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江~姫たちの戦国~ 第20話「茶々の恋」

 天正15年(1587年)10月1日、九州征伐から帰った豊臣秀吉は、九州平定と聚楽第の完成を祝い、京都の北野天満宮において大茶会を催す。この会は、豊臣政権膝下の大名や公家はもちろん、町人でも百姓でも、身分は問わず、服装のチェックもなく、茶碗さえあれば誰でも参加することが許され、勝手に茶席を設けてもかまわないという、いかにも庶民感覚を持った秀吉らしいイベントだった。

 「茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つ、茶なきものは焦がしにても苦しからず」(定御茶湯之事)

 「茶の湯好きの者なら町人も農民もみな参加せよ。誰にでも秀吉の点前でお茶がくだされるであろう。」といったおふれのもと、秀吉みずからの点前にあずかれるとあって人々が殺到。一説には800席とも1500席ともいわれる茶席が設けられたという。茶席が立ったのは、北野天満宮門前の松原の中。一席あたりの広さは畳二畳分といわれ、道の両脇には、思い思いの茶席がびっしりと並んでいたという。茶席の中心は北野天満宮の拝殿。ここに大坂城から持ち込んだ秀吉自慢の黄金の茶室が置かれ、その左右に黄金の茶道具も飾られた。そこで秀吉自ら亭主を務め、800人の家臣に自ら茶を点じたと伝えられる。茶会は当然、大盛況。当初は10日間の予定で開催されたこの茶会だったが、何故かこの日1日で閉会(一説には、佐々成政の領国、肥後国で国人一揆が発生したため、といわれる)。たった1日のイベントだったが、「豊臣政権」のPRキャンペーンとしては、1日でも充分すぎるくらいだった。

 織田信長の時代、“茶の湯”は、貴族社会のみに許された特権的な嗜みだった。秀吉はそれを、武士階級から庶民まで、容易に触れられるパブリックなものとした。当時の人々にとっては、新しく誕生した「豊臣政権」に、今までにない新鮮な期待感を抱いたに違いない。さすがは、“人たらし”といわれた秀吉。PR費用は相当なものだったと想像するが、このキャンペーンによって、豊臣政権人気は絶頂期を迎えたといっていいだろう。しかし、必要以上に高い支持率を受けた政権というのは、あとは失墜の一途を辿るのが常。それは、平成の現代を見ても、変わらないようである。

 お茶々が秀吉の側室となった時期は、正確にはわかっていない。天正15年(1587年)に妹・お初の結婚、同年9月、聚楽第竣工、10月に「北野大茶会」で、この翌々年の天正17年(1589年)には秀吉との最初の子・鶴松(お捨)を生んでいるので、おそらく茶会後のこの時期と考えて、遜色ないように思われる。母・お市の方が落命して秀吉庇護のもとで暮らし始めてから4年、お茶々は18歳になっていた。このとき秀吉は50歳。現代の感覚でいえば「援助交際」のような年齢差だが、この時代、娘より若い側女を持つ武将は、特に珍しくはなかった。とはいえ、人生50年の時代と考えれば、このときの秀吉は現代の50歳よりもはるかにじーさんだったわけで、お茶々にとってドラマのような恋愛感情を抱ける相手であったかどうかは、甚だ疑問ではある。しかし、ドラマの台詞でもあったように、権力をかさに無理矢理手篭めにしようと思えば、4年もかけずとも可能だったはず。お茶々からみれば秀吉は、信長の命令であった父・浅井長政の件はともかく、母・お市の方を死に追いやったであることは間違いなく、ドラマのように「秀吉憎し」の感情があったとしても何ら不思議ではない。その感情を癒すのに4年という年月を費やした・・・そう考えれば、秀吉もなかなかなジェントルマンである。

 「お茶々様には、何としてもお幸せになっていただきたいと存じますれば。それが父上と母上を殺めた男のせめてもの償いかと存じまする。」

 晩年の秀吉の寵愛を一身に受けたお茶々こと淀殿。豊臣家の継嗣を生み、秀吉の死後も、事実上、豊臣家のトップとして君臨した彼女のその生涯は、果たして幸せだったといえるかどうか・・・後世の私たちには、想像の世界でしかない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-30 19:46 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(4)  

Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-05-30 21:20
タイトル : 【江~姫たちの戦国~】第20回と視聴率『茶...
第20回の視聴率は、前回の17.3%より上がって、19.0%でした♪やはり江があまり出ない方が視聴率が上がりますね(笑) 遂に、茶々が秀吉に落ちましたね。今回は、茶々が秀吉に落ち...... more
Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2011-06-03 23:56
タイトル : 茶々の思いは 〜江・茶々の恋〜
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Commented by へいたらう at 2011-05-31 12:02 x
ご無沙汰になってしまいました。
とはいえ、実はまだ、色々あって今週一杯はまったく、余裕がないのですが、ただ、この先、貴兄のお力を借りねばならない案件が出てきてしまいました。
と申しますのも、今月半ばにある会の周年で記念講演をすることになったのですが、そのタイトルが何と、無茶ぶりもいいところで「お江と黒田家」というものでして・・・。
お力添えのほど、よろしくお願いいたします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-05-31 23:36
< へいたらうさん
被災地でのお勤め、お疲れさまでした。
肉体的にもさることながら、気疲れすることが多かっただろうと想像します。

ところで講演の件ですが、残念ながら私では力不足だと思います(苦笑)。
たしかに毎週、大河のことを起稿していますが、昨年の龍馬とは違って、そもそも、お江のことなどほとんど知りませんから(苦笑)。
で、しょうがないから毎週、秀吉やら信長のことを書いて誤魔化している現状です(汗)。
ですから、貴兄の参考になるような知識は、残念ながら持ちあわせておりません。

そんな私ですが、「お江と黒田家」という講演内容が、いかに無茶ぶりであるかはわかります(笑)。
頑張ってください(笑)。
Commented by SPIRIT(スピリット) at 2011-06-03 07:58 x
幼少の頃から茶々は不運続きですからね。
多少難儀な性格になったのも想像に難くないのですが、彼女を側室に迎えるあたり、さすがは人たらしの秀吉といったところでしょうか。

茶々はもっと気性の激しいイメージがあったのですが、今回は物静かで繊細というか、イメージ変わりました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-06-03 12:16
< SPIRIT(スピリット) さん
そうですね。
淀殿(お茶々)といえば、プライドの高いヒステリックな悪女に描かれることが多いですが、これは、後年の『大坂の陣』での伝承からくるものでしょう。
ちょっと気の毒な気もしますね。

実際には、幼くして両親と死別した三姉妹の長女ですから、責任感の強いしっかり者の女性だったんじゃないでしょうか。
だからこそ、秀吉の側室になったんじゃないかと・・・。

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