平清盛 第9話「ふたりのはみだし者」

 このドラマの中で頻繁に登場する双六遊びのシーン。現代の私たちは双六というと、家族ぐるみで楽しむ和やかな盤上遊戯というイメージだが、平安時代における双六は、を用いる博打で、射幸心を著しくくすぐる危険な遊戯だった。このため、ときの為政者は再三再四、双六禁止令を出したようだが、なかなか徹底されることはなかったという。今の世の中でも、どれだけ不況の中でもパチンコ屋の売上は落ちることはないと聞くが、博打の麻薬性というのは、いつの時代も変わらないらしい。『平家物語』によると、白河法皇(第72代天皇)は、自分の思いどおりにならないものとして「鴨川の水、双六の賽、山法師」の3つをあげて嘆いており(天下三不如意)、どうやら白河院も双六に熱中していたようである。そしてドラマ中、双六に負けて身ぐるみを剥がれていたのが、その白河院の曾孫であり、平清盛の後半生に深く関わってくることになる、雅仁親王ことのちの後白河法皇(第77代天皇)である。

 後白河法皇は鳥羽法皇(第74代天皇)の第四皇子として大治2年(1127年)にこの世に生を受けた。元永元年(1118年)生まれの清盛よりも9歳年下ということになる。生母はあの天然悪女系キャラの中宮・璋子(待賢門院)。鳥羽院の第一皇子である顕仁親王は言うまでもなくのちの崇徳上皇(第75代天皇)だが、崇徳院は鳥羽院の祖父である白河院が璋子と密通して生まれた子だといわれ、その醜聞を信じて疑わなかった鳥羽院は崇徳院を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたと伝えられる(参照:第5話)。その後、鳥羽院と璋子の間には、次々に皇子が生まれるが、第二皇子通仁親王は生後まもなく失明したそうで、しかも病弱だったらしく6歳で夭折したという。また、第三皇子君仁親王は足が不自由な身体障害児として生まれ、耳も聞こえなかったらしい。さらに、崇徳院になかなか子供が出来なかったため、この時点では顕仁親王にも帝位に就く可能性は少なからずあった。しかし、保延5年(1139年)、鳥羽院と皇后の得子(美福門院)との間に体仁親王(のちの第76代・近衛天皇)が生まれたことにより、その可能性はほぼなくなったと誰もが思った。そのことは、当時12歳だった顕仁親王こと後白河院自身が一番そう思っていたことだろう。

 事実、親王時代の後白河院は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。今でいえば、名家の御曹司に生まれながらロックミュージシャンを目指して音楽にうつつをぬかすドラ息子、といったところだろうか。後白河院の今様好きは度を越していたようで、後年、今様などの当時の歌謡を集めた全二十巻の『梁塵秘抄』という歌謡集を編纂した。このドラマのテーマ曲ともなっている「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん」という歌も、『梁塵秘抄』に収録された歌のひとつである。仮に顕仁親王が後白河天皇に即位していなければ、この『梁塵秘抄』を編纂した皇子として、芸能国文学の分野のみに名を残していたに違いない。

 しかし、誰もが天皇に即位することはないと思っていた顕仁親王は、様々な政治的思惑によって再び表舞台へ浮上することとなり、なるはずのなかった天皇の座に就くこととなる。兄である崇徳院は後白河院のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、後白河院の天皇即位を後押しした乳父の信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。たしかに、遊び人だったといわれる一面においてはそうだったかもしれないが、こののち天皇、上皇、法皇として三十数年もの長きに渡って君臨し続けたのも事実で、後世にその評価は分かれるところである。本ドラマでの後白河院はどう描かれるか・・・。今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-05 17:04 | 平清盛 | Comments(0)  

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