江~姫たちの戦国~ 第26話「母になる時」

 お江の二人目の夫となった豊臣秀勝は、豊臣秀吉の甥にあたる。秀吉には姉の瑞龍院(智)、弟の豊臣秀長、妹の朝日姫(南明院)という三人の兄弟姉妹がいた。ちなみに、ドラマなどでよくある設定で、瑞龍院と秀吉は木下弥右衛門天瑞院(仲)夫妻の子で、秀長と朝日姫は天瑞院が後夫の筑阿弥とのあいだにもうけた子といわれ、日吉丸こと秀吉は継父・筑阿弥の折檻に耐え切れずに家を飛び出し、放浪の末、蜂須賀小六(正勝)と遭遇した・・・などという説がよく知られるところだが、その大部分はフィクションである。近年は、秀吉たち4人の兄弟姉妹は全員、弥右衛門・天瑞院夫妻の子とみる説が有力である。

 その4兄弟の一番上の瑞龍院は、三好吉房という人物と結婚し、秀次秀勝秀保という3人の息子に恵まれた。そのうち、秀次と秀勝は叔父・秀吉の養子となり、三男の秀保は同じく叔父・秀長の養子となっている。3人の息子に恵まれた瑞龍院とは対照的に、秀吉は最晩年まで子宝に恵まれず、秀長も、娘は2人いたものの、息子はいなかった。朝日姫にも子どもがいたという記録はなく、瑞龍院の3人の息子が秀吉や秀長の養子に迎えられたのは、豊臣家の繁栄のためにも当然のことだった。

 お江の夫となる秀勝が秀吉の養子になったのは天正14年(1586年)ごろ。病死した秀吉の養子・羽柴秀勝から諱(実名)を相続し、領地も相続して丹波国亀山城主となった。ここで、秀吉には秀勝という名の実子・養子が3人もいたので、そのことについてふれておきたい。最初の秀勝は、以前の稿でも紹介したとおり(参照:第22話「父母の肖像」)、これより20年ほど前の長浜城主時代の秀吉と側室・南殿との間に生まれたといわれる実子・石松丸。秀吉にとっては、長男になる。その石松丸秀勝は、天正4年(1576年)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わる。

 石松丸秀勝を亡くした秀吉は、その2年後の天正6年(1578年)、主君・織田信長に乞うて、信長の四男・於次丸を養子に貰い受け、早世した石松丸と同じ秀勝という諱を名乗らせた。天正10年の本能寺の変で信長が死んだのち、織田家領の再分配を決めた清洲会議の際には、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を与えられ、秀吉が主導して行った信長の葬儀では喪主を務めた。しかし、その後は臥せりがちとなり、天正13年(1585年)12月10日に病没する。年齢は18歳前後だったとみられている。

 於次丸秀勝が病没した直後の天正14年(1586年)ごろ、秀吉の養子となった甥の小吉が丹波国亀山城主を受け継ぎ、秀勝という諱も受け継いだ。歳も、死んだ於次丸秀勝とほぼ同年代だったと思われる。この三代目秀勝、豊臣小吉秀勝が、お江の二人目の夫となった人物である。2人の結婚の時期については、天正14年(1586年)説と文禄元年(1592年)説とがあり、ドラマでは文禄元年(1592年)説をとっているが、いかがなものだろう。そもそも、お江がなぜ小吉秀勝のもとに嫁がされたかという観点に立ってみると、小吉秀勝が死んだ於次丸秀勝から丹波国亀山城主を受け継いだ際に、そのまま於次丸秀勝の家臣も引き継いだであろうことが想像でき、その場合、家臣たちの反感を買わずに“秀勝”の名を継承するには、於次丸秀勝と同じく織田家の血を引くお江との結婚は効果的だったと思われ(参照:江戸東京万華鏡「江は何故秀勝に嫁すことになったのか?」)、そう考えれば、天正14年(1586年)説のほうが、信憑性があるように思える。とすれば、嫁さんの威光に頼るしかなかった小吉秀勝にとってお江は、頭の上がらない妻だったかもしれない(笑)。

 それにしても、秀吉はこの“秀勝”という諱になぜこれほどまでにこだわったのか・・・。たしかに、“秀でる”“勝る”、あるいは“勝つ”という二つの漢字が織り込まれている“秀勝”という諱は、大変良い諱ともいえなくもない。しかし、それだけの理由で秀吉がこの諱にこだわっていたとも思えない。想像するに、秀吉は最初の秀勝・・・つまり、天正4年に亡くした愛児・石松丸秀勝のことが諦めきれず、7歳で死んだ石松丸秀勝と歳が近い於次丸を養子として秀勝とし、その於次丸秀勝が18歳前後で死ぬと、同じく18歳前後だった小吉を養子として秀勝を継がせ、ずっと早世した実子・秀勝の姿をみていたのではないだろうか。だとすれば、なんとも切ない秀吉の子煩悩な姿だが、しかし、皮肉なことに、於次丸秀勝にしても小吉秀勝にしても、秀勝という諱を名乗ってから6~7年で死去することになる。それは奇しくも、石松丸秀勝の生涯とほぼ同じ長さだった。

 ドラマでは魅力的な男に描かれているお江の夫・豊臣小吉秀勝だが、実際の彼は、生母・瑞龍院に甘やかされて育ったため、わがままな性格だったともいわれる。於次丸から受け継いだ丹波国の領地は、天正15年(1587年)の「九州征伐」の際の論功行賞で知行の不満を訴えたため秀吉の怒りを買い、所領を没収された。その後、武将の座に返り咲き、やがて甲斐甲府城主となるが、瑞龍院の嘆願で岐阜城主に転封となる。少々、マザコン気味の男だったようだ。そんな小吉秀勝のもとに輿入れしたお江は、きっと秀勝に親離れをしてほしいと願っていたことだろう。

 文禄元年(1592年)3月、秀吉の号令のもと第一次朝鮮出兵(文禄の役)が開始され、秀勝も8千人の将兵を率いて出陣した。そして、同年9月9日、秀勝は出陣中の唐島(巨済島)で死去した。享年24歳。死因は戦病死とだけ伝えられている。前後して、お江は秀勝との間の子どもを生んだ。お江と秀勝がどんな夫婦関係だったかはわからないが、どうあれ、お江にとっては初めての出産で、しかもこのとき19歳。夫・秀勝の死を伝え聞いて、嘆き悲しんだことだろう。生まれた子は女児で、完子と名付けられた。お江は、19歳にして2度目の結婚に終止符を打つことになる。今風にいえば、19歳にしてバツ2となった。

 余談だが、後年、豊臣秀頼と側室の間に生まれた長男・豊臣国松は、大坂の陣関係の軍記類には“秀勝”という諱で登場する。秀吉が3人の実子、養子に名付けた“秀勝”という諱は、孫に当たる国松にも名付けられたのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-11 19:10 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

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Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-07-11 20:06
タイトル : 【江】第26回と視聴率「母になる時」
第26回の視聴率は、前回の16.3%より少し下がって、16.2%でした。なでしこジャパン、ベスト4進出、おめでとうございます♪大会2連覇中の開催国ドイツに勝って、凄かったですね♪(^^...... more
Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2011-07-11 23:10
タイトル : 2度目の夫婦 〜江・母になる時〜
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Tracked from 知っとくと便利な葬儀のこと at 2011-07-19 11:32
タイトル : 知っとくと便利な葬儀のこと
葬儀についての情報サイトです。よろしければご覧ください。... more
Commented by AKKO at 2011-07-11 20:54 x
参照&トラバありがとうございます。光栄です。
秀勝と江の夫婦ぶり、もう少し観たかったです。
息子をなくした母の悲しみとか・・・そういえば舅姑は登場しませんでしたね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-07-12 10:50
< AKKOさん
こちらこそ、ことわりなく参照させてもらって、申し訳ありません。

夫婦のドラマとしては、お江と秀忠で描きたいのでしょうね。
だから、前の二人の夫の話はちょっとしたエピソード程度という感じでしたね。
でも、一人目の佐治一成の場合はそれもわかるのですが、秀勝の場合は子供も出産しているわけですから、もうちょっとドラマを作れたんじゃないかと思いますよね。
結婚までの伏線が長かっただけに、ちょっと拍子抜けでした。

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