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平清盛 第26話「平治の乱」

 平治元年(1159年)12月4日、平清盛は次男の平基盛、三男の平宗盛ら一門を引き連れて熊野詣に赴いた(ドラマでは長男の平重盛も同行していたが、重盛の名が見られるのは軍記物語の『平治物語』のみで、史料として比較的信憑性が高いとされる『愚管抄』の中には重盛の名は見られない)。『愚管抄』によると、このとき同行していた侍・郎等はわずか15名ほどだったという。一行が紀州路を田辺あたりまで進んだとき、六波羅からの早馬が京の危急を知らせてきた。その内容は、藤原信頼源義朝とが結託して兵を起こし、後白河上皇(第77代天皇)の御所・三条殿を襲ったという驚くべきものだった。信頼と義朝は前話の稿で述べたとおり(参照:第25話)、「打倒信西」という点で結びついていた。おそらく彼らは、信西を軍事面で支えていた清盛が京にいないタイミングを千載一遇のチャンスと捉え、この時期にことを起こしたのだろう。

 九日の夜半、義朝率いる源氏軍は院御所・三条殿と姉小路西洞院にある信西邸を焼き討ちし、後白河上皇とその姉の上西門院を内裏の一本御書所(書写した書物を保管して置く所)に、二条天皇(第78代天皇)を内裏にある黒戸の御所(清涼殿と後宮との間にある部屋)に幽閉するという暴挙に出た。軍勢は御所に火を放ったうえ、外からさんざんに矢を射かけたため、多くの女官が御所内の井戸に身を投げて命を落としたといわれる。

 からくも京を脱出した信西は、自身の荘園のある山城国の田原に逃れた。しかし、三条殿襲撃の知らせを聞くと、助かる見込みはないと観念し、郎等に命じて自らを地中に埋めさせて自害した。ドラマで描かれていたとおり、このとき信西に従っていた郎等の藤原師光西光という法名を与えたという逸話は、『平治物語』に描かれているエピソードである。信西の遺体は行方を捜索していた源光保によって掘り起こされ、首をはねられた。また『平治物語』によれば、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、追手に発見された郎等のひとりが隠れ場所を教えてしまい、掘り返された際に自ら首を突いて自害したという。あるいは別の説では、掘り起こした際にまだ息のあった信西の首をはねたとも。京に持ち帰られた信西の首は、西の獄門の棟木にさらされた。実権を握ってわずか3年という短い天下であった。

 熊野で変事を知った清盛は、この危急にいかに対応すべきか悩んだことだろう。熊野参詣の虚をつかれたことから考えれば、クーデターが用意周到なものであることは間違いなく、そのような軍勢に対して、清盛一行はあまりに少人数だった。『愚管抄』によると、この時清盛はいったん鎮西(九州)に落ちて兵を集めるという弱気な考えも見せたという。清盛にとって人生最大のピンチといえたこの危急を救ったのは、紀伊の在地武士たちだった。まず、湯浅宗重が三十七騎の手勢を提供し、続いて熊野別当湛快が鎧七領を提供。これに力を得た清盛は帰京を決意し、一門・郎等を引き連れて京への道を急いだ。

 以上は史料として比較的信憑性が高いとされる『愚管抄』の記述だが、軍記物語の『平治物語』のみに記述されているエピソードでは、京の危急を知った清盛は「下するよりほかは他事なし」と決意するも、いかんせん武具がない。そこへ「平家第一の郎等」といわれた筑後守・平家貞が進み出て「少々は用意つかまつりて候」と、長櫃の中に隠してあった50人分の甲冑や弓矢を取り出した。この家貞の機転に一同は「あはれ高名かな」と感心したという。ドラマで描かれていたエピソードは、この逸話を採用したものである。さらに『平治物語』では、清盛一行は義朝の長男・源義平(悪源太)が天王寺、阿倍野で待ち伏せしているという情報をつかみ、戦々恐々としながら京への道を急いだが、それは義平ではなく、決戦に備えて集まっていた平家の軍勢であったという。ドラマで、阿倍野での待ち伏せを献策した義平を義朝が制止していたのは、この物語の逸話をベースに描かれた設定だろう。しかし、家貞の逸話も義平の逸話も『愚管抄』にはなく、おそらくは、スリリングな物語展開を指向する『平治物語』の作者の虚構と見たほうがよさそうだ。

 信西を排除して内裏でのイニシアティブをとった信頼は、天皇の名のもとに論功行賞を行い、自身は念願の大臣・大将に就任、義朝は清盛が保元の乱で任じられた播磨守に、そして義朝の三男・源頼朝右兵衛佐に任じられた。ここに信頼・義朝連合によるクーデターはひとまず成功をみた。ひとまず・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-03 15:39 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

Tracked from ショコラの日記帳・別館 at 2012-07-03 22:39
タイトル : 【平清盛】第26回感想と視聴率「平治の乱」
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Tracked from ショコラの日記帳 at 2012-07-03 22:39
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Tracked from 英の放電日記 at 2012-07-03 23:17
タイトル : 『平清盛』 第26話「平治の乱」
今回は平治の乱の前半部分だが、私が日本史に疎いせいかその背景がわかりにくかったが、それはさておき、今回の主題は信西の最期。 1信西と清盛の友情……「おれは誰なんだ?」「誰でもよ〜い」  信西(阿部サダヲ)の窮地に、「平清盛は断じて友を見捨てぬ!」と駆けつ...... more
Commented by heitaroh at 2012-07-04 17:56
平家物語・・・じゃなかった、平清盛もようやく少し面白くなって来ましたね。

ところで、十年くらいまえでしょうか、車のラジオのニュースか何かで聞いたのですが、このとき平家が熊野の途中に設置していた施設の遺跡が発見され、中には武器武具が相当に収納されていたことが明らかとなった・・・と。
つまり、平家はしっかり準備していたんだ・・・というようなことを言っていたのですが、これって、聞き違いではないと思うのですが、何せよく聞き取れない部分もあり・・・。
平家側にルーズベルト並の謀略があったかどうかはわかりませんが、少なくともある程度の用心だけはしていたのではないかと思うのですが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-07-05 10:36
< heitarohさん

へぇ~、そーなんですか!
それは知りませんでした。
さすが博識ですね!
たしかにそれを聞けば、しっかり準備していたのかもしれませんが、15人ほどの一行だったのに50人分の武具というのはどうよ・・・とも思います。

>ルーズベルト並の謀略

でも、清盛の熊野詣は義朝の挙兵を誘うための偽装だったという説もありますよね。
家康の会津征伐ではありませんが、ない話でもないと思います。
これ、次話の稿で書こうと思ってたことなんですけどね(苦笑)。

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