平清盛 第12話「宿命の再会」

 保延5年(1139年)以降に最初の妻と死別した平清盛は、久安元年(1145年)頃に後妻を迎えた。名は時子。後年、壇の浦の戦いで平家一門が源氏軍に敗北を喫したとき、自らの孫である幼帝・安徳天皇(第81代天皇)を抱いて海中に身を投じたことで有名な、あの女性である。このとき、清盛は27~28歳ごろ。時子の生年は諸説あるので正確なことはわからないが、大治元年(1126年)という説にしたがえば、19~20歳頃のことだった。

 時子の父は平時信という名の中級官僚で、清盛らと同じく桓武平氏である。ただ、清盛と時子を血縁関係とするにはかなり遠い。そもそも、桓武平氏には様々な系統があり、なかでも有力だったのは高棟王(第50代・桓武天皇の孫)の子孫である高棟流の平氏と、高望王(桓武天皇の曾孫)の子孫である伊勢平氏の2系統である。このうち、伊勢平氏は伊勢を本拠として武士の道を歩み、清盛の祖父・平正盛の時代に中央に進出、息子の平忠盛、そしてその息子の清盛の三代の時代に全盛期を迎える。一方、高棟流の平氏は京に留まり、公家の道を歩む。その高棟流の平氏の末裔が時子の実家である。清盛と時子は共に桓武平氏の一族ではあったが、系譜の面ではかなり異なり、遠戚ともいえない間柄だった。

 清盛ら伊勢平氏を武家平氏、時子の実家の高棟流平氏を公家平氏と呼んだりもする。公家平氏は武家平氏よりも家格でいえば上。若き日の最初の妻のときとは違って、野心を持った清盛にとって多分に政略的な意図の縁談だったに違いない。少なくとも、「もうそなたで良い!」なんて無礼極まりない求婚ではなかったはずだと思われる(笑)。

 清盛の前半生のライバルとなる源義朝は、父・源為義のもとを少年期に離れ、相模鎌倉を拠点として東国での勢力伸長を目指していた。一時は勢力伸長を急ぐあまりに、坂東南部の大庭御厨などを侵略して訴えられたりもしたが、徐々に東国の有力な在地豪族を傘下に収め、相模国一帯に強い基盤を作りつつあった。父と違ってかなりのヤリ手だったようだ。

 義朝のヤリ手ぶりは武勇のみならず、艶福家としても名高い。義朝の子女は少なくとも息子が9人、娘が2人いたといわれているが、それらの生母は、長男の源義平(悪源太)が橋本の遊女、次男の源朝長修理大夫範兼の娘(一説には大膳大夫則兼の娘)、三男の源頼朝、五男の源希義(土佐冠者)、長女が藤原季範の娘で正室となる由良御前、六男の源範頼(蒲冠者)が遠江池田宿の遊女、そして七男の阿野全成(醍醐悪禅師)、八男の義円(円成)、九男の源義経が有名な常盤御前である。この他にも、宇都宮朝綱の娘・八田局との間に、八田知家という男子をもうけたという伝承もあり、38歳没という義朝の短い生涯から思えば、大変な絶倫ぶりだ。ドラマでのワイルドなプレイボーイキャラも、結構、的を射ているかもしれない。
 「どうだ? そなたも俺の子を産んでみるか?」
 こんなとんでもない口説き文句で女を落としていたかどうかはわからないが(笑)。

 この時代、ひとかどの武将であれば一夫多妻は当然で、清盛の場合も例外ではなかった。しかし、良質の史料として確認できるのは、既述した正室と継室以外には厳島神社の巫女だったという妾が一人だけ。義朝の側室だった常盤御前を手篭めにしたという逸話は有名だが、それを裏付ける史料は存在せず、近年では懐疑的な意見が主流のようだ。また、『平家物語』に出てくる白拍子の祇王仏御前についても、同物語自体が事実を曲げてまでも清盛を悪人に仕立てようとする性質の物語であるため、どこまで信用できるかあやしいものである。

 ドラマでは宿命のライバルとして描かれている平清盛と源義朝。女にモテたのは、どうやら義朝の方だったようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-27 22:07 | 平清盛 | Comments(0)  

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