平清盛 第3話「源平の御曹司」
清盛の家系、義朝の家系は本拠をおいた国にちなみ、それぞれ伊勢平氏、河内源氏と呼ばれてきた。清盛が生まれた当時の伊勢平氏は、祖父・平正盛、父・平忠盛の不断の努力が実を結び、隆盛の一途を辿っていた。清盛は比較的恵まれた環境で、まさしく御曹司として育ったといっていいだろう。一方で、義朝が生まれた当時の河内源氏は、様々な理由から衰退気味だった。そもそも清和源氏の中でも河内源氏は、源頼信、源頼義、源義家の三代の活躍により、中央政界でも確固たる地位を築いていた。しかし、天任元年(1108年)に義家の嫡子だった源義親(義朝の祖父)が出雲で叛乱を起こした。その義親の追討を朝廷が命じたのが、清盛の祖父・正盛だった。正盛は見事に義親を討ち取り京に凱旋、朝廷より恩賞が授けられ、義親は梟首とされた。これをきっかけに河内源氏では内紛が起こり凋落、代わって中央政界では伊勢平氏が台頭する。清盛と義朝の因縁は、お互いの祖父である正盛と義親の時代に始まったといっていい。
ちなみに、義親討伐については諸説あって、剛勇で知られた義親が、それまでさしたる武功のなかった正盛に簡単に討たれたことを疑問視する声が当時からあったようで、一説には、正盛が別人を討ち取り、その首を義親のものとして披露したという説もある。おそらく邪説だろうとは思うが、もし事実ならば、正盛も義親以上に悪人である。ただ、無名の人物ならともかく、義親の顔は中央政界にも知れ渡っていたはずで、偽首を押し通すのは無理がある話ではあるが・・・。いずれにせよ、これを境に平氏と源氏の立場は逆転し、その息子、忠盛と為義の代になるとその差はいっそう開いた。その息子である清盛と義朝では、スタートラインから大きく違っていたのである。義朝は清盛に対してライバル心を抱いていたかもしれないが、清盛にとっては5歳下で官位もずっと下の義朝は、たいして眼中になかったかもしれない。ましてや、遠い将来、その義朝の子である源頼朝の手で伊勢平氏が滅ぼされることになろうとは、夢にも思わなかったことだろう。
「3代目にして家は潰れる」なんて言葉をよく耳にするが、伊勢平氏にしても河内源氏にしても、3代4代と繁栄し続けることがいかに難しいことであるかは歴史の知るところである。まさしく、「おごる平家は久しからず」ですよね?・・・大王製紙さん。
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by sakanoueno-kumo | 2012-01-23 23:44 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)
第3回視聴率は、前回の17.8%より下がって、17.2%(関東地区)でした。平清盛(松山ケンイチ)が舞いを舞った時から3年が経ち、1132年になりました。平清盛は、1118年生まれなので...... more
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徳川幕府のように15代300年(直系は7代)続いたのもあれば、フッガー銀行のように4世紀の歴史もある企業もあるし。
ただ、トップがよほど有能でなきゃねえ。
もちろんそうです。
三井、住友などは十数代続いていますし、天皇家にいたっては125代、2000年近くも続いてますからね(笑)。
「3代目にして家は潰れる」というのは、とくに3代に限定したわけではなく、4代目か5代目か10代目かはわからないけど、今の隆盛が未来永劫衰えることなく続くなんてことはあり得ないことで、だから、決して上手くいっているからといって驕ってはならない、といった戒めの意味での言葉だと思います。
3代目とよく言われるのは、創業者の意志がなんとか2代目までは継承されても、3代目ともなると創業時の苦労など知るよしもなく、驕りがちになるからでしょうね。
徳川家光が「生まれながらの将軍」だったように・・・。