江~姫たちの戦国~ 第43話「淀、散る」

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)らの健闘が目立った豊臣方だったが、老獪な徳川家康は和睦の後に大坂城の堀をすべて埋め立ててしまう。家康は何がなんでも豊臣秀頼淀殿の命を奪い、豊臣家の息の根を止める考えだった。堀を失い、裸城となった大坂城にもはや防禦力は無いに等しく、幸村、基次らは慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では城外に打って出る作戦に転じた。しかし、頼みとしていた木村重成(長門守)、基次が相次いで討死を遂げ、秀頼、淀殿が籠もる大坂城に対する徳川方の包囲も日を追って厳重になっていった。

 5月6日夜、包囲をより厳重にした徳川方は7日、大坂城に向けて総攻撃を敢行した。大坂城の北側は淀川などの諸河があるため攻撃は困難、これを踏まえ、家康、そして徳川秀忠に率いられた徳川方は城の南側に兵力を集中させた。その陣容は、伊達政宗松平忠直井伊直孝藤堂高虎前田利常らが前面に展開し、その後方に家康、さらに秀忠というものであった。

 豊臣秀頼の正室である千姫が秀忠・お江夫妻の長女であることはいうまでもないが、上述した松平忠直の正室である勝姫は秀忠・お江夫妻の三女、さらに前田利常の正室である珠姫は秀忠・お江夫妻の次女である。江戸城で留守を預っていたお江にとっては、夫の秀忠や姉の淀殿のことはもちろん、娘や甥、娘婿たちの身の上の心配もしなければならなかった。ドラマではひたすら写経をしていたお江だったが、実際のお江も、きっと祈り続けていたことだろう。しかし、お江が心配するすべての者が幸せになる道など、あろうはずはなかった。

 城の南側に攻め寄せた徳川方が総攻撃を開始したのは、7日の正午ごろだった。豊臣方では真田信繁(幸村)、毛利勝永明石全登らが打って出て、獅子奮迅の活躍をする。なかでも、全登の援護を受けた幸村は家康の本陣へ肉薄し、家康を討死寸前にまで追い込んだというが、あと少しというところで家康を討ち漏らす。不運にも、幸村は疲労困憊しているところを忠直麾下の鉄砲頭に撃たれて討死を遂げた。この頃になると徳川方の組織だった攻撃は止んでおり、気がつけば大坂城は煙に包まれていた。やむなく、淀殿・秀頼母子と千姫は、大蔵卿局大野長治真田大助といったわずかな側近、侍女たちと共に、城内の山里曲輪の隅櫓に逃れた。

 千姫を大坂城から脱出させるという計画は、千姫の側近と寄せ手の徳川方との間で早い段階で合意が成立していた。しかし、落城ギリギリまで実行されなかったのは、「千姫が城内にいる限り、徳川方は総攻撃を仕掛けてこないに違いない。」と踏んで、淀殿が千姫を放さなかったからだという説もある。また、和睦交渉に際して千姫を持ち駒切り札として使おうと考えていたとも。このため、淀殿は千姫の身体をで縛り、自ら縄を握って放さなかったという逸話もある。それでも、千姫の側近である侍女・刑部卿局はあきらめず、千姫の脱出を画策。機転を利かした彼女は、「秀頼様が負傷されました!」と叫び、これに驚いた淀殿は縄を投げ出して息子の安否確認に走ったため、その一瞬の隙を衝く格好で、侍女に守られた千姫は大坂城を脱出した・・・という説も。ドラマとはずいぶんと違うエピソードだが、いずれにせよ、千姫が城外へ脱出したことにより、徳川方にしてみれば総攻撃を躊躇する理由がなくなったことは間違いない。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが、豊臣家の息の根を止める決意をしていた家康がそれを受け入れるはずもなく、8日の正午ごろには直孝麾下の鉄砲隊による曲輪への一斉射撃が開始される。これを徳川方の返答だと知った淀殿と秀頼は、自らの命運が尽きたことを悟り、自刃して果てた。文禄2年(1593年)生まれの秀頼は享年23歳、淀殿は永禄12年(1569年)生まれという説にしたがえば、享年49歳だった。その場にいた大野治長や大蔵卿局、侍女ら二十数人も母子に追従、そのほぼ同時に、付近に置かれていた煙硝に炎が引火したため、山里曲輪は大炎上したという。

 家康がいつから豊臣家を滅ぼそうと思ったかはわからないが、慶長16年(1611年)の二条城の会見後あたりから豊臣家への挑発が露骨になり、おそらくその頃からその意思を固めていたと考えてよさそうである。家康は鎌倉時代の正史『吾妻鏡』を熟読していたといわれるが、そこに描かれる平清盛が、情に絆され肉欲に溺れ、源頼朝義経兄弟を助命したばかりに、後年になって平家はその兄弟に攻め滅ぼされたという事実を自身の立場に置き換え、徳川家の天下を永続させるためには、清盛の犯した失敗を決して繰り返してはならないと考えたのかもしれない。豊臣秀頼が若く聡明であったこと、豊臣家の一族、豊臣家恩顧の大名の中に、秀頼に忠誠を誓う者が今なお多いこと、秀頼が浪人の召抱えに躍起になっていること、豊臣の居城・大坂城が難攻不落の堅城であること、「天下は回り持ち」という風潮が巷にあること・・・などを鑑み、家康は慶長10年(1605年)に秀忠に将軍職を譲った上で、秀頼、そして生母の淀殿を攻め滅ぼすことに心血を注ぐようになった。お江が何度、淀殿・秀頼親子の助命嘆願を行ったとしても、家康はそれを受け入れることはなかっただろう。

 「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし」
 「あひおひの 松も桜も八千代へ 君がみゆきのけふをはじめに」
 「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」


 豊臣秀吉が没する半年前の慶長3年(1598年)3月に行われた「醍醐の花見」の席で、淀殿が詠んだ歌である。歌の中に出てくる「君」は秀吉のことだと考えるのが一般的だが、秀頼のことだともとれなくもない。思えば波乱に満ちた彼女の人生の中で、秀頼の生母として秀吉の側にあったこの束の間の時間が最も幸せだった時期で、これ以前もこれ以後も、一刻として心休まるときはなかった。この歌には、そんな幸せな今を噛み締めながら、これからもこの幸せが続いて欲しいと願う思いと、この先を案ずる不安な思いとが入り交じっているようである。この歌から17年後に、彼女はその波乱の人生の幕を閉じた。それは同時に、戦国時代の終焉でもあった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-07 17:00 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2011-11-17 18:27
未だにどうしてもわからないのが秀頼が最後まで陣頭に姿を現さなかったこと。
徳川方の情報操作の見事さという面は否定できないのでしょうが、それにしても・・・と。
淀殿がいかに手放さなかったとしても、事ここに至れば・・・と思いそうなもんですが。
出ように出ていけない、何か、物理的な制約があったとしか思えないのですが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-11-18 01:19
< heitarohさん
物理的な理由とは、つまりは病に伏して動けなかったとか、あるいは、既にこの世に存在しなかったとか・・・?
なるほど、考えられなくもないですね。
一説には、秀頼は驚くべき肥満体で、自由に体を動かすことも出来ないほどだったともいいますし、そんなことからも健康状態ではなかった可能性もありますね。
少なくとも、家康が二条城の会見時に見た立派な秀頼の姿はもうなく、陣頭に立てば逆に味方の士気を下げるような状態だったのかもしれません。

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