平清盛 第2話「無頼の高平太」

 現代の日本に生きる私たちは、生まれたときに命名された名前を原則として一生使い続けるが、明治維新以前の武家社会ではそうではなかった。武家の男子の場合は生まれるとすぐに幼名が付けられ、成人(元服)すると諱(いみな)と呼ばれる実名を名乗るようになる。また、幼名や諱の他に通称も用いたが、上級の武士の場合は朝廷から官職受領と呼ばれる公式な職、職名を拝領し、それを名乗った。さらに、雅号などを名乗る場合もあり、また出家して法名を称する場合などもあり、ひとりの人物でも生涯で複数の呼び名があって実にややこしい。ゆえに、小説やドラマなどでは、せいぜい幼名と諱の2種類くらいで通してしまう場合が多い。

 平清盛の場合、“清盛”というのはいうまでもなく諱で、祖父は正盛、父は忠盛、弟は家盛、経盛、教盛、頼盛と、“盛”という字を使った諱を名乗っていた。武士の家では特定の一字を諱に使用する風習があり、これを“通字”といった。清盛ら伊勢平氏が“盛”の一字を通字として織り込んでいたのは、きっと家運の隆盛を祈ってのことだったのだろう。他に、忠盛・清盛父子は腹心の家臣に“盛”の一字を与え、平盛国平盛俊などと名乗らせている。こういった風習を「偏諱(へんき)を賜う」、もしくは「一字拝領」といった。

 “清盛”という名の由来について、『平家物語』の中に次のような逸話がある。前話の稿でも述べたが、『平家物語』では清盛は白河法皇(第72代天皇)のご落胤説となっている。忠盛のもとで平家の子として育てられることになった皇子だったが、白河院はそれとはなく皇子のことを気にかけていた。あるとき、皇子の夜泣きがあまりに激しいと聞いた白河院は、次の歌を忠盛に贈った。
 「夜なきすとたゞもりたてよ末の世にきよくさかふることもこそあれ」
 (その子が夜泣きをしても大切に育ててくれ、忠盛よ。将来、平家を繁栄させてくれることもあるかもしれないのだから)

 そして、この歌の下の句にある「きよくさかふる(清く盛ふる)」から、清盛と名付けられたという。おそらくは物語の創作だろうが、よくできた話ではある。ドラマの白河院とは、随分とイメージが違うようだが・・・。

 清盛の幼名については、正確にわかっていない。“平太”というドラマでの幼名は、おそらく『平家物語』に出てくる「六波羅のふかすみの高平太」というあだ名からきたものだろう。「ふかすみ」は墨黒の馬という意味で、「高平太」は高足駄を履いた平氏の太郎(長男)という意味。これは、清盛の姿を侮辱したあだ名だという。また、『源平盛衰記』では、京童に「高平太」といって笑われた清盛は、恥ずかしく思ったのか、扇で顔を隠したが扇の骨の間から鼻が見えていたので、京童は「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」といって、その後は「鼻平太」と呼んで罵ったという。この逸話も、物語の中の創作かもしれないが、当時の京都や貴族社会には、そうした平家を侮るような雰囲気があったのは事実だろう。このよな屈辱を受けるたびに清盛は、いつか貴族たちを見返してやりたいという思いを抱いたかもしれない。

 大治4年(1129年)1月に元服した清盛は、従五位下・左兵衛佐に任じられ貴族の仲間入りを果たした。父・忠盛は白河院からあつい信頼を寄せられていたものの、その頃は内裏への昇殿すら許されていない一介の地方官に過ぎなかったが、清盛の任官は一般の武士に比べて格段に優遇されていた。武士の子どもが朝廷の武官に任じられる場合、三等官である「尉(じょう)」から始まるのが通例であったが、清盛は二等官である「佐」からのスタートだった。しかも、兵衛佐という官職は上流貴族が任じられるものであり、内裏清涼殿への昇殿が許される殿上人への最短コースだった。事実、この人事は貴族たちを大いに驚かせ、「人耳目を驚かす」と日記に記した貴族もいたほどだった。同年3月、12歳の清盛は岩清水臨時祭で舞を奉納した。舞人に選ばれた貴族の少年たちの中で、清盛の雄姿はひときわ注目を浴びたという。ここから、清盛の出世街道が始まる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-16 02:14 | 平清盛 | Comments(2)  

Commented by SPIRIT(スピリット) at 2012-01-17 22:42 x
『高平太』と渾名をつけたのは、当時の今日の無頼の若者だったそうですが、後に源義朝の子義平が、
『悪源太』
の異名を取ったのとはえらい違いですね。
どちらかというと当時の朝廷では平氏の方が評価が高かったみたいですが、清盛が出世したのはそれもあったんでしょうね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-01-17 23:24
< SPIRIT(スピリット)さん
朝廷での平氏の評価が高くなったのは、清盛の祖父・正盛からで、それまでは源氏の後塵を拝していたようです。
さらに、清盛の父・忠盛はかなりの人物だったようで、源氏との差を一気に広げました。
この時代、功績をあげた者に代わって、その弟や息子が官位、官職を得る“譲り”という制度があり、清盛の出世は父からの“譲り”のおかげだったと考えるのが妥当かと思います。
義朝とはスタートラインが違ったんですね。
ただ、保元の乱以後の清盛の出世は、間違いなく彼自身の力でしょう。

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