江~姫たちの戦国~ 第44話「江戸城騒乱」
といっても秀頼と千姫が形だけの夫婦だったわけでもなさそうで、子供が生まれなかっただけで、仲睦まじい夫婦だったといわれている。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削(びんそぎ)」を千姫にしている姿を侍女が目撃した、という逸話も残されている。考えてみれば、秀頼は11歳から23歳、千姫は7歳から19歳までを二人で共に過ごしたわけで、その関係は夫婦というより幼馴染か兄妹のようなもので、特に千姫にとっては徳川家で母・お江と共に過ごした日々よりはるかに長く、ほぼ人生の全てといってもいいほど。19歳の千姫にとっては、秀頼はかけがえのない存在だっただろう。
そんな秀頼が大坂夏の陣で自刃し、千姫は徳川方に救出されて生き延びることとなった。彼女自身が生きる道を望んだかどうかはわからないが、正室としてその最期を共にで出来なかったことに、きっと罪悪感を感じたことだろう。秀頼落命後、その長男・国松は徳川方に捕らえられ、市中引き回しのすえ斬首されたが(享年8歳)、長女の奈阿姫は千姫の懸命な助命嘆願が功を奏し、出家して子を残さないことを条件に生を許される。この当時、男子は父親のもの、女子は母親のものという考え方があった。父の正室のことを嫡母といい、秀頼の正室である千姫は奈阿姫の嫡母。その嫡母の千姫が母親代わりとなることを主張されれば、秀忠らも許さざるを得なかっただろうと想像する。当然、淀殿の孫で織田家と浅井家の血を引く奈阿姫の助命は、お江も切望するところだったに違いない。
その後、しばらくの間千姫と共に過ごした奈阿姫だったが、翌年に千姫が本多忠刻のもとに再び輿入れすると、彼女は相模鎌倉の東慶寺での修行生活に入り、天秀尼と名乗った。東慶寺は臨済宗の尼寺で、弘安8年(1285年)に覚山志道尼が開山した格式高い尼寺だった。そんな天秀尼と東慶寺に、その後も千姫は色々と庇護を加えたという。のちに天秀尼は第20世の住持(住職)となり、東慶寺の発展に功績を残す。東慶寺は離婚を希望する女性の駆込寺としても有名だが、千姫の庇護を受けていた天秀尼は江戸幕府と交渉しつつ、寺法の整備、不幸な女性の保護に尽力した。しかし、出家した尼であるため生涯結婚することなく、正保2年(1645年)に37歳の若さで病没する。彼女の死によって、豊臣秀吉の直系は断絶した。長く母親がわりをつとめた千姫は、天秀尼病没の報に接して、きっと嘆き悲しんだことだろう。
20歳で本多忠刻と再婚した千姫は、一男一女をもうけ束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。同じ年、実母であるお江も病没するなど不幸が続き、娘の勝姫と共に本多家を出て江戸城に入る。江戸にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送った。
織田家と徳川家の血を引き、豊臣家と契りを結んだ戦国最期の姫君・千姫。その長い人生の最期を迎えたとき、半世紀以上前の秀頼との生活を顧みて何を思っただろうか。残念ながら彼女の心を後世に伝えるものは、何も残されていない。
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by sakanoueno-kumo | 2011-11-16 11:56 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)
第44回の視聴率は、前回の16.1%より少し下がって、15.6%でした。思ったほど下がらなくて、良かったです。ちなみに、裏の「ワールドカップ女子バレー日本×ブラジル戦」は、16.3%で...... more