平清盛 第4話「殿上の闇討ち」

 平清盛の祖父・平正盛の代に白河法皇(第72代天皇)の引き立てによって中央政界へ進出した伊勢平氏は、清盛の父・平忠盛の代には鳥羽法皇(第74代天皇)の側近として脇を固め、さらに、得長寿院をはじめとする寺院を寄進するなどして忠勤にはげみ、清盛がが15歳となった長承元年(1132年)、忠盛は初めて武士として内昇殿を許された。内昇殿とは、天皇の居所である清涼殿の殿上の間に上ることを許されることで、貴族にとって非常に名誉なことであった。ましてや、武士である忠盛がこれを許されるのは破格の待遇であり、当時の貴族の日記のなかには「未曽有の事なり」と記した者もいたほどであった。

 殿上人となった忠盛に貴族たちが向ける視線は当然厳しかった。「出る杭は打たれる」のはいつの世も同じで、新参者の出世を快く思わない風潮はどんな社会にもあるものだが、平安時代末期のこの頃は、古参の公家たちが、新たに内昇殿を許された者に恥辱を加えるという、悪しき風習が蔓延っていたという。とくに、毎年11月に朝廷で行われる豊明節会の夜に、古参の公家が新たに内昇殿を許された者を罵倒嘲笑したり、暗闇に乗じてリンチするといった行為が頻発していたと伝えられる。当然、武家出身者としてはじめて内昇殿を許された忠盛に対してはいつも以上に情け容赦のない行為が計画されたはずで、そのことについてよく示しているのが、『平家物語』巻一の「殿上闇討」である。

 長承元年(1132年)11月の豊明節会の夜、陰湿かつ苛烈な「闇討ち」行為を予想した忠盛は、木刀を腰に差して節会へ参加すると共に、秘かに側近・平家貞を御所の小庭に待機させた。「闇討ち」などというと暗殺を想像してしまうが、この場合せいぜい乱暴狼藉をはたらく程度のことで、いってみれば集団リンチのようなもの。もっとも、殺人を生業とする武士の、しかもその棟梁である忠盛を集団リンチしようというのだから見上げたものだが、その程度の嫌がらせしかできないところに、斜陽の貴族階級と新興勢力である武士の違いを見ることができる。

 「闇討ち」を企てた古参の公家たちだったが、忠盛が懐に忍ばせた刀を抜き放ったため度肝を抜かれ、さらに家臣の家貞が小庭に潜んでいたことも知れたため、公家たちは「闇討ち」を断念せざるを得なかった。結果として忠盛の作戦勝ちといったところだが、気が治まらない公家たちは、直後の宴席でさらに卑劣な嫌がらせ行為を実行する。天皇の命により忠盛が得意のを披露していたところ、伴奏していた公家たちが急に拍子を変えたかと思うと、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやし立てたのである。「すがめ」とは、斜視のことで、忠盛は生まれつき斜視だったという。伊勢平氏の忠盛が斜視(すがめ)であったことと、伊勢国産の瓶子(へいし)が粗悪で酢瓶(すがめ)にしか使えないことをかけて、このように嘲笑したのである。人の肉体的欠陥をついて誂うという小学生レベルの行為から見ても、当時の貴族階級がいかに末期症状であったかがわかるというものである。

 公衆の面前で恥をかかされ怒りに震える忠盛であったが、宮中の酒席ではいかんともしがたく、悔しさを押し殺しながら早々に退出するしかなかった。その際、差していた刀を女官に預けて帰った。これが、後に思わぬかたちで忠盛の役に立つ。

 後日、公家たちは忠盛にしてやられた腹いせに、帯刀して節会へ参加した点と、無断で家臣を小庭に潜ませた点を捉え、忠盛に厳重な処分を下すよう鳥羽院に訴えた。これに対して忠盛は、預けていた刀を取り寄せてその場で抜いて見せた。その刀は先に述べたとおり木刀で、しかも本物に見せかけるように銀箔を貼ったものだった。これを知った鳥羽院は忠盛の機転に大いに感心し、家臣が小庭に潜んでいた件も、家貞が機転をきかせて独断で行ったものであることが判明し、結局はまったく罪に問われなかった。そればかりか、忠盛といい家貞といい、武士の機転と用意周到さに感心した鳥羽院は、これまで以上に忠盛を信頼するようになったという。

 というのが『平家物語』にある「殿上闇討」のくだりで、今話のストーリーはこの逸話を下敷きにしたドラマのオリジナルストーリーだと思われる。ドラマでは、忠盛を「闇討ち」しようとしたのは源為義となっていた。まあ、出典元の『平家物語』も読み物として書かれた物語である以上、そこに記された逸話も作り話である可能性も高く、ドラマでオリジナルの設定に作り変えるのは一向にかまわないと思うのだが、ただ少々、為義に気の毒な気がしないでもなかった。ドラマでは、あくまで平氏VS源氏という構図で展開されていくようである。

 「為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏どちらが強いか、それはまた先にとっておくことはできぬか。その勝負、武士が朝廷に対し、十分な力を得てからでもよいのではないか。」

 その勝負は、二人の息子、平清盛源義朝の代まで待たねばならない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-30 01:56 | 平清盛 | Trackback(5) | Comments(4)  

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Commented by heitaroh at 2012-01-31 15:59
今年から大河ドラマについて書くのはやめられたんじゃなかったんですか?(笑)。
やはり、哀しい佐賀・・・じゃなかった、性には勝てませんでしたかw
今年も勉強させていただきます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-02-03 00:17
< heitarohさん

ゆっくりPCに向かう時間がなく、レス遅くなってスミマセン。
こんな常態ですので、そのうち力尽きると思います(笑)。
私はこの時代にあまり詳しくありませんので、間違ったことを言ってたらご指摘くださいね。
Commented by 藤原知行 at 2012-02-05 13:38 x
「殿上の闇討ち」について重要情報
-------------------------1.「殿上の闇討ち」事件の主会場(殿上)に、19歳の藤原俊成が居合わしていた。
2.闇討ち事件の40年前、平清盛の祖父の平正盛が、加賀国国府に検非違使として在庁していた。永長2年(1097年)に平家が日本史の表舞台に突如として登場するわずか5年前。
-------------------------
 1月29日放送の大河ドラマ「平清盛」の第4回「殿上の闇討ち」で描かれていましたが、その闇討ち事件(長承元年1132年11月23日)が起こった表舞台の宮中で「豊明節会(とよあかりのせちえ 新嘗祭)」と4人の舞姫による「五節の舞」が行われていました。
 今まで、『平家物語』でも、その解説でもまったく語られたことがないのですが(もちろん歴史学者や歴史小説家も知りません)、その宮中行事の中心に、平安末期から鎌倉時代初頭にかけて、和歌の第一人者となる藤原俊成(藤原定家の父、当時19歳で藤原顕広という氏名だったのでほとんど気づかない)がいました。これは某(それがし)の日本史上での大きな発見だと自負しております。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-02-06 00:50
< 藤原知行さん

コメントありがとうございます。
そのあたり、詳しくないのでよくわかりませんが、また時間のあるときに、そのちらHPをゆっくり読ませて頂きます。

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