平清盛 第23話「叔父を斬る」

 後白河天皇(第77代天皇)方の勝利で幕を閉じた「保元の乱」。その戦後処理を一手に引き受けた信西は、敗者への苛烈極まりない処分を断行していった。まず、仁和寺において拘束された崇徳上皇(第75代天皇)を讃岐国に配流。天皇もしくは上皇の配流は、奈良時代に起きた「藤原仲麻呂の乱」における淳仁天皇(第47代天皇)の淡路配流以来、およそ400年ぶりのことだった。敗軍の将とはいえ、既に出家を果たしており、また上皇という高貴な身分を考慮するなら、京のしかるべき場所に幽閉される程度の刑に留めおかれると思われたが、処分は遠国に流罪という予想外に厳しいものだった。後白河帝を頂きに権勢を振るいたい信西としては、力を失ったとはいえ上皇という立場にある崇徳院の息の根を完全に止めておきたかったのだろう。

 また信西は、これを機に藤原摂関家の弱体化をはかった。崇徳院方の参謀だった藤原頼長は、奈良の興福寺にいた父・藤原忠実に助けを求めるも拒否されて自害(参照:第22話)。忠実にしてみれば、頼長に連座して罪人になることを避けるための苦渋の選択だった。しかし、信西は忠実を罪人として扱い、洛北にある知足院に幽閉。崇徳院のように流罪とならなかったのは、79歳という高齢が主な理由だったようである。そして信西は忠実、頼長が持っていた摂関家領を没収。後白河方についていた関白・藤原忠通が残っているとはいえ、摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕する。『保元物語』によれば、忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

 その他、頼長の息子たちを始め、崇徳院方についた公家の多くが流罪に処せられたが、その武力となって前線で戦った武士たちへの処分はより苛烈なもので、源氏では源為義とその4人の息子たち、平氏では平忠正とその4人の息子たちに対して信西は、大同5年(810年)の「薬子の変」を最後に、およそ350年行われていなかった死罪を言い渡した。しかもその刑の執行を、源氏、平氏のそれぞれの棟梁である源義朝平清盛に命じたのである。ドラマでは、義朝、清盛ともに刑に不服を申し立てていたが、実際に助命を嘆願していたと伝えられるのは義朝だけである。清盛と忠正は、もともと平氏内でも対立関係にあった。義朝と為義も対立していたという点では同じだが、叔父と甥、父と息子では関係の深さが違いすぎる。さして仲の良くない叔父一族を斬った清盛に比べて、実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は並々ならぬ大きさだったといえよう。

 断腸の思いで父と弟たちを処刑した義朝だったが、歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、
「為義は義朝がり逃げて来りけるを、かうかうと申ければ、はやく首を切るべきよし勅定さだまりにければ、義朝やがて腰車に乗せてよつつかへ遣りてやがて首切りてければ、『義朝は親の首切りつ』と世には又ののじりけり。」
(意訳:為義は義朝のもとへ逃げてきたのを、義朝が朝廷に報告すると、速やかに斬首にするよう帝から命令が下されたので、義朝は為義を輿に乗せて、よつつか(地名?)へ連れて行って間もなく首を刎ねたので、『義朝は親の首を斬った』と世の人々は騒ぎ立てた。)

とある。実の親を斬った義朝への世間の風当たりは強かったようだ。

 一方で『保元物語』では、義朝は自分で斬ることができず、側近の鎌田次郎正清に命じたと書かれている。ドラマは、この説をベースにアレンジしたのだろう。念仏を唱えながら斬首を待つ描写も、同物語からの引用のようだ。さらに同物語では、清盛は自分が忠正を斬れば、義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、すすんで叔父の処刑に踏み切ったと記されている。ドラマでは同時進行となっていたが、実際には為義たちの処刑は忠正たちの処刑の2日後のことで、たしかに、それが義朝に刑の執行を決断させることになったのかもしれない。平氏にとってはこの刑はさほど痛手ではなく、むしろ清盛にとっては、かねてから意見が合わなかった傍流を始末するいい機会だったと言えなくもない。一方の源氏は、義朝自身は昇進したものの多くの兄弟を失うこととなり、勢力の弱体化は避けられなかった。それこそが、信西のねらいだった。摂関家を武力で支えた源氏の勢力を削ぐことは、とりもなおざず摂関家の弱体化につながる。忠正は、いわばそのダシとして処刑されたといっても過言ではないかもしれない。その策謀に清盛が一役買っていたかどうかは定かではないが・・・。

 いずれにせよ、貴族は流罪、武士は死罪という処分に、清盛は何を感じただろうか。保元の乱によって武士の力をまざまざと見せつけたとはいえ、世の慣らいは依然として武士を見下したものだった。しかし、武士の世はもうすぐそこまで来ていた。そのことを、清盛はこの頃から少しずつ感じ始めていたかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-11 16:03 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(2)  

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Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2012-06-11 21:34
タイトル : 涙の運命 ~平清盛・叔父を斬る感想~
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Tracked from 英の放電日記 at 2012-06-12 21:02
タイトル : 『平清盛』 第23話「叔父を斬る」
今回の見所は、身内(叔父や父)を斬首する清盛と義朝  ですが、真のテーマがあります。 信西の真意と保元の乱の意義  黒くなった信西(安部サダヲ)が保元の乱を誘導したと考えてよいと思うが、保元の乱の意義は?  一言で言えば、藤原頼長(山本耕史)、崇徳院(井...... more
Commented by SPIRIT(スピリット) at 2012-06-12 08:29 x
容赦ない処刑でしたね。
それにしても薬子の変以来、流罪や死罪が行われていないというのが驚きでした。
完全に信西の感情に任せた処刑だった反面、律令体制の緩みも感じましたね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-06-12 17:03
< SPIRIT(スピリット)さん

おそらく厳密に言えば、「薬子の変」を最後に死罪が行われた記録が残っていない・・・というのが正解だと思います。
朝廷や貴族社会の記録はたくさん残っていますが、中世以前の武家社会の史料はあまり残っていませんからね。
貴族の死罪がなかっただけで、武士の死罪は他にも例があったのかもしれません。

信西が武士たちを死罪に処した理由は、本文中で述べたように摂関家の弱体化をはかるためというのが一般的な見方ですが、単に故実に詳しい学者として律令を厳格に適用しただけという見方や、上述したように武士の死罪はすでに珍しいことではなかったという説もあるようです。

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