太平記を歩く。 その170 「楠木正行本陣跡・墓所(往生院六萬寺)」 大阪府東大阪市

正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」の舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市ではなく、東大阪市の四条付近だったという説もあります。


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その説に則った史跡が、当地には複数あります。

まず訪れたのは、楠木正行本陣となったと伝わる往生院六萬寺

その参道には、「小楠公銅像 東千メートル」と刻まれた石碑がありました。

昭和10年(1935年)に建てられたもののようです。


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そして、ここが往生院六萬寺。

その入口には、「楠木正行公四条畷合戦本陣跡」と刻まれたドでかい石柱があります。


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しかし、写真撮影はここまで。

境内はすべて撮影禁止だと言われました。

また、境内には楠木正成、正行供養塔正行像があると聞いてきたのですが、それらを見せてもらうこともできませんでした。

聞けば、墓所へのお参りは事前に問い合わせが必要で、わたしのような趣味の史跡巡り目当ての人には、見せてもらえないそうです。

住職さん曰く、あくまで供養のためのものだからと・・・。

まあ、たしかにおっしゃるとおりなんですが。

残念です。


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その伝承によると、往生院の伽藍も兵火に巻き込まれて焼失し、正行の亡骸を持ち帰った黙庵周諭禅師が、胴体だけをこの地に埋葬したといいます。

前稿で紹介した寶篋院に黙庵周諭禅師が正行の首を埋葬したという話と合致しますね。

でも、なぜ胴体と首を別々に葬る必要があったのでしょう?

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Wikipediaによると、焼失した伽藍は承応3年(1654年)に鷹司信房によって復興され、このとき正成・正行父子の供養塔も建立されたそうですが、明治時代になって四條畷神社創立の影響を恐れた往生院が、自ら二石の供養塔を隠蔽古文献を処分し、往生院は破壊されたそうです。

四條畷神社創立の影響を恐れたって、どういうことでしょうか?

現在の寺院は、第二次世界大戦後に復興されたものだそうです。


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紹介できる写真が少ないので、寺院から見えるあべのハルカスでも載せておきます(笑)。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-17 00:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その169 「楠木正行首塚・足利義詮の墓(寶篋院)」 京都市右京区

「その166」「その168」楠木正行の墓を紹介しましたが、京都の嵯峨にある寶篋院にも、正行の首塚と伝わる石塔があります。


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正門の前には「小楠公菩提寺寶篋院」と刻まれた石碑があります。


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正門をくぐると、楓の木のトンネルが迎えてくれます。

紅葉の季節に来ればさぞ美しかったでしょうが、ここを訪れたのは10月2日、紅葉はまだ1か月以上先です。


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境内のいちばん奥に首塚はあります。

その入り口には、「小楠公首塚之門標」と刻まれた石柱があります。


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そして、これがその首塚。

立派な玉垣で囲われていますが、よく見ると、中には石塔が2つあり、石扉にも2種の紋章が・・・。


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なっなんと、足利家の二つ引両紋楠木家の菊水紋が並んでいます。

敵同士であるはずの両家の紋章がなぜ????


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ここ寶篋院中興の祖である黙庵周諭禅師が、楠木正行の生前に相識り、正行から後事を託されていたそうで、正行が正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃すると、黙庵はその首級を生前の交誼により、ここ寶篋院の前身である善入寺に葬ったそうです。

その後、黙庵から正行の話を聞いた室町幕府2代将軍・足利義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだといいます。

義詮が死没したのは正平22年/貞治6年(1367年)と伝えられますから、まだ、南北朝は分裂したままの時代。

そんな時代に、ここでは南朝・北朝の隔たりを超えた空間があったんですね。

これって、当時はスゴイことだったんじゃないかと。


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右が正行の首塚で、左が義詮の墓石。

義詮の方がずいぶん立派ですが、まあ、将軍ですからね。

これぐらいの差はあって当然なんじゃないかと。


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本堂です。


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本堂の中には、正行の木像が安置されていました。


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こちらの絵は、「黙庵禅師と楠木正行」だそうです。


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こちらは、「四条畷合戦の図」


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義詮が没すると善入寺はその菩提寺となり、8代将軍足利義政の代になって、義詮の院号に因んで寶篋院と改められたそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-16 02:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その168 「楠木正行首塚(正行寺)」 京都府宇治市

「その166」で紹介した楠木正行の墓所以外にも、正行の首塚と伝わる場所があります。

まずは、京都府宇治市六地蔵にある正行寺を訪れました。


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何と言っても「正行寺」という名称ですからね。

いかにも正行と関係ありそうです。


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そして、これが正行の首塚とされる墓石です。

境内の隅にひっそりとあります。


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墓石の後ろにある正行寺由来によると、正成は正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃する直前、同行していた随臣の安間了意を呼び、「わが首を敵に取らしむる勿れ」と遺命し、了意は首級を携え吉野に逃れようとしたものの、足利の軍勢に遮られたため、ここ六地蔵に埋葬したとあります。

その後、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)がその忠死を追悼され、一宇の小堂を墳墓の上に建立し賜い、その墓は600年の間隠匿していましたが、昭和の時代になって陽のあたる場所にと、ここに正行寺の境内に移されたそうです。


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四條畷から吉野に首級を運ぶ途中に足利軍に阻まれて埋葬したのが、なぜ吉野とは全く方向違いの宇治市六地蔵だったのかがわかりませんが、まあ、正行寺という名称ということで、実話ということにしておきましょう。

この種の伝承を細かく詮索するのは、無粋というものです。


次回も、正行の墓を巡ります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-14 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その167 「和田賢秀墓所」 大阪府四條畷市

前稿で紹介した楠木正行の墓所から北東600mほどのところに、和田賢秀の墓所があります。

和田賢秀は楠木正成の弟・楠木正季の子で、正行・正時とは従兄弟にあたります。

父の正季は「湊川の戦い」の戦いで兄・正成とともに戦死しましたが、息子の賢秀も、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で正行・正時とともに討死しました。


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賢秀の墓所は国道170号戦に面した場所にあり、墓所の前は「塚脇」というバス停になっています。


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正行の墓所の入口には「忠」「孝」と刻まれた石柱がありましたが、賢秀の墓所の入口の石柱は、「忠」「烈」の2文字でした。


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賢秀は楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、四條畷の戦いにおいては剃髪して新発意(しんぼっち)と称して合戦に臨んだとも伝わります。


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その伝承によると、正行・正時が自刃したあと、賢秀は敵将・高師直の首を討とうと敵陣に単身乗り込みますが、かつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に見つかり、首をはねられました。

そのとき、はねられた首が敵に噛み付いたまま睨んで離れず、本宮太郎左衛門はその後、その恐怖から病に伏し、1週間後にもがき苦しんで死んだと伝わります。


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以下、『太平記』『太平記』巻26「楠正行最期事」原文


和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。


『太平記』は、本宮太郎左衛門の死因を賢秀の怨霊としています。


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墓石には「和田源秀戦死墓」と刻まれています。


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「むかし問へは すすき尾花の あらし吹く」

墓石の裏に刻まれている歌だそうです。


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首を討たれてもなお噛み付いて離さなかったというのは伝説としても、死に際に敵に噛み付いたのは本当だったかもしれませんね。

あるとき、地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ、たちどころに歯痛が治ったことから、地元では賢秀のことを「歯噛(神)さん」と呼んで祀っているそうです。 




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-13 23:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その166 「楠木正行墓所」 大阪府四條畷市

「その163」で紹介した四條畷神社から1kmほど西に、楠木正行墓所があります。

入口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があります。


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その附近には、建てられた時代が違うであろう石碑が、あちこちにあります。


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正行は、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日、足利方・高師直軍と激突した「四條畷の戦い」に敗れ、弟の楠木正時と共に自害しましたが、それが、この場所だったと伝わります。


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墓所内は厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のようです。


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墓所の門は閉ざされていて、中に入ることはできません。


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楠家の家紋・菊水です。


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玉垣の間から中を撮影。

バカでかい墓標があります。

本石の高さ約5.5m、礎石、中台を含めると約7.5mの高さになる巨大な墓標です。

墓標が立てられたのは明治11年(1878年)、銘は大久保利通の揮毫によるものだそうです。


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『太平記』巻26「楠正行最期事」は、正行の最期を次のように伝えます。


正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。


全身に矢が刺さって動けなくなった正行は、「もはやこれまでだ。敵の手には懸かるな」と言って、正時とともに北枕に倒れ込むと、同じく体中に傷を追った32人の兵たちは後を追って腹を切り、折り重なって倒れた・・・と。

正行23歳、正時22歳でした。


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墓所には、樹齢600年と伝わるクスノキ大樹が聳えます。


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正行らの遺骸が葬られた当初は、土を盛った上に墓石が置かれただけの墓所だったそうですが、死後80年が過ぎた正長2年(1429年)、当地の人々が彼らの塚の両脇に2本のクスノキの苗を植えたそうで、そのクスノキはその後成長を続け、墓石をはさみ込み、2本が1本に合わさって現在に至っているそうです。


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そのクスノキの根本です。

写真では伝わりづらいですが、高さ約25m、幹周り約12mというかなりの大樹で、大阪府の天然記念物に指定されています。


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境内に建つ楠木夫人の碑。

明治35年(1905年)に建てられました。


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他にも、いろんな場所に石碑があるのですが、誰の何の石碑か説明書きがないので、よくわかりません。


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現在、墓所は四条畷神社の管理下にあり、大阪府指定史跡となっています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-12 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第49話「本能寺が変」 ~本能寺の変~神君伊賀越え~

 「敵は本能寺にあり!」

 過去、大河ドラマにおいて数々の役者さんが発してきたこの台詞ですが、おそらく、明智光秀を演じられた役者さんは、みなさん、配役が決まったときからこの台詞をどのように吐くかを悩まれるんでしょうね。演出家さんや脚本家さんの意向とかもあるのでしょうが、光秀のいちばんの見せ場ですからね。この台詞を吐くために他の場面があると言っても過言ではないかもしれません。今回のそれは、躊躇している自身に言い聞かせるよう呟く、といった演出でしたね。このパターンは、はじめてなんじゃないでしょうか。


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 「敵は本能寺にあり!」という台詞がはじめて使われたのは、江戸時代中期の元禄初頭から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』からだそうです。作者は不明で、光秀の死後100年以上経ってから書かれたものということで、史料的価値は低いとされている作品ですが、この台詞に関しては、その後、「本能寺の変」を題材とした作品ではずっと使われてきた台詞で、もはや光秀の代名詞のような言葉となっています。実際には、どのような言葉を発したのかはわかりませんが、備中の羽柴秀吉の援軍として出陣した軍勢を、途中で進路を返して本能寺に向かわせたのは史実ですから、そこで、何らかの意思表示をしたのは確かでしょう。「これより本能寺に向かい、信長を討つ!」では普通だし、「敵は信長なり!」でも、イマイチ、パッとしません。やっぱ、「敵は本能寺にあり!」ですよね。その後300年以上、ずっと使われる台詞を書いた『明智軍記』の作者は、よほどのセンスの持ち主といえます。いまだったら、間違いなく流行語大賞ですね。

 徳川家康饗応役を解かれた光秀に代わって、織田信長自ら膳を運んでいましたが、これは、『信長公記』にも記されているエピソードで、史実とされています。でも、実際に信長に配膳されたら、ドラマのように家康たちは凍りついていたでしょうね。どれほど豪華な料理でも、味がわからなかったでしょう。

 今回の「本能寺の変」は、信長が家康とその重臣たちを安土城に招き、接待すると見せかけて殺してしまおうという計画を、事前に明智光秀が家康と今川氏真に情報を漏らし、逆にその機に乗じて信長を討とうという光秀の謀略で、しかし、光秀が想定外の備中援軍を申し付けられてしまったため、徳川一行が堺見物をしている最中、備中に向かう兵を返して本能寺で事に及んだという設定でした。まあ、「本能寺の変」に至る経緯は諸説ありますから、どのような描き方があってもいいと思いますが、今回の設定は、結局、よくわからないまま終わったという感じです。そもそも、信長は光秀がいうように、家康を殺すつもりだったのでしょうか?


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 家康に贈る茶道具を選んでいる信長の姿や、「殺気が感じられない」と言った家康の台詞などから、どうも、家康を殺すという計画は最初からなかったと見ていいんでしょうね。であれば、光秀はなんでそんなをついたのでしょう? 家康や氏真に計画を明かして味方に引き入れる、というわけでもなさそうでしたし、であれば、計画を明かす必要がないというか、むしろ、家康や氏真が信長に計画を漏らす危険だってあったわけで、そんなリスクを背負ってまで、ふたりに謀略を打ち明ける理由が見当たりません。光秀にとって、何の得もないですからね。結局、ドラマでも、徳川一行は光秀の計画を知っていたせいで必要以上にオロオロしただけで、光秀の謀略には何ら役に立ってないですからね。いったい光秀は何がしたかったのでしょう? どうも、消化不良な「本能寺の変」でした。


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 また、信長横死の報せを受けたあとの「神君伊賀越え」についてですが、これがなぜ家康の人生における一世一代の大ピンチだったかというと、信長と同盟関係にあった家康は光秀から見ればであり、もし、明智軍に遭遇すれば衝突は避けられず、かといって、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、四面楚歌の状態に陥っていたからでした。しかし、今回のドラマでは、徳川一行は光秀から事前に信長討伐を知らされていたわけで、家康の心中はどうあれ、光秀はこの時点では家康のことを味方だと思っていたはず。何も知らない穴山梅雪さえ始末してしまえば、あとは険しい伊賀越えなんてせずに、大手を振って東海道を帰ればよかったのでは? それとも、光秀の計画は、信長もろとも家康も殺すつもりだったとか? う~ん・・・。イマイチ設定がよくわかりません。繰り返しますが、消化不良な「本能寺の変」でした。まさしく、その副題どおり「本能寺が変」でしたね。

 さて、次回は最終回ですね。井伊直虎が死んだのは、本能寺の変から約2ヶ月半後のことだったと言われています。でも、ドラマの直虎はピンピンしていて、そんな兆候は微塵にも感じられません。この感じでは、病死とかではなさそうですね。どんな最期に描かれるのか、楽しみにしましょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-11 15:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その165 「楠公寺」 大阪府大東市

前稿で紹介した飯盛山山頂から少し南に下ったところに、「楠公寺」という名称の小さなお寺がありました。

「楠公」と名がつくからには、楠木正成・正行父子と何らかの関係があるのだろうと思い、立ち寄ってみることに。


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こちらが本堂

それほど古い寺ではなさそうです。


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説明看板です。


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その説明によると、楠木正行をはじめ「四條畷の戦い」戦死者を弔うために開山したとあります。

昭和25年(1950年)に飯盛山妙法寺改め楠公寺としたと。

その名付け親は、池田隼人大臣(故)とありますが、池田勇人元総理大臣の間違いではないでしょうか?


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ただ、正行を忠臣と評し、高師直賊将としているあたりは、あまりよろしくないですね。

第二次世界大戦後に開山した寺だというのに、戦前の皇国史観から脱却できないままです。


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境内横の傾斜面にある墓石群の中央には、「楠氏有縁無縁之諸々霊位報恩塔」と刻まれた石碑があります。


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最後に、寺周辺の紅葉写真です。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-10 01:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その164 「飯盛山城跡」 大阪府大東市

前稿で紹介した四條畷神社の裏山にあたる、標高315.9m飯盛山山頂に、飯盛山城跡があるのですが、ここも、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日に起きた「四條畷の戦い」の戦場となったと伝えられます。


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神社南側にある石碑です。

石碑は大正8年(1919年)、記念碑は大正13年(1924年)に建てられたもののようです。

ここから飯盛山に登ります。


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登山道はハイキングコースになっているので、歩きづらいこともなく、道に迷うこともありません。

ただ、勾配は結構きつく、ハードです。


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30分以上登ると、ようやく最初の曲輪、二の丸史蹟碑郭にたどり着きました。

この日は12月3日だったのですが、この時点で汗だくです。


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こちらも麓にあった記念碑と同じく大正13年に建てられた「飯盛山史蹟の碑」です。


碑文

標高三一八米 地質花崗岩

建武年中北條氏の餘黨此に據り楠木正成之を討ちたりと傳ふ正平三年一月四條畷の戦に方り高師直の軍此を占む楠氏没落後畠山氏河内を領するに及び天文年中其臣木澤長政をして城郭を構へしむ永禄のころ三好長慶威を近畿に振ふに至りこれを略取して数修築を加ふ其規模頗る宏大三好氏十有餘年間軍事庶政の本據たりしが後織田信長の近畿一統に至りて城廢せらる現存せる城址は実に當年のものなり

大正十三年一月廿六日  大阪府立四條畷中學校校友會


簡単にまとめると、建武の頃に楠木正成がここで北条氏残党を討ち、その後、四條畷の戦いで高師直軍がここを占領して楠木正行討死

その後は畠山氏が河内を領し、家臣の木沢長政が天文年間にこの地に築城するも、永禄年間に三好長慶が奪取して城を拡張。

しかし、その後、織田信長の近畿統一により廃城となります。


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同じく、二ノ丸郭にある立て札です。

実は、四條畷の戦いの頃の飯盛山城は、臨戦的な陣城で、恒久的な城ではなかったといわれています。

現在残る城址遺構のほとんどは、戦国時代、三好長慶の頃のものです。


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二ノ丸郭の景色を眺めたあと、再び山頂に向かって登ります。


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青空に紅葉が映えます。


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二の丸御体塚郭です。

戦国時代、ここの城主だった三好長慶の死後、ここ御体塚郭に遺骸を3年間、仮埋葬していたのだとか。


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御体塚郭の斜面には、石垣跡が綺麗な状態で残っています。


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見事ですね。


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この石段を登ると、山頂のようです。


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山頂が見えました。


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山頂の高櫓郭には、「飯盛城址」の石碑と楠木正行の像が建っています。


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本丸に着いたのは正午前、北向きに建っているので、逆光で上手く撮影できません。


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この像は、はじめ昭和12年(1937年)に建立されたそうですが、第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)に出された金属供出の命令により、台座を残して上の銅像の部分を供出されたそうです。

現在の像は昭和47年(1972年)に再建されたものだそうです。


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斜め後ろ姿です。


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本丸跡に設置された城の縄張り図です。

たいへんわかりやすい。


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本丸展望台からの西の眺望です。


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本丸斜面にも、石垣跡がきれいに残っています。


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こちらも石垣跡ですね。


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まだまだ、曲輪跡やら土塁跡などたくさん写真があるのですが、ずいぶん長くなっちゃったので割愛します。
せっかくなので紅葉の写真を数枚。


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『太平記』には、「懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」と記されています。

懸下野守とは、楠木八臣のひとり恩地左近満一のことで、恩地軍5000の兵がこの城に立て籠ったようです。

しかし、そのほとんどが戦下に散りました。

最後に、下山してから飯盛山を見上げます。


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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-09 09:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その163 「四条畷神社」 大阪府四條畷市

大阪府四條畷市にある「四條畷神社」にやってきました。

ここは、楠木正成の嫡男・楠木正行を主祭神とする神社です。


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正平2年/貞和3年(1347年)9月から11月にかけて、南朝方・楠木正行軍に摂津国天王寺・住吉浜にて大敗を喫した北朝方は、翌年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、本格的な南朝攻撃を開始します。

そして1月5日、両軍が激突したのが、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)でした。

後世にいう「四条畷の戦い」です。


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結果は、圧倒的な兵力の足利軍が圧勝します。

『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったと伝えていますが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようです。

正行は弟の正時刺し違えて自決しました。


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ここを訪れたのは12月3日でしたが、かろうじて紅葉が残っていました。


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神社の歴史は比較的新しく、社殿が完成して御鎮座祭が執り行われたのは、明治23年(1890年)だそうです。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成「大楠公」として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も、「小楠公」と呼ばれ崇められるようになりました。

そして、討死したと伝わるここ四條畷の地に、正行を祀る神社ができたわけです。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に父の正成を祀る神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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社殿の横に目をやると、見憶えのある2体の石像が。


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そう、「その87」で紹介した櫻井驛跡や、「その144」で紹介した吉野山如意輪寺にあった、楠木正成・正行父子の桜井の別れ像です。


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題して、「紅葉と楠木父子」(笑)。


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拝殿の横には、正成の妻であり正行公の母である久子を祀った御妣(みおや)神社があります。


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その側には、久子・正行母子の石像が。


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『太平記』巻16「正成首送故郷事」によると、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、久子がこれを叱責し、父の遺志を継いで忠臣となるよう諭したといいます。


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叱られているのに笑ってます(笑)。


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父の正成は江戸時代から英雄視されていましたが、父子ともに神格化されたのは明治に入ってから。

多分に政治的意図が含まれた神といえます。

人神とは、そういうものなんでしょうけど。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-08 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その162 「小楠公義戦之跡」 大阪市北区

大阪市営地下鉄谷町線と京阪電鉄が交わる天満橋駅を地上に上がった川沿いに、「小楠公義戦之跡」と刻まれた大きな石碑があります。

「小楠公」とは、楠木正成の嫡男・楠木正行のことで、父・正成は「大楠公」と呼びます。


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延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が敗死したあと、楠木氏はしばらくのあいだ鳴りを潜めていましたが、嫡男の正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、正平2年/貞和3年(1347年)8月10日、ついに挙兵します。

『太平記』では、この年が父・正成の十三回忌に当たっていたからだと説明していますが、この頃、足利幕府内では足利尊氏の弟・足利直義と、尊氏の側近・高師直対立表面化しはじめており(これが、のちの観応の擾乱に繋がっていきます)、混乱の様相を見せていたことが挙兵の理由だったと考えられます。


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楠木軍は9月に藤井寺近辺で足利方の細川顕氏を破り、11月には住吉浜で山名時氏を破りました。

この住吉浜の戦いの際、敗走する敵兵がこの地で川に落ちて溺れているのを助け、体を温めて手当をし、衣服と薬を与え、4、5日休養させて敵陣へ送り帰したと伝えられます。

助けられた敵兵はこの恩に報いるため、翌年の「四條畷の戦い」では楠木軍として参戦した者が多数おり、正行と共に討死したと伝えられます。


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以下、『太平記』巻26「四条縄手合戦事付上山討死事」原文


「安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。」


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この正行の行為は、士道の華として後世に讃えられました。

明治の元勲にして日本赤十字社創始者である佐野常民は、日本が赤十字に加盟する際、この故事を引き合いに出し、「赤十字精神の鑑」として日本人スピリッツを宣伝したとか。

そのおかげもあってか、日本は容易に条約加盟を認められたといわれているそうです。


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石碑の背後に流れる大川です。

ここに敵兵が溺れていたということですね。

ここは、有名な天神祭の会場として、年に一度、全国からの観光客で賑わう場所でもあります。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-12-07 10:01 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)