江~姫たちの戦国~ 第28話「秀忠に嫁げ」

 文禄2年(1593年)8月3日、豊臣秀吉と側室・淀殿の間に2人目の男児が生まれた。幼名は拾丸。のちの豊臣秀頼である。この2年前に亡くした最初の子の鶴松を、「捨て子は育つ」の格言に従って“棄(すて)”と名付けたのに対して、今度は捨て子を再度拾い上げたという縁起をかついで、“拾(ひろい)”と名付けた。さらに名前だけではなく、家臣に命じて本当に赤子を道ばたに棄てさせ、すぐさまその子を拾って帰るという念の入れようだったとか。そんなエピソードからも、53歳にして授かった鶴松を55歳で亡くした秀吉が、57歳で再び授かった拾にかける思いは並々ならぬものだったことが伺える。当然、その溺愛ぶりも異常を極めた。

 生母・淀殿の拾に対する愛情も相当なものだったようで、ドラマにもあったように、淀殿自身の母乳で育てていたらしいことが、彼女の母乳の出を心配する秀吉の手紙から伺える。当時の慣わしからして、高貴な身分の赤子は乳母の乳によって育てられるもので、拾にも当然、乳母はいたようだが、淀殿にしてみれば、鶴松を亡くした悲しみの分、拾を片時も離したくなかったのかもしれない。ドラマでは秀吉の拾に対する溺愛ぶりに不安を覚える淀殿だったが、実際には、彼女の愛情も異常だったのかもしれない。その深すぎる彼女の愛情が、のちに豊臣家を滅ぼすことになろうなどとは、このときの淀殿は知る由もなかった。

 この拾の誕生により、人生が一変してしまった人物・豊臣秀次。彼は、秀吉の実姉・瑞龍院の長男で、この十数年前に秀吉の養子となっていた。鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた秀吉は、秀次を自身の後継者に任命して、関白職も譲った。しかし、幸か不幸かほどなく淀殿が拾を出産。こうなれば、生まれた実子に地位を譲りたいと考えるのは、秀吉のみならずこの時代の武将なら当然の思いだったであろう。ただ、秀吉のその思いはあまりにも露骨すぎた。ここから、後世に悪評を残すこととなった「秀次事件」への道を辿ることとなる。

 秀吉も最初は、拾と秀次の娘を婚約させるなど、「秀次のあと、拾の成人を待って政権移譲」といった方向で進めていた。娘婿に継承というかたちなら、秀次の面目も立ち、悪いようにはしないだろうという秀吉の考えからの融和策だったのであろう。しかし、その頃にはおそらく自分はこの世にいない・・・そう考えると、秀吉はちゃんと秀次が拾を後継者とするか、心配でいたたまれなかったのかもしれない。次第に秀吉は、自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになった。それには、淀殿の希望もあったかもしれない。そしてその思いは、身内に優しかったはずの秀吉を豹変させた。

 そんな秀吉の思いは、当然、秀次も感じ取っていたであろう。次第に秀次は、「秀吉は自分を殺そうとしているのではないか。」という不安と猜疑心を抱き始める。結果を知る後世の私たちからみれば、この時点で秀次は自ら関白職を辞し、拾のために席を空けるべきだった。そうすれば、のちの悲劇は起こらなかったであろう。しかし、残念ながら秀次は、その地位に固執してしまった。そしてその不安と猜疑心は積もる一方で、しばしば奇行をとるようになったとされている。

 秀次の奇行については、夜な夜な町に出没して“千人斬り”と称した辻斬り行為を重ねていた・・・とか、洛中の美女を人妻であろうと見境なく拐わせて、自身の居所である聚楽第に連れ込んだ・・・とか、正親町天皇の諒闇中(喪中)にも関わらず狩り(殺生)をした・・・とか、さらには「人は生まれる前どうなっているのだ」といって妊婦の腹を無理矢理裂いた・・・とか。そしてついには、「殺生関白」という悪名が轟いたと伝えられる。しかし、この奇行話についてはどれも根拠に乏しく、後世の作り話か、当時に流布された秀次を陥れるためのデマと考える向きが多い。ただ、謀反の企てという点でいえば、まったく事実無根とも言い難いようで、秀次は独自に伊達政宗・最上義光・蒲生氏郷・徳川秀忠・山内一豊等と親交を持ち、朝鮮出兵で財政が火の車となった大名に金銭の貸付を行ってもいる。この金貸し行為が、結果として秀吉に対する謀反の根拠のひとつとなったのだが、はたして本当に謀反の企てのための融資だったのか・・・それともこれも、秀吉のこじつけだったのか・・・。

 文禄4年(1595年)7月8日、秀次は関白職を剥奪されて高野山に追放され、出家した。以降、出家した元の関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤(ほうぜんこう)と呼ばれた。そして1週間後の7月15日、切腹して果てる。享年28歳。

 豊臣秀次、辞世。
 磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦

 秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていった。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行処刑見物が日常茶飯事のことでありながら、この時の秀次妻子に対する処刑は見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられている。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたという。秀吉はこの塚を“畜生塚”と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたのだった。

 この秀吉の行いは、当時の日本の倫理観社会常識に照らし合わせても悪逆無道な行為で、この秀次事件が後世に残した影響は計り知れない。この事件で数少ない豊臣一族を処刑してしまったことで、豊臣政権の弱体化を招いたことは確かであり、このとき秀次の謀反の疑いに関与していたとみられた大名たちが、総じて“関ヶ原の戦い”で徳川方に属することとなったのも事実である。わが子・拾の行く末を案ずるあまり、豊臣家の行く末が見えなくなった秀吉。今風にいえば、究極のモンスターペアレントといえるだろうか。晩年の秀吉の愚行の中でも、もっとも陰惨な結末を招いた秀次事件。「年寄りの馬鹿者ほど始末の悪いものはない。」というのは西洋のことわざだったと思うが、この時期の秀吉は、まさにその言葉どおり、始末に終えない愚か者になり下がっていた。そこには、前半生の明るい秀吉の姿は、どこにも見られなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-25 03:27 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

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