江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)  

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Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-07-02 11:47
タイトル : 【江】第24回と視聴率「利休切腹」&『八重...
第24回の視聴率は、前回の18.0%より少し上がって、18.1%でした。2013年(次々回)のNHK大河ドラマは、綾瀬はるかさんが主演で、ドラマのタイトルは、『八重の桜』だと、NHKから公式発表...... more
Commented by ショコラ at 2011-07-02 11:51 x
>たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか

なるほど☆
その説、いいですね♪
武士でないのに、切腹させたから、ありえそうな気がします(^^)

このドラマのように、好き嫌いではちょっと浅い気がしました(^^;)

Commented by heitaroh at 2011-07-03 09:37
あれ?もう、利休は切腹したんですか?知りませんでした(笑)。

利休は朝鮮出兵に強硬に反対したから・・・という理由が一番、大きかったのかなと思っていましたが、でも、こういう事件が起きる時というのは怒りの感情がなかったとは思えませんから、案外に真相は単なる感情論かもしれませんね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-07-04 13:49
< ショコラ さん
レス遅くなってスミマセン。
たいていの物語では、狂気の秀吉と人格者の利休というふうに描かれますが、そうじゃない解釈がひとつぐらいあってもいいんじゃないかと・・・。
実際のところ、真相はわからないわけですからね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-07-04 13:57
< heitarohさん。
大徳寺山門の木像を引きずり下ろして磔にし、その木像に踏ませるかたちで首を晒したという逸話からみれば、かなりの憎悪を感じますよね。
そう考えれば、理由はひとつではなく、積み重なった感情があったのかもしれませんね。
一時は絶大な信頼を寄せていた存在だったことを思えば、可愛さ余って憎さ百倍といったところでしょうか。
Commented by mm at 2016-02-16 12:07 x
『真田丸』5話の伊賀越えで初めて書き込みしましたmmです。ご回答有難うございました。その後、『真田丸』以外の記事もぼつぼつ拝読しておりますが、沢山あるので圧倒されております。以下の記事を拝見し、少し感想を…。私自身、大学時代と卒業後何年かはお茶の研究を少しやっていたのです。

>利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。

海音寺のこの小説は知らなかったのですが、本記事を読んでピンときました。実は昭和15年が利休350年忌の年に当たります。それまでも100年忌などの節目にはやはり利休ブームが来ていますが、この350年忌にもまた大きな利休ブームがきました。海音寺の小説出版はそれに先行しているように見えますが、やはりその一環だったと想像されます。利休と秀吉については、昭和9年にはすでに、裏千家の発案で秀吉の遺徳をしのぶ目的で桐蔭会が結成され、豊国神社に桐蔭席が設けられて、以後毎年献茶が行われています。そして、海音寺とつながりの深い桑田忠親(利休と大名のお茶の研究で有名)が、昭和15~17年に何冊も利休や秀吉絡みの本を出版しています。昭和30年代からは茶道古典全集12巻(各種茶書の翻刻)も順次出版されています。また、裏千家の全国組織である淡交会も昭和15年に発足しています。というわけで、おそらく秀吉と利休をPRする方針が千家で固まり、数寄者(大物財界人が多いですね)の支持を集めて桐蔭会を設け、研究者を集めて基本文献翻刻事業がスタートし、さらに小説家などの文化人にも働きかけ、それらの文化事業の成果を淡交会の組織を通じて全国に広めたのだと思います。この当時は多くの小説家もお茶を嗜んでいたようですし、ブームなので本が売れるという目算もあって多くの小説家がこの利休と秀吉に飛びついたように思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-02-16 21:06
> mmさん

このような昔の稿までお読みいただき恐縮です。
ブログを始めたころの稿は、文章が拙く少し恥ずかしいのですが・・・。

お茶の研究をされてたんですね。
なるほど、かなり利休のことにお詳しいようで、勉強になります。
わたしが本文で述べたことは、利休関連の読本の受け売りで、深く掘り下げたところまでは知りません。
そうですか・・・海音寺氏が発掘する以前にも、利休ブームはあったんですね。
たぶん、茶の世界では昔から利休は巨星だったのが、茶の世界を知らない、茶道に興味のない人たちにまで利休の名が知れ渡ったのが、海音寺氏の著書からだったということなんでしょうね。
たいへん興味深いコメントをありがとうございます。
Commented by mm at 2016-07-10 17:02 x
やっと自分のブログを開設し、以前こちに書き込みしたコメントを再掲しましたのでお知らせします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-07-11 19:52
> mmさん

ブログ開設おめでとうございます。
また、過分な紹介をしていただき、ありがとうございます。

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