平清盛 第19話「鳥羽院の遺言」

 久寿2年(1155年)の近衛天皇(第76代天皇)の崩御後、誰も予想していなかった後白河天皇(第77代天皇)が誕生すると、藤原忠通が関白に任ぜられ、後白河帝の乳父である信西が重用され、事実上この二人が国政を掌握する。一方で、崇徳上皇(第75代天皇)の皇子・重仁親王の即位を望んでいた藤原頼長は、後白河帝の即位によって内覧を解任され、朝廷内での存在感を失いつつあった。当然のごとく、頼長は後白河帝や信西に対して強い不満を抱くようになる。

 もともと摂関家の藤原氏では、官位官職などの就任をめぐり、深刻で拭いがたい対立があった。兄・忠通と弟・頼長との主導権争いである。「日本第一の大学生」といわれた頼長は、摂関となって自ら政治を執り行うことを願っていた。そんな頼長を父である藤原忠実も偏愛し、摂関の地位を弟に譲るよう忠通にたびたび圧力をかけたが、実子の藤原基実に継がせたいと考えていた忠通はこれを拒み続けた。怒った忠実は、忠通の東三条殿の邸に家人の源為義を派遣し、摂関家累代の宝物を接収して忠通を義絶、頼長を氏長者にしてしまう。そして翌年、鳥羽法皇(第74代天皇)に懇請して頼長を「内覧」に就かせた。内覧とは天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。関白の忠通と内覧の頼長という二人の執政が並び立つ異常事態が生まれたのだった。

 しかし、そんな頼長の権力の時代は長くは続かなかった。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は多くの貴族の反感を買い、鳥羽院の寵臣・藤原家成邸の襲撃したことで鳥羽院の信任まで失うこととなる。さらには、近衛帝が眼病で早世したのは、「何者かが愛宕山の天公像(天狗像)の目に釘を打ち込み呪詛したせいだ」という風聞が飛び交い、その呪詛を行ったのが頼長だという噂を立てられる。おそらくは兄・忠通による策謀だと思われるが、この噂によってさらに頼長は鳥羽院の恨みを買い、そして後白河帝の即位に伴い、兄の忠通は関白に任じられ、頼長は内覧を解任させられた。

 「お前は、やりすぎたのだ!」
 ドラマ中、父・忠実が頼長に言った台詞だが、まさしく頼長はやりすぎた。やりすぎたことにより多くの敵を作り、そして遂には完全に失脚したのである。この失脚を操っていたのが、後白河帝の乳父・信西だった。

 信西入道こと藤原通憲は、頼長に勝るとも劣らないほど学才豊かな人物だったが、家柄が低かったため官職は少納言止まりだった。朝廷での官位官職の出世をあきらめた通憲は、出家して信西と名を改め、その学才を生かして鳥羽法皇の政治顧問となり徐々に頭角をあらわす。さらに信西は、妻が後白河帝の乳母を勤めていたことから、後白河帝を即位させ、天皇の乳父としての立場で政治の実権を握ろうと目論んだ。そしてその計画を実現した信西は、政敵となった頼長を徹底的に排除しようと画策するのである。

 同じ頃、清和源氏では源義朝の弟・源為朝(鎮西八郎)が鎮西(九州)で乱暴狼藉を繰り返し、そのせいで父の源為義は官位を剥奪されてしまう。また同じ頃、義朝の長男でわずか15歳の源義平が、同じく義朝の弟で義平からみれば叔父にあたる源義賢を攻め滅ぼし、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平は「悪源太」と呼ばれるようになる。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて逃げ延び、信濃の豪族に養育された。この駒王丸がのちに木曽義仲と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がることになるのだが、それはずっと後年の話。この頃、これまた義朝の弟で源氏の総領を継ぐ存在となっていた源頼賢が、義賢討死の報復のため東国に下る途中、鳥羽院の荘園といざこざを起こしてしまい、この報を受けた鳥羽院は頼賢追討を兄の義朝に命じた。義朝がこれを受けなかったため、兄弟での争いはとりあえずは回避できたものの、もともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた義朝とは、一線を画す関係にあった。一族の分裂は時間の問題だったのである。

 そんな中、保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽院が崩御した。これを機に、天皇家では兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇、藤原摂関家では兄・忠通と弟・頼長、そして源氏では父・為義と嫡男・義朝と、まさに「骨肉相食む」戦いが始まろうとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-15 22:43 | 平清盛 | Comments(2)  

Commented by SPIRIT(スピリット) at 2012-05-16 20:48 x
源氏と比べて、平家の方は目立った対立はなかったですよね。
もちろん後に保元の乱で対立する忠正と清盛という構図もありましたけど。

忠正がなぜ崇徳上皇に接近したのか、これからのドラマで明らかになるんでしょうかね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-05-17 17:14
< SPIRIT(スピリット) さん。

そうですね。
のちの保元の乱でも、分裂を最小限に抑えられたのが、乱後も平家が勢力を維持できた大きな理由のひとつですね。
忠正は古くから忠実・頼長父子に、子の長盛は崇徳に仕えていましたから、選択の余地はなかったんじゃないでしょうか。

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