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江~姫たちの戦国~ 第36話「男の覚悟」

 徳川秀忠の生涯最大の大失態といえば、何と言っても慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いにおける大遅参であろう。秀忠にとってこの戦は初陣であった。このとき、父の徳川家康は3万3000の兵とともに東海道を進撃し、9月初めまでに美濃赤坂に到達。一方、約3万8000の大軍を率いた秀忠は、関東から中山道を経由して西方へ進撃する手筈であった。上野から信濃へ進軍した秀忠は、9月2日に信濃上田城主の真田昌幸に対して降伏勧告を行う。この昌幸の次男である真田信繁(幸村)の正室・竹林院は、西軍主将の石田三成の盟友である大谷吉継の娘で、信繁の兄である長男の真田信之の正室・大蓮院(小松姫)は、家康の重臣である本多忠勝の娘であった。そんな関係もあって、昌幸・信繁父子は石田方に与し、信之は徳川方に属していた。

 ところが、昌幸・信繁父子が降伏勧告に応じなかったため、憤った秀忠は、上田城や伊勢崎砦への攻撃を本格化させた。すぐさま、軍師格として従軍していた本田正信が、「上田城攻めは信濃の諸将に委ね、秀忠様は本隊との合流を急ぐべきです。」などと進言した。ところが、同じく従軍していた戸田一西牧野康成らは城攻めに固執し、軍議は紛糾してしまった。この間、籠城している真田軍は、徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍では、康成の麾下の将兵が真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けた。

 以後も、正信が康成を軍令違反などと罵ったり、城攻め続行の是非や、西方への進軍の時期をめぐって榊原康政と正信が対立したりもした。やがて、時間の無駄を痛感した秀忠は上田城を捨て置くことを決意、本隊との合流を目指し、上田を後にする。しかし、山間を縫うように走る中山道を約3万8000もの大軍が進撃するのは容易ではなく、加えて豪雨による川の氾濫などの悪条件も重なって、結局は9月15日の美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。家康はこの遅参に相当立腹したようで、ようやくたどり着いた秀忠が再三面会を懇願しても、家康はこれに応じなかったという。

 この関ヶ原大遅参という、たった一度の失態によって、徳川秀忠という人物の武将としての評価は低い。しかし、上田城の件に関していえば諸説あって、秀忠の能力とばかりは言えないようである。そもそも、家康は実際には中山道方面軍の総大将である秀忠に、的確な軍事上の指示を出していなかったようである。あるいは、中山道一帯の豊臣方を掃討した上で家康率いる本隊と美濃方面で合流するという、物理的に不可能な指令を秀忠に発していた可能性もある。一説には、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もある。その真意はわからないが、結果、秀忠が遅参したことによって、家康は後継者を失うことなく戦に勝つことができたのは事実。
 「この世で最も険しき戦とは、息子を死なせず独り立ちさせることよ。」
 ドラマ中、家康が言った台詞だが、あながち的外れではなかったのかもしれない。

 生涯、お江ひとりを愛したといわれる徳川秀忠。その理由は、お江は夫が側室を置くことを極端に嫌ったからという話も残っており、恐妻家であったともいわれる。この時代の武家では側室を置くのが当たり前であったが、自分ひとりを愛するように夫に迫った正室もいたであろう。

 しかし、秀忠にひとりも側室がいなかったというわけではなかった。実は、慶長6年(1601年)頃、秀忠の長男と思われる長丸という男児が生まれている。長丸の生年には諸説あるが、慶長6年という説にしたがえば、生母はお江でない可能性が高くなる。お江はこの同じ年、三女・勝姫(天崇院)を出産していた。この長丸は、惜しくもわずか二歳で夭折してしまうのだが、徳川将軍家の系譜集である『徳川幕府家譜』にはその生母に関して、「御母公ハ家女」という注記がある。「家女」とは側室のことで、なぜ注記であるかは不明だが、長丸の生母はお江ではなく、側室とみて間違いなさそうである。

 「竹千代という名は、そなたが産んだ子にしか与えぬ。」というお江との約束は後に果たした秀忠であったが、「私は生涯、側室は持たぬ。」という誓いは守っていない。これより10年ほどのち、将軍に就任していた秀忠は、大奥の女中であるお静の方(浄光院)を寵愛し、慶長16年(1611年)に男児・幸松丸を産ませた。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。正式な側室となっていない以上、「生涯、側室は持たぬ。」という誓いを守ったことになるのだろうか(笑)。

 実際にそのような約束を交わしていたかどうかはわからないが、お静の方と幸松丸を江戸城から追い出したかたちになったのは事実。ドラマでは、おなつという架空の女性の設定になっていたが、長丸の生母の存在も正確にはわかっておらず、どちらも正室であるお江に気を使った配慮と考えて無理はない。やはり、恐妻家であったという伝承は正しいのだろうか・・・。秀忠も、大変な女性を正室に迎えたものである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-19 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(2)  

Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-09-19 21:43
タイトル : 【江】第36回と視聴率「男の覚悟」
【第36回の視聴率は、9/20(火)追加予定】女中のなつ(朝倉あき)が秀忠の子、しかも男子を産んでしまいました。「世継ぎ誕生」と大姥局は喜びましたが、江はショックで寝込んでしま...... more
Commented by heitaroh at 2011-10-14 16:01
秀忠は保科に養子に入っていた妾腹の子と対面したのはお江の死後だったにも関わらず、その存在を家光には知らせぬまま死んでますよね。
単に、お江が怖いだけなら、死後もそこまで操を立てる必要もないわけで、やはり深い結びつきがあったように思いますがいかがでしょうか。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-10-14 19:14
< heitarohさん。
あんまり詳しくないので、掘り下げたツッコミを入れられる弱いんですが、深い結びつきというのは、具体的にどういったことでしょうか?
小説から得た知識しかないので、どうしても秀忠=恐妻家といった発想しなってしまいます(汗)。
家光は、実弟の忠長には事実上切腹にまで追いやるほどの関係となってしまいましたが、この異母弟の保科正之に対しては、絶大な信頼を置いて生涯可愛がっていますよね。
でも、生前の秀忠にしてみればそれは予想外で、正之の存在を家光に知らせないほうが、正之のためと思ったんじゃないですか?

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