平清盛 第40話「はかなき歌」

 承安元年(1171年)に平清盛の娘・徳子高倉天皇(第80代天皇)に入内して以来、後白河法皇(第77代天皇)の院政を平家が支える安定した政権運営が続いていた。嘉応元年(1169年)に起きた「嘉応の強訴」以来(参照:第36話)、清盛と後白河院の関係に暗雲が立ち込めはじめた観は否めなかったが、それでも清盛はその後もたびたび法皇を福原の千僧供養に招いたりして、表面上は蜜月ぶりを演出した。ドラマにもあったように、承安4年(1174年)には法皇が建春門院滋子とともに厳島に参拝した。厳島に治天の君や女院が赴くのは前代未聞であり、これにより厳島の権威は飛躍的に高まったと考えられている。

 そんな中、安元2年(1176年)3月には後白河院の50歳を祝う賀宴が行われた。この宴では清盛以下、平家一門をあげて法皇の50歳を祝い、これを受けた法皇は「此度の御賀に、一家の上達部、殿上人、行事につけても、殊にすぐれたる事おほし。朝家の御かざりと見ゆるぞ」と、特別に院宣を下して平家一門の働きを褒めたたえたという。清盛の孫・平維盛が青海波(舞楽の曲名)を華麗に舞って、「光源氏の再来」とたたえられたのはこのときである。

 しかし、平家と法皇の蜜月はこの催しまでだった。この賀宴からわずか3ヵ月後の6月に滋子が病に倒れ、法皇直々の看病も虚しく7月8日にこの世を去った。35歳という若さだった。死因はニ禁(にきび)と呼ばれる悪性の腫れ物が胸部に出来たためといわれている。今で言う乳がんのような病気だろうか?

 滋子が崩御すると、平家と後白河院をとりもつ人物がいなくなり、両者の関係は急速に悪化しはじめた。そもそも後白河院と清盛は、滋子の産んだ高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、治天の君である法皇にとっては、福原にいながらにして政界に隠然たる影響力をもつ清盛の存在は煙たいものだったに違いない。院近臣の間では、平家一門が権勢をバックに高位高官を占めることに対して、不満がつのる一方だった。その衝突を抑止して調整役を果たしていたのが滋子だったのである。滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。

 安元3年(1177年)1月、平重盛が左近衛大将、平宗盛が右近衛大将になり、両大将を清盛の息子二人が占めたのは平家の栄華を象徴するものとなった。大将の地位を狙っていた藤原成親をはじめとする院近臣たちにとっては、面白いはずがない。そんな彼らによって引き起こされた打倒平家の陰謀「鹿ヶ谷事件」が起こるのは、滋子の死からわずか1年後のことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-15 01:12 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

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