳川方につきます。一般に、三成と吉継は無二の親友だったといわれますが、実際には、二人の友情に関するエピソードは、すべて後世に作られたものだそうで、どこまで心を寄せていたかは定かではありません。この時点での吉継の考えは、家康を支えることで、豊臣政権を盤石なものにするというものでした。ただ、最終的に関ケ原の戦いでは三成方につくわけですから、吉継自身、迷いのなかだったのかもしれませんね。

 で、その吉継との関係もあってか、ドラマのとおり真田昌幸、真田信幸、そして、ドラマでは三成に与していた真田信繁も、実は、このときは徳川屋敷の警固に加わっています。のちに犬伏の別れで敵味方に分かれる真田家ですが、この時点では、まだ一枚岩だったようですね。昌幸にしてみれば、勝負どころはまだ先にあるとみていたのでしょうか?

e0158128_19301095.jpg それと、今回のドラマでの石田三成と加藤清正の間柄は、今までにない微妙な関係ですね。一般に、清正と三成は犬猿の仲で、清正や福島正則武断派の三成に対する憎悪が、関ケ原の戦いの導火線になったと描かれることが多いですが、今回のドラマの清正は、いまの時点では三成を憎んではいないようです。この関係を、このあとどのように関ケ原の対立に持っていくのでしょうか? その前に、次週描かれるであろう「七将襲撃事件」にどう結びつくのか、興味深いです。


 それにしても、三成の不器用さが歯がゆいですね。清正が何度も歩み寄ろうとしているのに拒絶したり、宇喜多秀家を侮辱したような発言をして、「どうにもイラッとさせられる男だ」と言われたり、細川忠興を味方に引き入れようとして、逆に怒らせてしまったりと、人の心を読み取れないというか、デリカシーがないというか、こんなんでよくまあ、秀吉に気に入られたなあ・・・と。見ていて切なくなります。

吉継「徳川内府を殺してそのあとはどうする? おぬしは自分がまつりごとの要となるつもりか?」

三成「ほかにおらぬならば」

吉継「おぬしに人がついてくるのか?」

三成「やってみねばわからぬ!」

吉継「ならば今宵、どれだけの大名がおぬしに従った?」

もし、三成に人を引きつける能力があれば、歴史はどうなっていたでしょうね。

まあ、三成の性格がどうこうというより、家康の老獪さの前では結果は同じだったかもしれませんが。

関ケ原の戦いは、すでに始まっていました。



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# by sakanoueno-kumo | 2016-08-22 23:59 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

非ネグロイドの壁を破った陸上男子400mリレーの銀メダル獲得。

この3日間、卓球男子団体の銀メダルやレスリング女子のメダルラッシュなど、クライマックスが近づくリオ五輪は最高潮の盛り上がりを見せてくれていますが、盆休み明け早々から連日深夜まで残業に追われていて、ゆっくり五輪ネタのブログ記事を起稿する時間がありません(4年前のロンドン大会のときは、ほぼ毎日ブログをアップしていたことを思えば、この4年間で少しは景気が回復しているといえるのでしょうか?)。


で、今日も本当はこんなことしてる余裕はないのですが、どうしても記録に残しておきたいと思い、寸暇を惜しんでブログを立ち上げました。

その思いに駆られたのは、山県亮太選手、飯塚翔太選手、桐生祥秀選手、ケンブリッジ飛鳥選手のメンバーで臨んだ陸上男子400mリレー銀メダル獲得です。

これって、ちょっとでも陸上競技を知っている人ならわかると思いますが、とてつもなくスゴイことですよね。

同種目では、北京五輪で日本初の銅メダルを獲得していますが、あのときも感動しましたが、実は、あのときはアメリカが予選でバトンミスを犯し、決勝に出てこなかったという幸運もあったんですよね。

今回は、まぎれもなく実力でもぎ取った銀メダル

トラック競技での日本人選手の銀メダルは史上初

言うまでもありませんが、37秒60日本新記録であり、同時にアジア新記録でもあります。

文句のつけようがありません。


陸上競技の花形
であるスプリント競技で、非ネグロイドが入賞することがいかに難しいことであるかは、陸上競技を知る人なら、誰しも知るところだと思います。

というのも、現在、男子100mで9秒台(電動計時)を出した選手はこれまで116人いますが、その中で、黒人以外の選手は、わずか3人しかいません。

つまり、陸上スプリント競技においては、ネグロイドと非ネグロイドでは、明らかな身体能力の差があるんですよね。

もちろん、それはリレーにも言えることで、ちゃんと調べてないのでわかりませんが、非ネグロイドだけのメンバーでの同種目での銀メダル獲得は、史上初なんじゃないでしょうか?(厳密にいえば、ケンブリッジ飛鳥選手にはジャマイカ人の血が半分入っていますが、メンバー全員で考えると、8分の7が非ネグロイドなわけで、ほぼ、非ネグロイドと言っていいんじゃないかと)


わたしは、高校時代陸上部に所属していましたが(30年以上前になりますが)、その頃の日本の短距離界は、世界大会で決勝に残ること自体、あり得ないことでした。

ところが、今回、世界の第2位

しかも、第3走の桐生選手からケンブリッジ選手にバトンが渡ったとき、あのウサイン・ボルト選手と並んで走るというシーンが見られました。

いや~、もう、大興奮でした。

もちろん、相手は五輪3種目3連覇という歴史に残る偉業を成し遂げたバケモノですから、ゴールまで並走することは不可能でしたが、一瞬でも、決勝であのボルト選手と並んだという事実は、世界に衝撃を与えたんじゃないでしょうか?

なんて言ったらいいのか、見事とか、素晴らしいとか、そんなありきたりの言葉では言い表せない、筆舌に尽くしがたい心境です。

いいものを見せてもらいました。

金と銀の差は大きな差だとは思いますが、4年後の東京五輪が楽しみですね。


それと、ついでのようで申し訳ないですが、男子50キロ競歩銅メダルを獲得した荒井広宙選手も、おめでとうございます。

こちらも、日本人初の快挙だそうですね。

日本の陸上競技は、着実に世界との差を縮めつつあると言えるのではないでしょうか?



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# by sakanoueno-kumo | 2016-08-21 00:42 | 他スポーツ | Trackback | Comments(0)