平清盛 第28話「友の子、友の妻」 その2

 その1の続きです。
 父兄とはぐれてしまった源頼朝は、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。永暦元年(1160年)2月9日、京の六波羅へ送られた頼朝の処罰は、その20日ほど前に兄の源義平斬首されていることから考えても死罪が相当かと思われたが、平清盛の継母・池禅尼こと宗子のたっての懇願により死一等を減ぜられ、伊豆に流刑と決まった。『平治物語』によると、当時13歳だった頼朝が、宗子の実子である亡き平家盛(清盛の弟)に生き写しだったことから、彼女は自分の命に代えても頼朝を助けたいと清盛に懇願したという。もとより清盛は斬首するつもりだったが、継母のたっての願いに負けて、伊豆への配流にとどめたというのである。

 本当に頼朝が家盛と似ていたかどうかは確かめようがないし、そもそもそれが助命の理由だったのかどうかもわからない。ただ、宗子の厚意によって頼朝の首がつながったことは『愚管抄』にも記されており、後年の平家都落ち以後、頼朝が宗子の実子である平頼盛にだけは厚遇をもって接したというエピソードを見ても確実のようだ。清盛にしても、頼朝ひとりを斬ったところでどうなるものでもないし、これ以上血を見たくない思いもあっただろう。「保元の乱」で死刑の復活を命じた信西の首が獄門に晒されたばかりでもあり、復讐の連鎖が繰り返されることを恐れたのかもしれない。何より、清盛がいくら家督であっても、亡き父の正室である宗子の意向を簡単に無視できるものではなかっただろう。加えて「保元の乱」の際、去就に迷う清盛に助言し、平家一門の結束が一枚岩になるよう導いてくれた恩義(参照:第20話)を思えばなおさらだ。

 「頼朝殿を見ておると、家盛を思い出すはまことじゃ。されど、いっそう痛々しいは清盛。もとより、あのようなけなげな若者の命を奪いたいはずもなかろう。」(宗子)

 清盛の気持ちを代弁するために宗子が一芝居打ったというドラマの設定は、実に秀逸だった。清盛とて、13歳の少年を殺して気持ちいいはずはない。しかし、平家の棟梁という立場上、情にほだされるわけにはいかない。その清盛の苦悩を察し、清盛のために頼朝の助命を嘆願した宗子。いかにも一族思いの平家らしい話だが、この措置が、平家にとって最大の失策であったことは20年後に明らかになる。

 源義朝の愛妾である常盤御前今若乙若牛若の3人の子どもたちも捕らえられたが、頼朝を助けた以上、さらに幼い子どもたちを殺すわけにもいかず、出家を条件に許された。このとき乳飲み子だった牛若がのちの源義経である。常盤は近衛天皇(第76代天皇)の中宮である九条院雑仕女(雑事に従事する下級女官)だったといわれているが、『平治物語』によると、九条院が中宮にたてられる際、都中の美女を選んだ1000人の中から100人を選び、その100人の中から10人、その10人の中からもっとも美しい女性として選ばれたのが常盤だったという。それが事実なら、都一の美女だったというわけだ。その類い稀なる美しさに目を奪われたのか、清盛は常盤を閨に招き入れ愛妾とした。

 古来、戦いの勝利者が敗者の妻や愛人を我がものにすることは珍しくない。いわば「戦利品」である。敗者・義朝の愛妾で、しかも絶世の美女だった常盤御前を清盛が自分の妾としたのは、3人の子どもの助命に関係なく当然のことだった。ところが清盛の場合、常盤を自分の妾とする代わりに彼女の3人の子どもの命を助けた、というふうに描かれることが多い。事実はどうだったのだろうか。

 『平治物語』によると、3人の子どもたちを助けた理由は、このとき数えで6歳の乙若が死ぬ覚悟をしていた姿に清盛が心を打たれたことと、六波羅で開かれた会議で「兄の頼朝を助けておいて、それより幼い弟たちを殺すのはおかしい」という結論に達したためと伝えている。ところが『平治物語』よりも後に成立した『義経記』によると、清盛は「子孫の敵になろうとも常盤が自分の妾になるなら子どもを助けてやろう」といっており、自分の欲望のために子孫を危険にさらす愚将として描かれている。どちらが正しいかは知るすべもないが、『義経記』の説のほうが信憑性に乏しいのはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-18 17:37 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(2)  

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Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2012-07-20 16:49
タイトル : 驕れる者も久しからず
親愛なるアッティクスへ 今年は大河ドラマと言えば、昔あったNHKの大河ドラマ「新平家物語」を覚えておられますでしょうか? 当時、私は小学校の低学年だったと思うのですが、結構、それなりに覚えてます。 特にその第一回が、なぜかこのときの正月の風景とともに澄んだ印象として残っておりまして・・・。 常々、機会が有れば、一度あらためて見てみたいと思っておりましたが、先日、ようやく念願叶い、DVDを見ることが出来ました。 当時の印象としては、若き日の仲代達矢扮する平清盛の乾坤一擲の気迫と、斜陽化して...... more
Commented by heitaroh at 2012-07-20 17:00
いやいや、平清盛なかなか面白くなって来ましたよ(笑)。
特に、玉木さんの義朝はよくできてますね。
木村功の義朝以来の出来じゃないですか?
「武士の顔ってこんなんだったんだ・・・」とつくづく思うほどよくできてるように思います。

さて、一点だけ。
清盛が頼朝を助けたことを「失敗」とおっしゃいましたが果たしてそうだったでしょうか。
頼朝と義経がいなくとも平家は滅びたと思います。
実際、平家を都から追ったのは頼朝でも義経でもなく、木曾義仲ですから。
また、逆に身内も敵にまわったとして全部粛清してしまった頼朝の源氏もその後、北条氏に取って代わられるわけですから、温情をかけること自体は失敗ではなかったと思いますけどね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-07-21 00:39
< heitarohさん

木村功の義朝はさすがに知りません。
歌謡曲はマセガキだった私ですが、大河ドラマは小学生の頃は見てませんでしたので・・・。
でも、たしかに玉木さんの演技は鬼気迫るものがありましたね。
鎌田正清と刺し違えての最期も、なかなか迫真の演技でした。

なるほどおっしゃるとおりかもしれませんね。
ただまあ、助命したのが命取りになったという見方が一般的だと思いますので、ここでもそれに従わせてもらいました。
おっしゃるように、頼朝を助けようが助けまいが結果は同じだったかも知れません。
ただ、物語的にはそう考えた方がドラマチックですから(笑)。
でも、一番の失策は、貴兄のブログでおっしゃられているように、伊豆に流したことでしょうね。
でもそれも、後世の目から見ても首を傾げるようなことが清盛にわからなかったとも思えず、伊豆に送ったのは何らかの理由があったのかな・・・と。

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