太平記を歩く。 その144 「如意輪寺」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した勝手神社から、中の千本の谷を隔てた山の中腹に、如意輪寺があります。

ここは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野に行宮を定めた際、勅願所となった寺院です。

本堂裏山には、後醍醐天皇陵があります。


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寺の歴史は古く、醍醐天皇(第60代天皇)の延喜年間(900~922年)に、日蔵上人により開かれたと伝わります。


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正平2年/貞和3年(1347年)12月27日、楠木正行、正時兄弟が、一族143人を引き連れ、まず吉野の皇居に参内して後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)に別れを告げたあと、ここ如意輪寺本堂の裏山に鎮まる後醍醐天皇陵に詣で、寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫りました。


「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」


天皇の勅願所でありながら、本堂には、楠木家の家紋・菊水の幕が張られていました。


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正行たちはそれぞれの名を過去帳にとどめて、髪を切って仏前に投げ入れ、四條畷の戦いに出陣しました。

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「正行公埋髻墳」と刻まれた石碑です。

ここに、143人の髻が埋められているそうです。


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こちらは、「楠左衛門尉髻塚碑」

慶応元年(1865年)、津田正臣によって建てられたものだそうです。


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こちらは「至情塚」

後村上天皇より正行の奥方にとの話があった弁内侍が、正行討死のあと、その菩提を弔うために尼僧となり、その黒髪を埋めたところです。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、宝物殿には、正行が記したと伝わる辞世の扉や、後醍醐天皇御物などの寺宝が数多く展示されていました。


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宝物殿の側の庭園には、向かい合うふたりの石像が。

おや?・・・これ、どこかで見覚えが・・・。


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そうです。

「その87」で紹介した櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)にあった、楠木正成・正行父子別れの像ですね。


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あちらは近年作り変えられたものでしたが、こちらの像は古そうです。


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正行、なんかみたいですね(笑)。


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境内の最も高い場所にある多宝塔です。

いつの時代に建てられたものかは、わかりませんでした。


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そして最後に、後醍醐天皇御霊殿です。

この中に、後醍醐天皇自作の木像が安置されているそうですが、この日は公開されておらず、観ることができませんでした。


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細かい彫刻に目を奪われます。


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かつては色鮮やかだったことがうかがえますね。


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さて、次稿は本堂裏山にある、後醍醐天皇陵を訪れます。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-18 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その143 「勝手神社跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山のちょうど中央あたりにある、勝手神社跡を訪れました。

ここは吉野八社明神のひとつで、大山祇神、木花咲耶姫など六柱の神を祭神としています。


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吉野大峯の山々を鎮める信仰があり、吉野山口神社ともいいます。

また、仏法守護の神、軍神としても有名です。


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ただ、ここの社殿は、平成13年(2001年)9月27日、不審火により焼失してしまったそうで、いまは礎石を残すのみとなっていました。

ひどいことするやつがいたものです。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月28日、足利方高師直の大軍は、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の吉野皇居を攻め、金峯山寺蔵王堂をはじめとする吉野山の主な堂塔伽藍を焼き払いました。


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後村上天皇はその難を避けて、さらに吉野の奥に落ち延びますが、その途中、この社前で馬を下り、


「たのむかひ 無きにつけても誓ひてし 勝手の神の名こそ惜しけれ」


と、詠まれたそうです。

天皇の無念の様子がうかがえる逸話ですが、火の海と化した吉野の山中で、悠長に歌を詠まれる余裕などあったのかどうか・・・。

無粋なことをいうようですが。


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社殿の創建は不明で、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が改築をしましたが、正保元年(1644年)12月に焼失したため、翌年に再建、明和4年(1767年)に再び火災に遭い、9年後の安永5年(1776年)4月に再建されました。

しかし、先述したとおり、平成13年(2001年)に不審火によって焼失し、現在に至ります。

日本の木造建造物は、火災との戦いの歴史です。


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敷地内には、再建復興御寄付のお願いと書かれた看板が立てられていました。

一日も早く再建できるよう願います。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-17 23:53 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第41話「この玄関の片隅で」 ~鷹匠・本多正信~

 やはり鷹匠ノブ本多正信でしたね。本多正信といえば、常に徳川家康の側にいて智謀をめぐらす側近中の側近といったイメージがありますが、実は、正信が家康から重用されるようになるのは天正10年(1582年)の本能寺の変以後のことで、天正3年(1575年)頃かと思われるドラマのこの時期は、まだ歴史の表舞台には出てきていません。

 家康より5歳上の正信は、はじめは鷹匠として家康に仕えますが、身分は低く、大久保忠世らからの援助を受けて過ごしていたといいます。そんな暮らしに嫌気がさしたのかどうか、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、弟の本多正重と共に一揆衆につき、家康に敵対します。この一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事で、三河家臣団の半数が一揆衆に与したと言われています。家康の家臣団といえば「忠実」というイメージが強いですが、最初からそうだったわけじゃないんですね。


 一揆の鎮圧後、一揆に与した武士の多くは徳川(当時は松平)家への帰参を望みますが、正信は出奔して浪人します。このあたり、若き日の正信はなかなかの気骨ある男だったようですね。やがて正信は大和国の松永久秀に仕えたといい、久秀をして「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と称されたといいますが、永禄8年(1565年)、久秀が三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害すると(永禄の変)、再び出奔して諸国を流浪したとされ、その間の行動は詳しくわかっていません。一説には、加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともいわれます。後年の策謀家のイメージとは違って、反骨心旺盛で血気盛んな人物だったようです。


 諸国を流浪したすえ、正信は再び家康に仕えることになるのですが、帰参した時期ははっきりしません。『寛永諸家系図伝』は元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃と伝え、『藩翰譜』によると、天正10年(1582年)の本能寺の変後と伝えます。どちらが事実かはわかりませんが、確実な史料に正信が現れるのは本能寺の変以後のことで、それ以前は、帰参していたとしても、それほど重要なポストを与えられてはいなかったのでしょう。まあ、一度裏切った身ですからね。当然といえば当然のことで、むしろ、かつての裏切り者を再び召し抱えた家康の度量の広さがうかがえます。あるいは、人材としての正信が、それほど有能だったということかもしれません。


 話をドラマに移して、草履番から小姓に上がるためにあれこれ知恵をめぐらせる万千代(のちの井伊直政)ですが、どれも稚拙浅知恵、家康はすべてお見通し空回り感ありありです。まあ、数えで15歳といえば、いまの中学1、2年生。まだ子供ですからね。伝承では、直政は家康に仕えてから破竹の勢いで出世していったとされていますが、実際には、多少の挫折失敗はあったことでしょう。歴史の結果を知っている後世のわれわれから見れば、そんなに焦らなくとも君はやがて徳川四天王のひとりとなるのだから、と言いたくなりますが、15歳の当の本人はそんなこと知るはずもなく、ドラマのように、必死にアピールしていたかもしれません。もうちょっとの辛抱です。


 ちなみに、織田信長から3000本用意しろと言われた材木。これ、おそらく長篠の戦いで立てる馬防柵に使用する材木でしょうね。今話はすべてフィクションの回でしたが、ちゃんと史実に繋がるアイテムを題材に描いた創作で、秀逸でした。長篠の戦いでは初陣を飾れず、留守居を命じられた万千代でしたが、どんな活躍を見せてくれるのか楽しみです。・・・って、完全に直政のドラマになっちゃってますが。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-16 02:14 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その142 「後醍醐天皇御幸の芝・慰霊歌碑」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水院宗信法印の墓から南へ急坂を登ると、右側の桜が茂る小さは平地に、「後醍醐天皇御幸の芝」があります。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野山皇居にいた延元4年/暦応2年(1339年)5月のある日、大勢のお供を連れてこのあたりまで御幸した際、空模様が怪しくなり、雨が降り始めたそうです。


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そこで、かたわらの観音堂に入ってしばらく休まれるうち、


ここはなほ 丹生の社にほど近し 祈らば晴れよ 五月雨の空


と詠まれると、急に空が晴れ渡り、うららかな日和になったそうです。


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この話は、『吉野拾遺』という説話集に記された逸話で、それ以来、その観音堂を「雨師観音」と呼ぶようになったのだそうです。

他にも、「夢違い観音」とも呼ばれていたそうですが、明治8年(1876年)、神仏分離によって廃されたそうです。


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現在、雨師観音があった場所には、小さな社があります。


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後醍醐天皇御幸の芝から北を見下ろすと、金峯山寺蔵王堂が見えます。


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雨師観音の伝承、信じるか信じないかは別にして、後醍醐天皇の波乱万丈の人生のなかの和みのひとときにふれた気がしますね。

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近くには、「後醍醐天皇御慰霊詩碑」と刻まれた大きな石碑があり、後醍醐天皇の御製が刻まれています。


「ここにても 雲居の桜 咲きにけり たくかりそめの 宿を思ふに」


同じく石碑には「松の下露」と題したが刻まれています。

この詩が誰のものかは調べがつきませんでしたが、「松の下露」とは、元弘の乱に敗れて笠置山から逃れる途中の後醍醐天皇が、大きな松の下で休息をとり、そのときにお供の藤原藤房と交わした歌に由来します。


「さしていく笠置の山をいでしより 天が下にはかくれがもなし」


吉野山に南朝を起こした後醍醐天皇でしたが、「こんなところに来たくはなかった」という思いが伝わってきますね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-15 00:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その141 「吉永院宗信法印の墓」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水神社から南へ1kmほどの登山道の木立のなかに、吉水院宗信法印の墓がひっそりとあります。


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「吉水院宗信法印御墓」と刻まれた石碑の建つ階段を登ると、「忠誠義烈」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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その奥にある苔むした墓が、宗信法印の墓所です。


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吉水院の僧、宗信は金峯山寺執行でしたが、延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京を逃れて吉野山潜行されたとき、天皇を迎えた人です。


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京都に対抗するには旗色の悪い後醍醐天皇を吉野山に迎えるに際しては、吉野山内でも賛否両論、さまざまな意見対立があったようですが、宗信法印は金峯山寺蔵王堂に大衆を集めて後醍醐天皇に味方する義を説き、衆議一決して、若い大衆300人が甲冑に身を固めて迎え出たと伝えられます。

『太平記』では、そのときの様子を伝えて余すことありません。


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時代が変わるとともに、宗信法印の評価も変転しましたが、後醍醐天皇の南朝設立に重要な役割を果たした人物であることは、間違いありません。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-14 00:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その140 「吉水神社」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から南東に300mほど下ったところに、吉水神社という由緒ある神社があるのですが、ここはかつて吉水院といわれ、吉野山を統率する修験宗の僧坊でした。


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延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山に入ると、吉水院の住僧であり金峯山寺の執行でもあった宗信法印らに迎えられ、ひとまず、ここ吉水院を仮の皇居としました。


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天皇は、楠木正行、真木定観、三輪西阿ら率いる兵に守られ、ここ吉水院に入ったと伝えられます。


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吉水神社の書院は、日本住宅建築史上最古の書院として、世界遺産に登録されています。


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が、残念ながら、わたしが訪れたこの時期は、書院改修工事中のためその外観を見ることができませんでした。


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由緒書きです。


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外観は見られませんでしたが、書院内は見学できました。


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書院内には、後醍醐天皇玉座が残されています。


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南朝4代57年の歴史は、ここから始まったんですね。


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この部屋は上段の間五畳下段十畳敷で構成されています。


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「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」

この有名な後醍醐天皇の御製は、この部屋で生まれたそうです。


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こちらも御製。


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時代は下って文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した際、ここ吉水院を本陣として数日間滞在したと伝えられますが、その際、この部屋も修繕されたと伝わります。


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正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品で、屏風は狩野山雪の作品だそうです。


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書院内には、後醍醐天皇に関する様々な宝物が展示されています。

撮影禁止じゃないのがありがたい。


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こちらの掛け軸は、若き後醍醐天皇御宸影


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こちらは、教科書などでよく知られている後醍醐天皇御潅頂宸影です。


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こちらは後醍醐天皇御宸翰

天皇自筆の書ということですね。


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他にも、石硯や茶入れなど、後醍醐天皇御物が数多く展示されています。


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『太平記』とは関係ありませんが、先述したように安土桃山時代、豊臣秀吉がここで盛大な花見を催しており、そのときの寄贈物も多く残されています。

上の写真は秀吉愛用の金屏風


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こちらは豊太閤吉野之花見図の複製。


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こちらは秀吉寄贈の壺と花瓶


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また、時代は遡って、文治元年(1185年)、兄・源頼朝の追手を逃れた源義経静御前は、弁慶と共に吉野に入り、ここ吉水院に潜伏していたとの伝承もあります。

そして、ここが義経と静御前の別れの地となったそうです。

上の写真は、義経らが数日間を過ごした潜居の間


「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 静御前

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書院を出て庭の北側に行くと、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋できる日を祈ったとい北闕門(ほっけつもん)があります。


「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」後醍醐天皇御製


上の御製は後醍醐天皇の辞世と言われていますが、この歌にある「北闕の天」とは、この門から見た京都の空のことでしょう。


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北闕門に掲げられた後醍醐天皇御製です。


「みよし野の 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん」後醍醐天皇御製


ある日、この門の前で後醍醐天皇がこの歌を詠まれると、側にいた宗信法印が次の歌を返したといいます。


「花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよし野の山」宗信法印


後醍醐天皇は京に戻る日をにたとえ、「花はいつ咲くのだろか?」と宗信法印に問うたところ、「花の咲く時期はわかりませんが、かならずすばらしい花が咲きますよ」と、宗信法印は返したんですね。

しかし、後醍醐天皇が生きているあいだにその花が咲くことはありませんでした。

後醍醐天皇崩御に際して、その忠臣たちがここで号泣したと伝えられます。

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様々な歴史の舞台となった吉水院は、明治8年(1875年)、吉水神社に改められました。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-13 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その139 「吉野朝宮跡」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から西側を望む台地に、南朝妙法殿というのような建物が見えるのですが、このあたりが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開いた吉野朝廷、いわゆる南朝が営まれた皇居跡と伝えられるところです。


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皇居跡の台地には、「吉野朝宮址」と刻まれた大きな石碑があります。


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延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山の吉水院に身を寄せて仮の皇居としました。

しかし、吉水院では手ぜまだというので、蔵王堂近くの広い寺をということになり、この地にあった実城寺を皇居と定めて、寺号を金輪王寺と改めました。

以後、南北朝が合体する元中9年(1392年)閏10月までの57年間を、南北朝時代と呼ぶようになります。


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後醍醐天皇はこの皇居で、京都回復の方策をいろいろめぐらしますが、天下の形勢は南朝に厳しく、また、身近に仕える公卿たちも次々と死んでいき、延元4年(1339年)8月15日、第7皇子義良親王に皇位を譲って後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)をたてます。

以降、吉野の南朝は3代続き、最後の後亀山天皇(第99代天皇・南朝4代天皇)が、北朝を擁護する将軍足利義満講和を受け入れて、57年間続いた皇室の分裂は1つに戻り、吉野朝は幕を閉じます。


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皇居跡には、南朝4代天皇の歌碑があります。

まずは後醍醐天皇御製

袖かへす 天津乙女も思ひ出ずや 吉野の宮の昔語りを


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続いて後村上天皇御製

吉野山花も時えて咲きにけり 都のつとに今やかざさん


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そして長慶天皇(第98代天皇・南朝3代天皇)御製

わが宿と頼まずながら吉野山 花になれぬる春もいくとせ


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その横が、後亀山天皇御製

見しままに花も咲きぬと都にて いつか吉野の春を聞かまし


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時代は下って江戸時代、金輪王寺は徳川幕府によってもとの実城寺の名称に戻され、明治時代に廃寺となりました。

現在は皇居跡公園とされ、南朝妙法殿が建てられています。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-12 00:45 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第40回「天正の草履番」 ~日の本一の草履番~

 天正3年(1575年)2月、徳川家康と面会した虎松は、名を家康から与えられた井伊万千代と改め、家康に仕えます。ドラマでは、「井伊」を名乗ることを手放しに喜べないおとわ(井伊直虎・次郎法師)でしたが、武家にとって何よりも屈辱なことは家名を失うことで、家名を失った武家がもっとも望むのは家名再興でした。家康のこのはからいは、井伊一族にとっては何よりのプレゼントだったはずです。


 一方、とんだ思惑違いだったのが養父として虎松を育てた松下源太郎清景でした。松下家は徳川家の家臣で、清景の弟・松下常慶は家康からたいへん目をかけられており、虎松が家康にお目見えできたのは、おそらく清景・常慶兄弟の尽力があってのことだったでしょう。もっとも、実子のいない清景は虎松を後継ぎと考えていたはずで、15歳で虎松を家康に引き合わせたのは、あくまで「松下虎松」として、あわよくば家康に烏帽子親になってもらい、元服させたいとの思惑だったんじゃないでしょうか?


ところが、蓋を開けてみれば、家康は元服どころか「万千代」という幼名を与え、井伊家を再興させてしまいます。これは井伊一族にとっては大きな喜びだったでしょうが、たちまち後継ぎを失った松下家にとっては、お家存続の危機を意味します。いい面の皮ですよね。ドラマでは、寛大な態度で理解を示した清景でしたが、実際には、苦虫を噛み潰す思いだったに違いありません。


 ちなみに、清景はのちに中野直之の次男を養子にし、代々、井伊氏に仕えることになります。


 さて、徳川家の家臣となった万千代ですが、『井伊家伝記』の伝えるところでは、いきなり小姓として三百石を与えられたといいます。しかし、それは後世が家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造った話だと見てよさそうで、実際には、草履番だったかどうかはわからないにしても、それほど重用はされていなかったんじゃないでしょうか? かつての地頭とはいえ一度は潰れた家で、しかも、今川方だったわけですからね。家康の正妻で井伊氏の血を引く築山殿の口添えがあったとしても、他の家臣の手前、最初は草履番あたりが妥当だったんじゃないかと。


 もっとも、別の説では、万千代が破竹の勢いで出世していった理由について、万千代は家康の稚児小姓(男色相手)だったんじゃないか、という説があります。戦国時代、名のある武将のほとんどは、15、6歳の美しい少年を男色相手として身辺に仕えさせていたといい、その多くは、草履取りの名目で召し抱えていたことから、男色相手の家来を「小草履取り」と言いました。実際、万千代はたいそう美形だったといいます。その説が本当なら、万千代も、やはり最初は草履取りだったかもしれません。


「井伊万千代、かくなるうえは日の本一の草履番を目指す所存にございます!」.


そう言い放って意地を見せた万千代の奮闘ぶりが描かれた今話でしたが、ここで、ふと、ある言葉を思い出しました。それは、阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループの創業者である小林一三の名言。


「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。」


木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が織田信長の草履取りから出世したという故事を下敷きにした言葉だと思いますが、実際、そのとおりですよね。現在の境遇に納得いかなくても、腐らずにそこでできることを目一杯やる。それが「仕事」をするということで、何も考えずに与えられた役目をただこなすだけでは、単なる「作業」に過ぎません。「仕事」とは、「事に仕える」こと。与えられた事柄をより良くするにはどうすべきかを、常に考えながら事に臨むことが「仕事」なんですね。その意味では、藤吉郎も万千代も、最初から「仕事」ができる人物だったのでしょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-10 20:12 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その138 「大日寺」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂より500mほど南下した場所に、大日寺という小さなお寺があります。

ここは、「その136」 「その137」で紹介した村上義光・義隆父子の菩提寺だそうです。


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勝手神社の前の小道をしばらく下ると、小さな山門が見えます。

ここが、大日寺です。

いまは真言宗のお寺だそうですが、かつては金峯山寺の一院だったそうです。


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元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府方の二階堂貞藤(道蘊)率いる大軍に攻められ、村上義光・義隆父子は大塔宮護良親王の身代わりとなって果敢な最期を遂げました。

大日寺は、この村上父子の菩提寺として、今日まで追善供養を行ってきたそうです。


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寺伝によると、大海人皇子(のちの天武天皇)ゆかりと伝えられるそうで、吉野山で最古の寺院であったと伝わる日雄寺の跡と伝えられるそうです。

本堂には、金剛界大日如来を中尊とする五智如来が祀られているそうで、藤原氏時代の仏像様式を伝えるものとして、重要文化財に指定されています。



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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-08 00:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その137 「村上義隆の墓」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂より南に約1.5km、勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道257号線沿いに、前稿で紹介した村上義光の息子・村上義隆があります。

地図では勝手神社の交差点から近いと思ったのですが、結構歩きました。


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義隆は父とともに大塔宮護良親王に従い、吉野城の戦いにも加わっていました。

元弘3年(1333年)閏2月1日、父は大塔宮の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げ、息子の義隆も父とともに死ぬ覚悟を決めますが、最後まで宮を守るよう父に諌められます。

父の遺言どおり宮を守ってこのあたりまで落ち延びてきたところ、敵に追いつかれ、10ヵ所以上の矢傷を受け、もはやこれまでと悟った義隆は、小竹の藪にかけ入って切腹して果てたと伝わります。

わずか18年の生涯でした。

この間、大塔宮は天の河へ落ち延びることができました。


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父・義光の墓は宝篋印塔でしたが、息子・義隆の墓は違いますね。

建てられた年代が違うのでしょうか・・・。


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地元に人に道を聞いたら、皆、父の義光の墓を案内してくれるので、義隆の墓に行きたいと聞くと、地元の人にもあまり知られていないようでした。

父のような壮絶な最期ではありませんが、同じ日に大塔宮のために腹を切ったことは同じ。

もうちょっと知られててもいいですよね。




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# by sakanoueno-kumo | 2017-10-07 12:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)