平清盛 第29話「滋子の婚礼」

 「平治の乱」後の政局は、後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)による主導権争いにあった。「保元の乱」で摂関家の勢力は低下し、その後実権を握った信西も「平治の乱」で倒れ、代わって政権を掌握しようとした藤原信頼も短期間で滅ぼされた。本来であれば、後白河院が天皇家の長の立場で院政を行うところだったが、もともと中継ぎとして擁立された天皇であったことや、乱を通じて信西、藤原信頼という有力な側近を失ったこと、さらに、今様(当時の流行歌)にうつつをぬかす軽薄さから“治天の君”としての権威に欠けていた。そんな中、「末の世の賢王」と称されたほどの聡明な二条帝は自分で政治を行うことを望み、後白河院も権威がないなりに院政に意欲を見せていたことから、両者の対立が生まれたのである。

 ドラマでは描かれていなかったが、両者の対立関係を象徴する事件が乱の3か月に起きた。藤原経宗藤原惟方ら二条親政派の配流事件である。永暦元年(1160年)正月6日、後白河院が八条堀河の藤原顕長邸に御幸した折、後白河院が桟敷から大路を見物していると、経宗・惟方の命により突然桟敷に板が打ち付けられ、外が見えないようにされてしまった。経宗は二条帝の生母の兄、惟方は二条帝の乳母子という間柄で、「平治の乱」では当初、信頼のクーデターに加担していたものの、形勢不利と見るやたちまち清盛方に与したという節操のない二人である(参照:第27話)。乱のなかで巧みに立ち回り、まんまと信西、信頼を排除した二人は、天皇主導による政治を目指し、後白河院政を阻もうとしていた。この桟敷の一件も、そうした後白河院に対するあからさまな嫌がらせだった。

 『愚管抄』によると、このとき後白河院は清盛を呼んで、「ワガ世ニアリナシハコノ惟方、経宗ニアリ。コレヲ思フ程イマシメテマイラセヨ」(私の地位は惟方と経宗に握られている。捕らえて思う存分懲らしめてくれ)と泣きながら懇願したという。命を受けた清盛は平忠景平為長の二人の郎等を派遣して二人を捕らえ、連行して後白河院の前に引き据えて責め立てた。このとき清盛は二人を拷問にかけ、その悲鳴を後白河院に聞かせたという。このふたりの逮捕劇の背景には、当初信頼のクーデターに加担しながら、まるで乱収拾の立役者であったかのように振る舞うふたりに対する貴族たちの反発があった考えられる。独断で天皇の側近を処分できるほど、後白河院や清盛の力は強くなかっただろう。やがて経宗は阿波へ、惟方が長門に配流され、「平治の乱」の戦後処理はようやく終止符を打った。

 その翌年、清盛の義妹・滋子(のちの建春門院)が後白河院の子を身ごもった。滋子の父は公家平氏の平時信で、母は中納言・藤原顕頼の娘・祐子。清盛の正室・時子とは異母姉妹という間柄である。父・時信が鳥羽法皇(第74代天皇)に仕えていた関係で、滋子も鳥羽院の娘で後白河院の同母姉にあたる上西門院に仕えていた。滋子は貴族の中でも絶世の美女と謳われるほどの美貌の持ち主だったようで、当時の女官の日記にも、「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」(なんと美しい、この世にはこのような人がいらしたのか)と記されているものや、「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」(言葉にできぬほど美しく、若々しい)などと絶賛されているほどである。さらに滋子はその美貌だけにとどまらず、「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」(心構えが実に比類なくていらした)と評されるほどの聡明で心配りの行き届いた女性だったようで、その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、寵愛を受けるようになったという。ドラマでは気の強い風変わりなギャル風の女性に描かれていたが、実際の滋子は、どうやら人物、容姿ともに非の打ち所がない優等生だったようだ。巻き髪だったというエピソードはドラマのオリジナルである(たぶん)。

 滋子の懐妊によって後白河院と縁戚関係となった平家一門だったが、政局は依然として後白河院と二条帝の対立状態にあり、どちらかといえば二条親政派だった清盛は後白河院とは距離を置いて付き合っていたことから、この縁戚関係が清盛にとって歓迎すべきことだったかどうか微妙だ。いずれにせよ、こののち滋子は平家と後白河院をつなぐ太いパイプとなり、清盛、後白河院の両者の関係も否応なしにに深まっていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-23 18:00 | 平清盛 | Comments(0)  

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