江~姫たちの戦国~ 第31話「秀吉死す」

 慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は京都の醍醐寺において、盛大な花見の宴を催した。後世に名高い「醍醐の花見」である。醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹。秀吉のこのイベントにかける思いは並々ならぬものがあったようで、花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせた。そして自らも下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営庭園の改修を指揮。さらに、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。当日は嫡子の豊臣秀頼をはじめ、北政所淀殿ら近親の者、さらには配下の武将とその家族など約1300人が招かれたと伝わる。当時としては、最大規模にして最も豪華な花見で、この「醍醐の花見」が、その後の日本に花見の習慣を根付かせたともいわれる。

 参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせた。ドラマでは描かれていなかったが、この花見の際に、側室の序列をめぐって淀殿松の丸殿(京極龍子)の間で争いがあったという話は有名。記録に残された当日の輿入れの順は、1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿、4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、北政所が若い頃から親しくしていた、前田利家の正室・まつが続いた。正室である北政所が1番なのは当然として、秀吉は秀頼の生母としての淀殿の地位を重んじ、次席に据えた。ところが、この序列に面子を潰されたのが、淀殿より古くから秀吉の寵愛を受けていた松の丸殿。酒席で秀吉から杯を受ける際に、松の丸殿は序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、二人の争いになった。この「杯争い」を、間に入って取り収めたのは秀吉ではなく、客人の立場であった前田利家の正室・まつだったとか。こういった場合、当事者の男は為す術を持たないのは、今も昔も同じようである。(このドラマでの淀殿と松の丸殿は、とてもそんな争いをしそうな二人ではないが・・・。)

 この浮世離れのイベントで秀吉たちが夢見心地なひとときを過ごしていたとき、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていた。そもそも、この「醍醐の花見」が企画されたのは、朝鮮出兵で苦戦を強いられていた豊臣政権に漂う暗いムードを払拭したいという狙いがあったといわれ、また、自らの死期を感じ始めて精神的にも不安定な状態に陥っていた、秀吉自身の“気晴らし”という側面もあっただろう。会場となった醍醐寺の周辺は弓・槍・鉄砲を持った警備兵が囲み、そのものものしい警護も秀吉最後の宴に暗い影を落としていた。

 「醍醐の花見」からわずか5か月後に、秀吉は没する。秀吉はこの直後に病に倒れ、6月の終わりには赤痢のような症状に陥り、7月には、さすがに死期を悟ったのか、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行う。8月に入ると病状はますます悪化。この時点で、秀吉にとっての気がかりは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみだった。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」


 五大老に向けた秀吉の遺言状である。とにかく秀頼のことをよろしく頼むと、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている。天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容だが、幼子を残して逝く親の心中としては、少なからず共感できなくもない。むろん、戦国時代の中で戦い抜いて天下人となった秀吉は、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていただろう。わかってはいても、そうするしかなかった。そこが、秀吉の最後の悲痛さである。

 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じる。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 出来すぎといっていいほど見事な辞世だと私は思う。日本史上最大の成功者が最後に辿りついた境地が、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・。(手前勝手意訳)」であったというところに、感動させられる。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかしその前の、この世に未練いっぱいの悲痛な遺言状とは、およそ異質なもののように思えるのは、私だけではないだろう。はたして、この辞世の句と遺言状は、同時期に作られたものなのだろうか。もしそうであれば、どちらが本当の秀吉の心中だったのだろうか。この辞世は、本当に秀吉が作ったものなのだろうか。そんな疑問を抱かずにはいられないほど、あまりにも落差のある、二つの文章である。

 秀吉の最後は、豪壮華麗伏見城での臨終だった。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、誠に平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最後は狂乱状態であったともいわれる。志半ばで戦場に散った武将たちと、財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。あらためて、人生の難しさを感じずにはいられない。

 お江と秀吉の関係については、すべてドラマの創作であることはいうまでもない。実際に、秀吉にとってお江という女性が、どの程度の気に留める存在であったかは想像でしかない。しかし、少なくともお江にとって秀吉は、自身の25年間の人生から切っても切り離せない存在であったことは間違いないだろう。秀吉の死の報にふれたお江は、きっと、感慨深い思いだったに違いない。その意味では、最後のお江の涙は、決してフィクションとはいえないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-17 22:19 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

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