平清盛 第38話「平家にあらずんば人にあらず」

 もはや朝廷における地位は盤石になりつつあった平清盛の次なる目標は、自身の血を分けた娘・徳子(のちの建礼門院)の入内であった。幸いにも先ごろ元服した高倉天皇(第80代天皇)の生母は清盛の義妹・建春門院滋子であり、清盛からみれば帝は義甥にあたる。そして入内した徳子が皇子を産めば、清盛が天皇の外戚になるのである。『愚管抄』によると、清盛が「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたと記されている。代々、天皇家の外戚として政権を掌握してきた藤原摂関家が力を失いつつある今、新興勢力として平家が外戚になろうとする野望は自然のなりゆきだったといえるだろう。

 しかし、いかに政界を牛耳っていた清盛といえども、天皇家への輿入れとなると簡単にはいかなかった。ドラマにあったように、麝香など宋から輸入した珍しい品や動物を後白河法皇(第77代天皇)に献上したり、また法皇から馬を拝領した際、自ら手綱をとって臣下の礼をとったりと、治天の君の気を引くパフォーマンスを繰返した。後白河院にとっても、自身の政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠だと考えていた。おそらくは、建春門院滋子の強力な後押しもあっただろう。そして承安元年(1171年)12月、徳子の入内が実現した。出家した清盛に代わって平重盛が父親役となり、さらに泊をつけるために後白河院の猶子とされたうえで、高倉帝に入内し、翌年、中宮に立てられたのである。徳子17歳のときだった。

 こののち徳子が産んだ皇子が即位すれば、清盛はいよいよ天皇の外戚になる。清盛の狙いがそこにあったのは明々白々だが、この清盛の婚姻政策がかつての摂関政治の焼き直しであり、のちの鎌倉幕府と違って平家政権は貴族的な古い政治だとする評価もある。しかし、院政が定着していたこの当時、天皇の外戚であることと政治の実権はすでに無関係といってよく、摂関政治のような政治形態が時代遅れであることを清盛は重々承知していたはずだ。清盛にとって徳子の入内は、最高権威である天皇の身内になることで、平家の権威を高める狙いに過ぎなかったと思われる。事実、鎌倉幕府樹立後の源頼朝も、晩年には娘の大姫を入内させようと血眼になったが、術策にたけた貴族たちにいいようにあしらわれて失敗した。逆に言えば、幕府樹立後の頼朝ですらかなわなかった入内を実現させたこのときの清盛の政治力が、並々ならぬものであったといえるだろう。

 清盛の義弟・平時忠が発言したと伝わる「平家にあらずんば人にあらず」。この言葉は言った時忠本人以上に知名度があり、時忠からひとり歩きして、いわゆる“おごる平家”の象徴のような言葉として人口に膾炙されてきた。この発言のオリジナルは『平家物語』に記されている、「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」というもの。ただ、ここでいう「人」とは、いわゆる「人間」という意味ではなく、「しかるべき官職につける人」という意味のようだ。つまり、「平家にあらずんば人にあらず」を直訳すれば、「平家の者でなければ人間じゃない」と解釈しがちだが、実際には「平家の者でなければ要職に就けない」といった意味のようで、現代でいえば、「〇〇派でなければ大臣にはなれない」といったニュアンスの言葉だったようである。解釈次第でずいぶんと印象が違ってくる。しかし、たとえそうであったとしても、この放言は貴族内で大いに反感を買ったようで、平家一門のおごりととられても仕方がない浅はかな発言だったといえるだろう。この言葉を聞いた清盛は、きっと眉をしかめていたに違いない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-01 02:04 | 平清盛 | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2012-10-02 10:55
私はこの回を見ていて、清盛落胤説を採ったわけが少しわかりかけてきました。
後白河院が「あやつも我々と同じもののけの血が流れているではないか」などとつぶやくシーンを見てはっとしたのですが、以前、王家の犬論争というのがあったとかいう話がありましたよね。
王家という表現は間違っているが、天皇家と言ったのでは色々とうるさい問題になる・・・とかいうやつ。
日本に根強い皇室崇拝の感情を考慮すれば、この先、清盛といえば後白河院に対し軍事行動に出るわけですから、清盛を英雄とすることは憚られる・・・。
でも、大河ドラマとしては英雄でなくては困る・・・。
で、清盛も実は皇室の一員だった説にのっかろう・・・と。
なかなかの深謀遠慮ですよね。

ちなみに、平家を古い政治だといったところで、頼朝も鎌倉に居を構えながら天皇家の外戚になろうとしまし、時代が下っても徳川二代将軍秀忠もまた然りで、その意味では、やはり、外戚になっておけば色々と便利なこともあったんじゃないでしょうか?
天皇に直接会えるとか・・・。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-10-05 18:37
< heitarohさん

レス遅くなってスミマセン。
貴兄ほどではないですが、私も今多忙に追われておりまして、どうかご容赦ください。

なるほど、清盛落胤説をとった理由、あるいはそうかもしれませんね。
「王家問題」については、以前も当ブログで触れていますが、戦前の「皇国史観」のまま頭の中が止まっている方々が多くて寒いものを感じています。
あんまり書くと荒れちゃいそうなので控えますが・・・。
ただ、「王家」という呼称はさておき、この作品は今までになく「菊タブー」にチャレンジしている観はありますね。
そのチャレンジのために、あえて落胤説にしたというのは的を射ているかもしれませんね。

>外戚になっておけば色々と便利なこともあったんじゃないでしょうか?

かもしれませんね。
ただ、少なくとも摂関政治の時代のような政治の実権とは無関係だったわけで・・・。
王朝の組織の一員であるからには、最高権威である天皇の身内になることは名誉の極みであることに違いなく、箔をつけるためだけのことだったんじゃないかと・・・。

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