坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その2 ~エピローグ~

 戦後、東郷平八郎は日本海海戦の完璧な勝利によって、アドミラル・トーゴー(東郷提督)として世界中の注目を集め、日本だけではなく世界の歴史に名を刻んだ。たとえば、長年ロシアの圧力に苦しめられていたトルコなどは、自分の国の勝利のように歓喜し、東郷は国民的英雄になったそうである。その年にトルコで生まれた子供に「トーゴー」と命名する者もおり、「トーゴー通り」と名付けられた通りまであったとか。東郷平八郎は、トラファルガー海戦でフランススペイン連合艦隊を打ち破ったイギリス軍のネルソン、アメリカ独立戦争でイギリス艦隊を打ち破ったアメリカ人ジョン・ポール・ジョーンズと並んで「世界三大提督」と称された。

 日本でも東郷は当然、英雄視され、生きながらにして軍神に祭り上げられた。海軍内においては、軍令部長、軍事参議官を経て大正2年(1913年)に元帥府に列せられ、終身現役となる。大正3年(1914年)から大正10年(1921年)には、東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育にもあたった。ただ、その権威はあまりにも大きくなりすぎ、現役の海軍重役が、重要事項を決定の際に必ず東郷の意見を聞くことが習慣化した。その結果、日本は主力が航空機に移り変わる時勢に乗り遅れ、昭和に入った後も大艦巨砲主義の呪縛にとらわれ続けることとなった、という意見もある。人間が神様になって良い結果をもたらしたことはない。東郷の場合も例外ではなかったようである。

 昭和9年(1934年)、満86歳で逝去。侯爵に昇叙され国葬が行われた。その葬儀の日には、世界各国の海軍関係者が彼の死を惜しんだという。その後、東京都渋谷区、福岡県宗像郡津屋崎町に「東郷神社」が建立され、“神”として祭られた。

 “神”といえばもう一人、乃木希典陸軍大将も軍神となった。戦後「陸の乃木、海の東郷」と英雄視された乃木だったが、彼の場合、日露戦争の武功というよりも、多分に人格的、精神的要素が理由だった。たとえば、降伏したロシア兵に対する寛大な処置や、旅順攻囲戦後の水師営の会見における、敵将ステッセルに対する紳士的な態度などが、世界中から賞賛された。乃木にはどこか神秘的で人を魅了するところがあったのは確かなようで、敵兵のみならず、従軍していた外国人記者からも尊敬された。こちらも東郷の場合と同じく、子供の名前に乃木の名をもらうという例が、世界的に頻発したという。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。

 日露戦争の結果報告のため明治天皇に拝謁した乃木は、自らの不覚を天皇に詫び、涙声になりながら、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが、「今は死ぬべきときではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去ったのちにせよ」という趣旨のことを述べたとされる。その後、明治天皇のはからいで学習院院長を勤め、皇族の教育を尽力する。

 明治45年(1912年)、明治天皇が崩御すると、それを待っていたかのように、乃木はその大喪の当日に妻と二人で自刃して果てる。その報道に日本国民は悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。その殉死は一部で批判的な声もあったものの、多くの庶民に賞賛され、日本各地で乃木を祀った乃木神社が創建されることになった。だが、その明治天皇への忠誠心と敬愛による乃木の殉死は、やがて政治的・軍事的に徹底利用されることとなる。

 乃木の相棒、児玉源太郎は日露戦争終結8ヶ月後、参謀総長在任のまま 、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55歳。日露戦争後の児玉は急速に覇気が衰えた観があり、ボーッと遠くを眺めているようなことがしばしばあったと言われる。作戦家として、軍事行政家として、日露戦争勝利のために日夜心血を注ぎ込んできた彼は、戦後はもはやすべてをやり尽くした感があり、生ける屍となっていたのかもしれない。小説「坂の上の雲」では、人事を尽くした児玉の最後の行動として「祈りに託す」という場面が幾度となく描かれているが、天性の機敏と胆力、的確ですばやい判断力と指導力を持った知将として名高い児玉でも、全身全霊を傾けて思考の限りを尽くし、最後の最後に行き着く先は「神頼み」なのかと、深く考えさせられたシーンである。その意味では、同じく「天才」と称された秋山真之もまた同じであった。

 「作戦上の心労のあまり寿命をちぢめてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂わせてしまったのが海戦の秋山真之である」
 と戦後いわれたそうだが、真之は発狂したわけではなかった。しかし脳漿をしぼりきったあと、戦後の真之はそれ以前の真之とは別人の観があったことだけはたしかである。戦後、真之の言うことにはしばしば飛躍があり、日常的に神霊を信ずる人になった。真之はロシア人があの海戦であまりにも多く死んだことについて生涯の心の負担になっていたが、それにひきかえ日本側の死者が予想外に少なかったことを僅かに慰めとしていた。あの海戦は天佑に恵まれすぎた。真之の精神は海戦の幕が閉じてから少しずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考えられなくなっていた。というよりも一種の畏怖が勝利のあとの彼の精神に尋常でない緊張を与えていたのかもしれなかった。

 日露戦争時に中佐だった真之は、のちに日本海海戦の功により若くして海軍中将まで昇進するが、日露戦争後は僧侶になって戦争の呪縛から逃れたいと思う日々を送った。結局それは叶わなかったが、真之は自分の長男の大(ひろし)に僧になることを頼み、その長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えたという。真之の生涯は長くなく、大正7年(1918年)、49歳の若さで没した。晩年の真之は、宗教研究など精神世界に深くのめり込んでいき、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった。

 その兄・秋山好古は、陸軍大将で退役したのち爵位をもらわず、故郷の松山に戻って私立の北予中学という無名の中学の校長を6年間務めた。従二位勲一等功二級陸軍大将という人間が田舎の私立中学の校長を務めるというのは、当時としては考えられないことであった。彼はその生涯において、
「男子は生涯一事をなせば足る。そのためには身辺は単純明快にしておく。」
 というのが信条で、常に無駄を省き、贅沢を嫌い、己の鍛錬に身をささげた。おそらく、爵位などには興味がなかったのだろう。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし、松山の家は彼の生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想を愛した。退役後は自らの功績を努めて隠し、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の話を聞かせてほしい」「陸軍大将の軍服を見せてほしい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することはなかった。好古は死ぬその年まで校長を務め、その年の4月、老後を養うため東京の借家に帰ってきたが、ほどなく発病した。見舞いに来た友人に、「もうあしはすることはした。逝ってもええのじゃ」と言ったりした。やがて、陸軍軍医学校に入院し、初めて酒のない生活をした。糖尿病と脱疽のため、左足を切断した。しかし、術後の経過は芳しくなく、昭和5年(1930年)11月4日、満71歳で病没した。好古が死んだとき、その知己たちは、こういったそうである。
「最後の武士が死んだ」と。

  司馬遼太郎氏は、原作第一巻のあとがきで、「坂の上の雲」という長い作品を書くあたり、
「たえずあたまにおいているばく然とした主題は日本人とはなにかということであり、それも、この作品の登場人物たちがおかれている条件下で考えてみたかったのである。」
と述べている。明治維新によって初めて近代的な「国家」というものを持った日本人が、「まことに小さな国」の国民としてどのように物事を考え、どのように生きたか。
司馬氏はいう。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。



近日中に、「まとめ」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-28 17:27 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

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