平清盛 第20話「前夜の決断」

 保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽法皇(第74代天皇)が崩御すると、中央政界の状況は混沌としていく。鳥羽院の崩御直前、危篤の報に接した崇徳上皇(第75代天皇)は御所に見舞いへ赴いたが、鳥羽院側近の者に面会を阻まれた上、何者かによって根も葉もない謀反の噂を吹聴されていた。やがて鳥羽院崩御の報に接し、身の危険を感じた崇徳院は、同じく中央政界から失脚していた藤原頼長と密談し、清和源氏の源為義源為朝(鎮西八郎)父子や大和源氏らの武士、興福寺の衆徒(僧兵)などを、7月11日までに御所・白河殿へ招いて防御態勢を整える。

 対する後白河天皇(第77代天皇)の御所・高松殿には、側近の信西、清和源氏の源義朝らの武士がいち早く馳せ参じていた。前話の稿(参照:第19話)でも述べたとおり、清和源氏ではもともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた息子・義朝とは一線を画す関係にあり、父子で敵味方に分かれる状況に至ったのもやむを得ないことだった。そんな中、伊勢平氏の棟梁・平清盛は、様々な理由で去就に悩んでいた。後白河帝の側に馳せ参じた者の名を記した名簿には、当初、清盛の名がなかったといわれている。

 伊勢平氏のなかでいち早く行動したのは、清盛の叔父の平忠正だった。忠正は、若い頃は兄の平忠盛と共に鳥羽院に仕えていたが、何らかの理由で鳥羽院より勘当となり、以後は藤原忠実藤原頼長父子に仕えて立身した。ドラマでは、清盛のことは快く思っていないものの忠盛には従順な弟として描かれていたが、実際には鳥羽院の信任が厚い忠盛や清盛とは、早い段階から対立関係にあったようだ。また忠正の子・平長盛(ドラマには出てきていない)は崇徳院に仕えおり、選択の余地はなかったと考えられる。

 しかし、清盛にとっては簡単に答えを出せる問題ではなかった。清盛を棟梁とする伊勢平氏が鳥羽院の庇護のもとで大きく力を伸ばしたことは、忠盛の内昇殿(参照:第4話)や祇園闘乱事件(参照:第13話)を見てもわかる。特に祇園社の一件では、清盛の配流を主張する延暦寺の要求を鳥羽院が断固として拒んだことで、清盛の人生最大の政治的危機を乗り越えることができた。清盛にとっては、感謝してもしつくせないほどのが鳥羽院に対してあり、その鳥羽院が即位を認めた後白河帝に味方することに対して、清盛が躊躇する理由はないように思える。

 しかし、実は伊勢平氏は崇徳院とも深い関係があった。崇徳院の皇子で後白河院と帝位を争った重仁親王が11歳で元服したとき、父・忠盛と正妻の宗子(池禅尼)が重仁の乳父・乳母になっていたのである。つまり、形式的なものにせよ清盛は重仁と乳母子の関係にあったのだ。もし崇徳方が勝利し、重仁が天皇の座に即位して崇徳院政が始まることになれば、伊勢平氏のいっそうの躍進が期待できるわけで、崇徳方への参陣を望む声が一族の内部であったとしても何らおかしくはない。また、摂関家とも無関係ではなく、清盛の妻・時子の父・平時信、叔父の平信範がともに関白・藤原忠通に仕えていた。そんな様々なしがらみが清盛の周囲を覆っていたのである。

 清盛が後白河帝に味方することを決めたのは、鳥羽院の崩御から3日後の7月5日だった。検非違使である清盛の次男・平基盛が、崇徳院方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治(宇野親治)を逮捕したのである。崇徳院方の武士を逮捕したということは、後白河帝に味方する意志を明確にしたことにほかならない。鳥羽院の恩顧に報いるか、崇徳院との縁故を優先するのか、迷いに迷った清盛の決断は、後白河帝方への参陣だった。もともと後白河帝は皇子の守仁親王(のちの第78代・二条天皇)が即位するまでの「中継ぎ」として擁立された天皇だった。ただし、ワンポイントリリーフとはいえ天皇である以上、朝廷の頂点に君臨する絶対的な権威であることにかわりはない。後白河帝の兄である崇徳院に院政を行う資格はなく、崇徳院につくことは「賊軍」となることを意味するのだ。ひょっとしたら、清盛は最初から後白河帝方につくことを決めていたのかもしれない。しかし、様々なしがらみから一族内部の意見が分かれ、しかし源氏のような一族の分裂を出来るだけ避けるため、調整をはかっていたための遅参だったのかもしれない。

 軍記物語の『保元物語』によると、当初、崇徳院との関係が警戒されて後白河帝方は清盛を呼ばなかったが、伊勢平氏の兵力を味方に付けたいと考えた鳥羽院の皇后・美福門院得子が、法皇の遺言であると称して清盛を招いたという。また、歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』には、重仁親王の乳母である池禅尼が、情勢を的確に分析して崇徳院方の劣勢を見ぬいた上で、後白河帝方に味方するよう清盛に勧めたといい、また池禅尼は我が子の平頼盛(清盛の異母弟)に対して、兄の清盛と同一行動をとるように命じたと記されている。正妻の子である頼盛は、一門のなかで清盛の次に大きな勢力を持っていた人物でもあり、これが本当なら、こののち平家が一枚岩の結束を保つことが出来たのも、この聡明な継母のおかげといっても過言ではないだろう。

 京で随一の兵力を誇る平家一門が味方についたことで、後白河帝方の武力は盤石となり、崇徳院方を完全に圧倒することとなった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-23 15:42 | 平清盛 | Comments(2)  

Commented by SPIRIT(スピリット) at 2012-05-23 21:05 x
加えて後白河天皇側は崇徳方に夜襲を仕掛けますからね。
あるいみでは、信西が一枚上手だったのかもしれません。
ドラマでは頼長も信西も切れ者として描かれていますが、信西がよい意味で狡猾だったのかも。
老獪な政治的駆け引きがまだまだものを言わす社会ですが、武士の武力が大事でもあったんでしょうが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-05-24 16:04
< SPIRIT(スピリット) さん

おっしゃるとおりで、頼長は切れ者ではあったけど狡猾さに欠けたところがあり、所詮は政治家ではなく官僚だったのでしょう。
一方の信西はまさしく政治家。
保元の乱の敵味方の構図を明確に描き出したのは信西でした。
彼は、後白河帝の権威を保つために邪魔になる勢力を一掃しようと画策したんですね。
頼長と崇徳院は政治的には失脚していたものの、武力で劣勢なのは明らかで、事を構えようとまでは考えていなかったと思います。
それを、挙兵せざるを得ない状況に追い込んだのは信西でした。
保元の乱は信西が起こした信西のための戦だったといっても過言ではないでしょう。

って、次週書こうと思ったことを書いちゃったじゃないですか!(汗)
コメントいただけるのは嬉しいですが、フライングしないでくださいね(笑)。

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