平清盛 第14話「家盛決起」

 祇園闘乱事件が発端となった比叡山延暦寺の強訴に一応の決着をみたものの、これまで順風満帆な人生を送ってきた平清盛にとっては初めての挫折となったようで、その後も一時不遇を強いられることとなった。そのことと関係していたかどうかはわからないが、にわかに異母弟の平家盛が朝廷における活動を活発化しはじめ、清盛の地位を脅かす存在となりつつあった。

 ここで清盛の兄弟について触れておこう。清盛の生母については第1話でも触れたとおり(参照:第1話)、正確なことはほとんど何もわかっていない。わかっているのは、清盛が2、3歳の頃に亡くなっているということだけである。この女性が清盛以外の子を産んだという記録はなく、清盛には父母を同じくする兄弟姉妹は一人もいなかったようである(ドラマでは、清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇(第72代天皇)の御落胤という設定になっているが、この説については賛否両論があって事実とは言い難く、ここでは清盛の実父は忠盛という仮定で進めることにする)。清盛の生母の死後、忠盛は藤原宗子(のちの池禅尼)を継室に迎え、平家盛平頼盛といった男子をもうけ、他にも三人の側室や妾との間にそれぞれ、平経盛平教盛平忠度という男子をもうけた。次弟の家盛の生年は正確には不明なのだが、これらの異母弟の長幼の順は、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度というものであったと考えられている。さらに、生母も長幼の順も不明だが、清盛には少なくとも3人の異母妹がいた。

 この中で、家盛と頼盛の二人は継室(正室?)の子であったため、比較的順調に出世した。この時代、長男が家督を継ぐとは限らず、正室の子か側室の子かという生母の立場も重要であり、その意味では、家盛は清盛の強力なライバルだった。

 祇園闘乱事件から5ヵ月が過ぎた久安3年(1147年)11月、家盛は常陸介に任官し、その直後には賀茂臨時祭舞人を務め、さらに翌年正月には従四位下右馬頭に任じられた。右馬頭は御所の馬や馬具を管理する右馬寮の長官であり、軍事的にも重要な部署で、武士にとっては名誉な役職だった。清盛の起こした事件から間もないこのタイミングでの家盛の出世を、事件とは無関係と考えるほうが無理があるように思える。この時期の清盛はドラマのように、朝廷からも平氏内部でも、信頼を失っていたのかもしれない。急激な弟の台頭に、清盛はきっと心穏やかならぬ日々を送っていたことだろう。

 こうして弟の猛追によって平氏の後継者という地位を脅かされていた清盛だったが、幸か不幸か、久安5年(1149年)2月の鳥羽法皇(第74代天皇)の熊野詣に供奉した家盛は、その帰路にに倒れ、3月15日、京に近い宇治川の辺りで帰らぬ人となる。訃報を聞いて駆けつけた乳父の平維綱は、悲しみのあまりその場で出家したという。父の忠盛もその翌月、自ら費用を負担して造営した延勝寺の供養を、家盛の死を理由に欠席し、一周忌には家盛愛用の剣を奈良の正倉院に寄進している。家盛の死による平氏一門の悲しみの深さが伺えるが、この死によって、結果として清盛の後継者としての地位が盤石となったことは間違いない。このとき、清盛はどんな心境だったのだろうか・・・。

 ちなみに、家盛の出世を内大臣・藤原頼長が導いたという話は他の物語などには見られず、ドラマのオリジナルだと思われる。したがって、家盛が頼長の男色相手だったという話ももちろん存在しない。しかし、頼長が男色家だったという話は有名な事実で、自らが記した『台記』という日記には、赤裸々な男色行為が綴られている。この時代の公家社会では男色は珍しいことではなく、政治や人事にも大きく影響していたとか。頼長が記した『台記』は男色日記ではなく、政治活動を後世に残すための記録だったようである。ただ、そう説明されたところで現代の私たちに共感できるものではなく、むしろおぞましい感覚さえ覚えてしまうのだが、驚いたのは、これを天下のNHKが大胆に描いたこと。おそらく賛否両論はあろうかと思うが、このドラマにかける制作サイドの意気込みは評価したい。ただ、今のところその意気込みが視聴率に繋がらず、空回りし始めているような気がしないでもないのだが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2012-04-09 17:30 | 平清盛 | Comments(0)  

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