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JIN -仁-(完結編) 第10話(最終章・前編)

 坂本龍馬暗殺予定日の慶応3年(1867年)11月15日になって、ようやく龍馬と会うことができた南方仁は、龍馬を助けるべく居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移したものの、日が変わった16日未明、龍馬は史実通りに前頭部を横に斬られて倒れる。しかし、史実とは違って龍馬を斬った人物は、龍馬の護衛に付いていた長州藩士・東修介(架空の人物)だった。
 「私の兄は貴方に切られたんです。貴方が久坂さんと会った帰りに。貴方は私の敵なんです。そのつもりで貴方に近づきました。」

 この時代、仇討(敵討)合法な行為だった。武士階級のみに許されたもので、範囲は父母や兄など尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。その仇討をした相手に対して復讐をする重仇討は禁止されていた。本来は仇討をする場合、主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取るという手続きが必要。しかし、無許可であっても、現地の役人が調査して仇討であると認められれば、大目に見られ、場合によっては賞賛された。逆に父母や兄が殺されたにも関わらず仇討しないことは武士として恥ずべきことで、場合によっては家名お取り潰しになったりもした。

 つまり、東の龍馬に対する仇討の企ては、逆恨みでも何でもなく、武士として当然の、あるべき姿だったのである。仇討のために龍馬に近づくも、龍馬の考え方に感銘し、尊敬すらし始めていた東。しかし、仇討を断念するは武士の恥。そんな葛藤に苦しんでいた東だったのだろう。
 「私の兄は志士で、やはり志半ばで倒れました。兄の代わりに果たしたいことがひとつあったのですが、坂本さんの大政奉還の建白を読んだ時に、もう良いのではないかと思ったのです。」
 前話でそう言っていた東が、この局面で龍馬に刃を向けたのは、武士の誉である仇討だったのか、それとも、咲が言うように龍馬の生き方を守るためだったのか・・・。

 これより6年後の明治6年(1873年)、明治政府の司法卿・江藤新平らによる司法制度の整備により、仇討は禁止される。それ以後、当然だが現在でも仇討は許されていない。しかし、肉親や大切な人が殺害された場合、その相手を殺したいほど憎む思いは今も同じだろう(肉親を殺された経験はないが)。現代の、どれだけ凶悪な殺人鬼であっても人権が守られる法制度が、果たして正しいものなのだろうか・・・なんて、昨今の裁判の報道などを見てときどき思ったりする。昔のほうが、被害者に優しい血の通った秩序だったんじゃないかと・・・。

 仁先生たちの懸命な治療により、一時的に意識を取り戻した龍馬と仁先生の会話。
 「先生には、この時代はどう見えたがじゃ?愚かなことも山ほどあったろう?」
 「教わる事だらけでした。未来は夜でもそこらじゅうで灯りがついていて、昼みたいに歩けるんです。でも、ここでは提灯を提げないと夜も歩くこともできないし、提灯の火が消えたら、誰かに貰わなきゃいけなくて・・・。一人で生きていけるなんて、文明が作った幻想だなあとか。離れてしまったら、手紙しか頼る方法ないし、ちゃんと届いたかどうかもわからないし・・・。人生って、ホント、一期一会だなあとか・・・。あと、笑った人が多いです。ここの人たちは、笑うのが上手です。」

 文明ってなんだろう・・・と、私もときどき思う。不便を便利にするために発達した文明に、結局私たちは縛られている。携帯電話なんてなかった十数年前までは、相手とすぐに連絡が取れないことが当たり前だった。今は、携帯が繋がらないと、私も含め人はすぐにイライラする。休日でも出先でも、いつでもつかまえられることが当たり前。逆に自分もつかまえてもらう体勢でいなければ、相手に不快感を与えてしまう。便利であるはずの文明に、縛られている。原発が止まって電力が滞ると、都市機能は麻痺し、経済すら滞る。提灯から提灯へ火を譲ったように、電力を国民皆で分け合わなければならない今、人々はそれぞれの立場で好き勝手なことを言い、混沌とした政治はこの期に及んでまだ国民の側を向うとしない。文明って、本当に人を幸せにしたのだろうか・・・と。

 「先生・・・わしゃ、先生の生まれた国を作れたかのぉ?・・・先生のように、優しゅうて、馬鹿正直な人間が、笑うて生きていける国を・・・。」

 坂本龍馬たち幕末の志士たちが命を賭けて目指した未来の国家像は、今のようなものだったのだろうか・・・。もし、彼らが現代の日本と日本人の姿を見たら、どう思うだろうか・・・。

 「こりゃぁ、もういっぺん日本を洗濯する必要がありそうじゃき!」
 そんな龍馬の言葉が聞こえてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-21 19:12 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(3)  

Tracked from たかいわ勇樹の徒然なる日記 at 2011-06-21 23:35
タイトル : ドラマ JIN -仁- 完結編第10話
 前回龍馬が東に斬られるというラストで幕を閉じ、何で目を瞑って刀振り回したんだコラ! てな感じで1週間が過ぎまして、いよいよ最終章前編に突入しました。 「南方仁がおれば、坂本龍馬は死なん!」 「助けますよ。俺が、この手で」  あの時と同じやり取りで……... more
Tracked from Witch House at 2011-06-22 10:11
タイトル : お部屋のコーディネイトおまかせください
リフォーム、お部屋のリニューアル、収納アドバイス、ハウスキーピングのプロフェッショナル... more
Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-06-24 09:32
タイトル : 【JIN(完結編)】第10話と視聴率「最終章前...
第10話の視聴率は、前回の18.0%より上がって、21.1%でした。初回の23.7%に次ぐ高視聴率でした♪次回は最終回で、PM9:00~10:48の2時間スペシャルです。とても楽しみです♪(^^)&nbs...... more
Commented by mohariza6 at 2011-07-19 03:21
屋外階段で、過去と未来の2人の仁が出会し、未来(現在)の仁が転げ、消えるシーン、
過去の仁がその後気が付くと、未来の仁に手術を受けたと云う事実は無かった、と云う、
しかし、この過去と未来の2人の仁が出会うシーンこそ、「仁」で何度も出て来る<フラッシュバック>のシーンで、ドラマの鍵だ。
と、云うことは、<過去の仁>は、一時、未来に舞い戻っていたが、その存在は、過去に繋がっていた、としないといけない。
<未来(現在)の仁>が、階段を転げ、消えたと云うことは、
消えた時点で、タイムトラベルし、(パラレルワールドの)<過去の仁>となり、
<過去の仁>は、<現在の仁>となり、
同時に、そのような<論理的に起こりえない「事実」>が消滅した、と云うことか・・・?
人間の世界の「ドラマ」に<論理の破綻>を挿入したこのシーンは、「仁」の名場面だった、かも知れない・・・。
そして、<今生きている仁は、存在するが、過去の仁は、同時に存在しない。>と云う<仁>と云う存在は、歴史上無かった、が、「心には残っている・・・」と云う「手紙」は感動モノだった・・・。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-07-19 14:18
< mohariza6さん
むっ・・・難しいですね(苦笑)。
たしかに、ツッコミどころはたくさんあります。
仁が戻ってきた現代の世界は、仁が6年間生きた幕末の延長線上にあるならば、仁が戻ってきた時点で未来は変わっていなければならず、未来(現代)の仁が階段から落ちてタイムスリップしたのちに未来の世界が変わったというのは合点がいかないところです。
幕末の人々から仁という人物の記憶が消え、現代の人々の記憶も仁によって修正された歴史上にあるならば、なぜ仁の記憶だけが修正されないのかも疑問ですし、仁の存在が幕末の歴史から抹消されたにもかかわらず、仁の残した足跡(ペニシリンや仁友堂や、咲が見つけた10円玉)は残っているという設定も、矛盾といえば矛盾です。
設定では、過去の仁と現在の仁が入れ替わって、すべては無に帰したわけですが、過去から舞い戻った仁は現代の仁より、実は6歳も歳食っているわけで・・・(笑)。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-07-19 14:18
< mohariza6さん
とまあ、矛盾をツッコめばいくらでも出てきますが、そういう揚げ足取りは無粋だと思わせるほど、感動的なラストシーンでした。
咲の手紙は、とにかく“切ない”の一言につきましたね。
これほどの話題作であり、しかも込み入った設定の物語では、往々にして最終回は拍子抜けの結末になる場合が多いのですが、このドラマは見事にそれを裏切ってくれました。
ドラマの制作関係者に拍手を贈りたいと思います。

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