平清盛 第25話「見果てぬ夢」

 平清盛太宰大弐に任命された保元3年(1158年)8月、後白河天皇(第77代天皇)は即位3年という短さで長子の守仁親王に譲位。二条天皇(第78代天皇)が誕生した。もともと後白河帝の即位は、崇徳上皇(第75代天皇)に院政を敷かせないためにとられた鳥羽法皇(第75代天皇)と美福門院得子の策謀によるもので(参照:第18話)、守仁親王が天皇の座に就くまでの中継ぎとしての即位だった。つまり、二条帝の即位は予定どおりだったのである。

 ドラマでは、後白河帝の気まぐれで譲位したかのように描かれていたが、『兵範記』平信範の日記)によれば、「仏と仏との評定」によって決したと記されており、「仏と仏」=「出家した者と出家した者」、すなわち美福門院得子信西の協議によるものだったと考えられている。天皇の側近として権勢をふるいたい信西にしてみれば、政治向きに疎い後白河帝をそのまま天皇の座に据えていた方が何かと都合がよかったかもしれないが、そもそもの後白河帝誕生の出発点に立てば(あるいはそのことを美福門院から指摘されたら)、やむを得ない譲位だったのかもしれない。ただし、このとき二条帝は若干16歳。上皇となった後白河院が院政をしくことになる。鳥羽院の死によって美福門院の発言力も衰えており、その実権は相変わらず信西の手にあった。

 しかし、信西の権力が強大なるとともに、これに恨みを抱く勢力が現れ始めたのも当然のことだった。その一人が、鳥羽院の近臣だった藤原忠隆の子で、後白河院の近臣として異例の昇進を遂げていた藤原信頼だった。信頼はこの2年弱の短期間で従四位下から正三位へ五段階上昇、官職も武蔵守から検非違使別当まで駆け上がるという飛ぶ鳥を落とす勢いの出世を遂げていた。ただし、この急速な昇進は、『愚管抄』の言葉をかりれば「アサマシキ程」の寵愛を後白河院より受けて実現したものであり、純粋に実力でのし上がったわけではなさそうである。一説には、後白河院の男色相手だったとも伝えられているが、いかがなものだろう(それが本当なら、塚地武雅さんのキャスティングはいかがなものだろう・・・笑)。その真偽はともかく、彼の異例の出世に不信感を抱く空気は実際ににあったようで、『平治物語』では彼のことを「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と散々な評価を与えている。

 寵におごった信頼は、後白河院の後ろ盾を受けてさらに上位の大臣近衛大将の官職を希望したが、信西がこれを阻止。ドラマにもあったように、信西は信頼の危険性を後白河院に伝えるべく、唐の玄宗皇帝安禄山を重用して国を滅ぼした故事を『長恨歌絵巻』に描いて、暗に後白河に諌言したほどだった(しかし、後白河院がこれにまったく気付かなかったというのも、ドラマのとおりである)。大臣・近衛大将への昇進を阻止された信頼は、信西を激しく恨むようになったと伝えられる。

 もう一人、信西に恨みを抱いていた男がいた。源義朝である。義朝は「保元の乱」における後白河方の勝利の一番の立役者であり、さらにはその戦後処理に際して信西の命令で実の父や年若い弟たちを自らの手で処刑したにもかかわらず、信西が主導した戦後の恩賞は、さして戦功があったわけでもない平家に厚く源氏に薄いものだった。この恩賞の格差を平清盛と信西の同盟関係にあると考えた義朝は、自らもこの実力者に取り入ろうと、信西の息子の一人を娘婿にもらいたいと申し入れた。しかし、信西は「わが子は学者にて武門の家の婿には相応しくない」といってこれを拒否。しかしその一方で、同じ武門の家柄である清盛の娘との縁談を進めて、義朝の面目をつぶしたと、『愚管抄』には記されている。信西にしてみれば、清盛と義朝のどちらが役に立つかを比べた当然の判断だったのだろうが、面目をつぶされた義朝が、信西に恨みを抱いたのもまた当然のことだった。

 さらに反信西勢力として、院政を否定して天皇が政治を主導する「親政」の実現を目指す一派も台頭してきた。二条帝の伯父である藤原経宗と、帝の乳母子の藤原経宗である。「信西排除」という目的で一致した源義朝、藤原信頼、藤原経宗、藤原経宗が結びつくまでに、さして時間はかからなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-25 16:44 | 平清盛 | Comments(0)  

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