平清盛 第31話「伊豆の流人」

 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)の確執が深まるなか、平清盛は政治的には二条帝自ら政治を行う親政を支持していた。清盛が後白河院政を支持しなかったのは、ひとつには妻の時子が形式的にせよ二条帝の乳母になっていたからであろうが、もうひとつの理由は、『愚管抄』に清盛をして「後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバイカガトノミ思エルケルニ」と記していることからも分かりるように、内心では後白河院の帝王としての資質に疑問を抱いていたからに違いない。それでも清盛は、二条だけに肩入れするこを避け、藤原経宗藤原惟方ら二条親政派を逮捕したように(参照:第29話)、後白河院にも奉仕することで双方に恩を売っていた。そうした清盛の姿勢を『愚管抄』は、「清盛ハヨクヨクツツシミテイミジクハカライテ。アナタコナタシケルニコソ」と、天皇・上皇両派と微妙な距離を保ちながら、巧みに政界を遊泳する政治スタイルを伝えている。

 長寛2年(1164年)12月、清盛は後白河院の命により、六波羅の南ある院御所の法住寺殿の敷地内に蓮華王院という寺院を造営した。現在でも京都有数の観光名所となっている三十三間堂がこれである(現在の堂舎は鎌倉中期に再建されたもの)。堂内に奉られている千体の観音像は見事なもので、これはかつて父・平忠盛が、鳥羽法皇(第74代天皇)のために千体の観音像を奉った得長寿院を造営して昇殿を許されたことにならったものだと考えられる。清盛は政治面で二条帝を支えながら、その卓越した財力によって、後白河院の信仰を経済面で支えていた。

 もっとも、蓮華王院の造営はかえって天皇と上皇の確執を広げる結果となってしまった。 『愚管抄』によると、落慶供養の日、後白河院は二条帝の行幸を促したものの、二条帝はまったく協力する姿勢を見せず、慣例となっている寺司の勧賞の沙汰もなかったという。このとき後白河院は目に涙を浮かべて「ナンノニクサニ」と嘆き、使者に立った藤原親範に八つ当たりする始末だったと伝えられる。

 しかし、天皇と上皇の対立関係による政権の分裂は、永万元年(1165年)の二条帝の崩御によって終わりを告げる。二条帝はこの年の正月明けから体調を崩し、4月中旬に病状が悪化。6月末に第一皇子である順仁親王に譲位、六条天皇(第79代天皇)が誕生した。このとき六条帝は満1歳に満たない乳飲み子で、母の実家の地位が低いため外戚からのバックアップも期待できなかったが、それでも譲位を強行したのは、何としても後白河院に政権を渡したくないという二条帝の最後の抵抗だった。譲位後、二条帝はすぐに院政を執り行う準備に取り掛かったが、その1ヵ月後の7月27日、23歳という短い生涯を閉じたのであった。

 二条帝の死にあたって後白河院が延暦寺の悪僧たちをを率いて騒動を起こしたドラマでの話は、もちろんドラマのオリジナルである。ただ、最後まで理解し合うことがなかった上皇と天皇の父子関係がよく分かる描き方で、ドラマでの後白河院の不気味な人間性を上手く使った創作だった。こののち、政治の主導権は自然と後白河院の方へ傾いていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-07 00:00 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

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