平清盛 第21話「保元の乱」

 鳥羽法皇(第74代天皇)の崩御から1週間が過ぎた保元元年(1156年)7月10日深夜、ついに戦いの火蓋が切られようとしていた。平安京の南の鳥羽殿から賀茂川の東にある白河北殿へ移った崇徳上皇(第75代天皇)と藤原頼長のもとに集まったのは、清和源氏の源為義をはじめ、源頼賢源為朝(鎮西八郎)など為義の息子たちや、伊勢平氏では平清盛の叔父・平忠正の一族などであったが、武士としては二流どころで兵力も少なかった。対する後白河天皇(第77代天皇)方は、京で随一の兵力を誇る清盛をはじめ、清和源氏の嫡流で為義の息子である源義朝、足利氏の祖・源義康、摂津源氏の源頼政などそうそうたるメンバーで、数の上でも崇徳院方を大きく上回っていた。

 決戦を前に、それぞれの陣営で軍議が行われた。歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、崇徳院方では為義が夜討ちを献策したにも関わらず、頼長は大和の軍兵を待つとしてその案を一蹴したという。ドラマでは為朝が夜討ちを主張した設定になっていたが、これは軍記物語の『保元物語』にならったものだろう。なんとも厳つい顔をしたドラマの為朝だが、実はこのとき若干18歳。そんな若僧の為朝の献策だったとすれば、頼長が軽く見たのも無理からぬことだったかもしれない。また頼長は、天皇と上皇の戦いに夜討ちなど相応しくないといった考えもあったようだ。正論を好む観念主義の頼長らしい考えといえる。

 一方の後白河帝方の軍議では、合戦の計画を奏上せよとして、清盛と義朝の二人が朝餉(あさがれい)の間に召集され、ここで義朝は、敵方の父(もしくは弟)と同じく夜討ちを進言する。このとき、清盛がどのような奏上を行ったのかは不明である。後白河帝方に参陣したとはいえ崇徳院とも関わりが深かった清盛は、できれば崇徳院に対して手荒な真似はしたくないという思いもあったかもしれない。しかし義朝は違った。彼はこの戦いの戦功に自らの出世を賭けていた。義朝の進言を聞いた関白・藤原忠通は逡巡したが、実質的な参謀である信西はこの案を即座に採用。頼長と信西というそれぞれの司令官の見識の差が、勝敗を分ける決め手とる。

 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』我らは今、兵の数で劣っておる。それで攻めるは理に合わぬ。大和の軍勢が着くのを待つのじゃ。」と頼長。
 「また孫子曰く、『夜呼ぶものは恐るるなり。』夜に兵が呼び合うは臆病の証。されど、孫子に習うまでもなく、夜討ちは卑怯なり!」
 いかにも厳格で偏狭な頼長らしい解釈だ。
 一方の信西は同じ言葉を、「夜通しこうしてピイピイと論じ続けるのは臆病者のすること」と解釈。さらに信西はこう続ける。
 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』例え夜明けを待つにせよ、ぼんやりと待つことを、孫子は良しとはせなんだのじゃ。ならば動くがよし !今すぐ!」

 この頼長と信西の孫子の解釈の違いが明暗を分けたという脚本は、実に秀逸で面白かった。あくまで観念的な頼長に対して現実的な信西。孫子の解釈としてはおそらく頼長の方が正しいのだろうが、戦の司令官の見識としては必ずしも正しくなかった。一方で信西の解釈は、夜討ちありきで無理やり結びつけたこじつけ解釈。しかし、戦に勝つためには必要な屁理屈だった。もちろん、このエピソードはドラマのオリジナルだが、二人の人物像が上手く描かれたシーンだった。実際の頼長も、切れ者ではあったが狡猾さに欠けたところがあり、所詮は政治家ではなく官僚だったのだろう。一方の信西はまさしく政治家。彼はこの戦で、後白河帝の権威を保つため、そして自身の政治権力を強固にするため、邪魔になる勢力を一掃しようと画策していた。その信西の描いたシナリオにまんまと乗っかってきたのが、崇徳院と頼長だったのである。「保元の乱」は、信西が起こした信西のための戦だったといっても過言ではないだろう。

 7月11日未明、平清盛、源義朝、源義康率いる後白河帝方の兵600騎は内裏高松殿を出陣し、崇徳院方が篭る白河北殿へ押し寄せた。兵の数で劣る崇徳院方だったが、強弓を誇る源為朝の奮戦によって戦況は一進一退。一時は清盛たち後白河帝方が後退する場面もあった。しかし、義朝が内裏に使者を派遣して許可を得た上で白河殿に火を放つと、崇徳院方は浮き足立ち、合戦開始からわずか4時間、戦いは後白河方の圧倒的勝利で幕を閉じた。

 ドラマでは義朝に対抗心を抱いて奮戦していた清盛だったが、実際には清盛はこの戦いでは目立った活躍の記録がない。前話の稿(参照:第20話)でも述べたとおり、崇徳院と乳母子だった清盛は、この戦いには終始消極的な姿勢だったのかもしれない。にも関わらず、平家は戦後、手厚い恩賞を手にすることとなる。そしてそのことが、次の争いを生むことになっていくわけだが、このときの清盛はまだ知る由もなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-28 22:39 | 平清盛 | Comments(2)  

Commented by アマガミ at 2012-05-29 19:33 x
頼長の判断は必ずしも間違ってなかったと思いますよ。

なんか随分兵力数に差があったようで、相手が防御を固めているところへ寡兵で奇襲をかけたところでどれだけやれたことか・・・

一方、後白河側が攻略を急いだのは、翌日には奈良の僧兵が崇徳側の援軍として上洛してくるという情報を掴んでいたのかもしれません。

頼長が間違っていたのは、火攻めを予想すべきなのに『火消し部隊』を編成してなかったところでしょうか。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-05-30 11:18
< アマガミさん

コメントありがとうございます。
おっしゃるように、夜襲をかけたところで上皇方に勝ち目はなかったかもしれませんが、兵力少数であることの劣勢を挽回するには奇襲による先制攻撃というのは戦の常套手段ではないでしょうか?
それに兵法では、夜襲は少数部隊のほうが適している・・・あるいは少数部隊でしか成功しない戦法だとも言われていますしね(その概念を打ち破ったのは、日露戦争における日本陸軍だったと「坂の上の雲」で描かれていますが)。

『愚管抄』では、夜襲のことだけではなく、態勢立て直しのために東下するといった提案が出されたものの、悉く頼長によって却下されたと言われています。
今話の為義のセリフで、「戦を知らぬ者は黙ってろ」といったものがありましたが、まさしく現場監督への指揮権の移譲を行わなかったことが、頼長の最大の失態ではないでしょうか。
自分以外の人間がみんな馬鹿に思えて下の意見を吸い上げようとしない、IQが高い高学歴なエリートにありがちな偏狭な人物像がそこに見えます。
現代でも結構たくさんいるんじゃないでしょうかね・・・そんなタイプのやつ。
そういう人間の下で働く者は不幸と言わざるを得ません。

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