江~姫たちの戦国~ 第42話「大坂冬の陣」

 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家は決裂、同じ年の11月、大坂冬の陣が勃発する。豊臣秀頼と生母・淀殿は、福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に参じる大名はほとんどなく、集まったのは真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)長宗我部盛親毛利勝永明石全登など、関ヶ原の戦いで改易された元大名や、同じく主家が西軍に与して改易されていた浪人たちばかりだった。浪人たちは士気旺盛ではあったものの、寄せ集めだったため統制が取りにくく、しかも大野治長や淀殿との対立も激しく、所詮は烏合の衆だった。

 そんな烏合の衆ではあったが、籠城戦では大坂城の防御力にもあって徳川軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退され、特に真田幸村が城の平野口に構築した出城・真田丸の戦いでは、徳川方が手酷い損害を受ける。ドラマにあったように、幸村は敵を石垣ギリギリまで引きつけておいて、頭上から一斉に銃撃を浴びせかけるという作戦で、徳川方に数千人の被害を与えたという。徳川秀忠が真田丸を攻めると言ったのも逸話にあるとおり。しかし、幸村の奮闘ぶりをみた家康は和議を考えはじめており、秀忠の進言は実行されることはなかった。やがて徳川軍は、大坂城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加え、本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議を決心したのはこのためだとの説もある。

 慶長14年(1609年)に夫・京極高次と死別したお初は、剃髪・出家して常高院と号していた。京極家は関ヶ原の戦後、8万5千石の若狭小浜城主となっていたが、高次の死後に京極家を継いだ嫡男・京極忠高は、お初の子ではなく側室の産んだ子。そんな理由もあってか、高次の死後しばらくしてお初は、実姉・淀殿の居城・大坂城に移り住んでいたようである。そして、この大阪冬の陣の前後から、お初は豊臣方の使者として和睦交渉に当たっていた。

 いうまでもなく、合戦で戦うのは武士と武士男と男だが、合戦前後の降伏勧告、和睦交渉などの際には、武士以外の僧侶商人、あるいは武将の縁者侍女といった女性が駆り出されることも珍しくはなかった。おそらく、お初を使者に指名したのは徳川家康と淀殿の双方であったものと推測できるが、お初自身も相当乗り気だったのではないかと想像する。豊臣家の当主は豊臣秀頼だが、事実上実権を掌握していたのは淀殿だったともいわれ、徳川家と豊臣家の戦いは、いいかえれば家康と淀殿の戦いだった。その淀殿の実妹であり、徳川秀忠の正室・お江実姉であるというお初の立場は、「善意の第三者」として和睦交渉に当たるのにはもってこいの存在であり、きっと、お初自身もそのことを自覚していたに違いない。

 大阪冬の陣の火蓋が切って落とされてからほぼ1ヵ月が過ぎた慶長19年(1614年)12月18日と19日の二日間、徳川方に属していた京極忠高の陣所において和睦交渉が行われた。豊臣方の使者はお初、徳川方の使者は家康の側室・阿茶局(雲光院)だった。冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったに違いない。

 もっとも、家康は本気で豊臣方と和睦する気などは、さらさらなかった。豊臣方の真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)らが予想以上に手強かったため、とりあえず和睦交渉で時間を稼ぎ、機を捉えて城の堀をすべて埋めてしまおう・・・そんなふうに考えていたのだろう。この間、家康は淀殿に江戸に来るように・・・いいかえれば、家康の側室になるように・・・と、豊臣方に求めたという話もある。むろん、家康はそんなことが実現するなどとは思っておらず、淀殿を動揺させるための揺さぶりだったのだろう。そんな心理作戦もあってか、交渉2日目で双方は和睦に達した。その講和内容は、豊臣方の条件として、
 一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。
 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、
 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。
 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立した。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法だが、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだった。しかし、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行する。和睦の条件として、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまった。このあたりの家康のやり口も、後世に“たぬき親父”の悪名を着せられる所以ともいえるだろう。方広寺鐘銘事件のときといい今回の和睦条件のことといい、まんまと家康の思惑にハマっていく豊臣秀頼と淀殿。所詮は海千山千の家康の敵ではなかった。

 「善意の第三者」として、この和睦交渉に尽力したお初は、その後のあまりの成り行きを見てきっと狼狽したことだろう。この出来事を契機として、淀殿とお初の信頼関係は一気に崩壊していったともいわれる。事実上、お江を敵にまわし、お初をも信頼できなくなった淀殿は、きっとどうしようもなく孤独だったに違いない。そして、このときから半年も経たない慶長20年(1615年)初夏、淀殿はその波乱の人生の幕を閉じることになる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-31 01:43 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(4)  

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Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-10-31 11:25
タイトル : 【江】第42回と視聴率「大阪冬の陣」
【第42回の視聴率は、10/31(月)追加予定】淀の鎧姿、凛々しかったです♪でも、大野治長は、秀頼に総大将として出陣を願い出たのですが、淀はこれを制し、自ら鎧を着て、皆の士気を...... more
Tracked from ショコラの日記帳・別館 at 2011-10-31 11:25
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【第42回の視聴率は、10/31(月)追加予定】 淀の鎧姿、凛々しかったです♪ ... more
Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2011-10-31 22:19
タイトル : 最後の戦い 〜江・大坂冬の陣〜
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Commented by SPIRIT(スピリット) at 2011-10-31 19:42 x
家康のしたたかな一面が見られる大阪城の堀の埋め立て。
それでも真田幸村は家康の本陣にまで切り込むほどだから、まさに窮鼠猫を噛むといったところでしょう。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-11-01 16:15
< SPIRIT(スピリット) さん。
真田幸村は後世に人気がありますね。
大坂の陣における家康の権謀術数が、後世にダーティーな印象を与えた最大の要因でしょうが、逆にその家康に果敢に攻め込んだ武将として、幸村は講談や小説などで英雄的扱いを受けました。
しかし、真田丸の戦いといっても所詮は局地戦のひとつに過ぎず、夏の陣の戦功も、相手が悪役の家康だったため必要以上に英雄視されたものと私は思っています。
実際には、家康にとって幸村など眼中になかったかもしれません。
Commented by やじろべえ at 2011-11-07 16:43 x
勉強になりました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-11-07 17:22
< やじろべえさん
過分なお言葉ありがとうございます。

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