平清盛 第27話「宿命の対決」 その2

 その1の続きです。
 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)を奪われたことで朝敵となってしまった藤原信頼源義朝だったが、『愚管抄』によると、天皇脱出を知った信頼、義朝は「アブノ目ヌケタル如クニテアリケリ」という状態になってしまったという。目をくりぬかれた虻のように自分たちの進む方向性を失ってしまった様子を表したものだろう。また、『平治物語』では、天皇を奪われたことを知った義朝は、その不手際に怒って信頼を「日本第一ノ不覚人」と罵ったという。しかし、すべてはあとの祭り、賊軍に転落した彼らは、攻め寄せてくるであろう官軍を迎え撃つべく直ちに迎撃体制を整えた。

 一方、官軍となった平家軍は、総大将である平清盛が皇居となった六波羅を固め、清盛の長男・平重盛と、清盛の弟、平頼盛が攻め手の大将として義朝たちの籠もる内裏を攻撃した。『平治物語』によると、重盛は並み居る兵を前に「年号は平治なり、花洛は平安城なり、我らは平氏なれば、三事相応せり。敵をたいらげん事、何の疑いかあるべき」と叫び、兵士たちの戦意を鼓舞したという。また、ドラマにあった重盛と義朝の長男・源義平(悪源太)との一騎討ちも、『平治物語』に描かれている一幕である。待賢門に攻め寄せた重盛は、迎え撃つ義平と大庭の椋の木を真ん中に挟んで左近の櫻右近の橘の間を7・8回も駆け巡った。やがて、重盛が内裏を引き退くと、義平は逃げる重盛を追い、堀河付近で再び激闘を繰り広げたという。堀河での激戦の模様は『愚管抄』にもあり、馬を射られながら材木(堀河は材木の集積地)の上に弓杖で立ち上がり、馬を乗り換えた重盛を「ユユシク見ヘケリ」と記している。さらに『平治物語』では、郁芳門を攻撃した頼盛についても、徒武者の熊手に兜を引っかけられながら、忠盛から譲られた名刀「抜丸」で熊手の柄を切り折り窮地を脱する様が描かれている。

 やがて平家軍は六波羅へ兵を退く。戦闘中に内裏を捨てて退いた重盛軍、頼盛軍だったが、『平治物語』によると、実はこの撤退はあらかじめ申し合わされてのことだったという。合戦前、公卿から新造なった内裏を火災で失わないよう策を求められた清盛が、義朝軍をおびき出して内裏を占拠するために立てた策だった。そうとは知らずに源氏軍は一斉に内裏を出て、重盛らに追いすがった。このあと、平家軍の別働隊が内裏を占拠して門を閉ざしたのはいうまでもない。清盛の立てた策にまんまと掛かって退路を断たれた源氏軍は、もはや六波羅に攻めこむしか道はなかった。

 同じ頃、平家軍は加茂川に架かる五条大橋を分解し、用材を使ってバリケードを構築していた。この奇策を立案したのもまた、誰あろう清盛だった。決死の覚悟で六波羅に迫った義朝軍だったが、五条大橋のあたりでバリケードに行く手を遮られ、さらに兵の数にも歴然とした差があり、あえなく六条河原敗退した。一時は義平が幾重もの防衛戦を突破して六波羅の板塀近くまで攻め寄せるという奮戦ぶりを見せたものの、結局は多勢に無勢、衆寡敵せずだった。ドラマで描かれていた清盛と義朝の一騎討ちはいうまでもなくフィクションである。味方だった源頼政や美濃源氏の源光保(二条帝の側近)たちにも裏切られ、家臣の多くを討ち取られて十騎ほどになってしまった義朝軍は、東国で再起を図るため落ちていった。ここに、「平治の乱」は平家軍の大勝利をもって幕を下ろした。敗走する源氏を見送った清盛は、「内裏に行って昨日信頼に渡した名簿(みょうぶ)を取り返してやろう」といって人々を笑わせたというエピソードが残っている。

 余談だが、小学校の運動会紅組白組に分かれて戦う形式は、源平合戦に由来するといわれている。『保元物語』には、「源平両家の郎等、白旗、赤旗をさして、東西南北へはせちがふ」とあり、ドラマでも描かれていたように、源氏が白平氏が紅の旗印を掲げて戦った。これ以後、わが国では対抗戦において紅白が用いられるようになったといわれ、小学生が運動会でかぶる紅白帽は、紅白の鉢巻の発展系だといわれている。つまり、最初の源平合戦であるこの「平治の乱」が、わが国最初の紅白対抗戦だったというわけである。ちなみに我が家では、息子は白組、娘は紅組になることが何故か多い。なるほど、どうりで仲が良くないわけだ・・・。上、さらに余談。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2012-07-10 18:00 | 平清盛 | Comments(0)  

<< 桓武平氏と清和源氏 ~禍福はあ... 平清盛 第27話「宿命の対決」... >>