平清盛 第41話「賽の目の行方」

 建春門院滋子の崩御をきっかけとして、栄華を極めていた平家一門の前途に暗雲が漂いはじめる。事実、滋子の崩御後、後白河法皇(第77代天皇)は側近の藤原成親平康頼西光俊寛らを重用するようになり、次第に平家を疎んじるようになっていった。法皇の後ろ盾を頼りに出世を狙う近臣たちにとっては、平家の専横を崩すチャンスが巡ってきたように思えたかもしれない。

 滋子の崩御後まもなく、仏門に入っていた後白河院の第九皇子第十皇子を還俗させ、高倉天皇(第80代天皇)の猶子としたのはドラマのとおりである。後白河院にしてみれば、高倉帝が成人して自分の意志で政治を行うようになる前に退位させ、自身の意のままになる幼帝を立てて政治権力を維持しようとしたか、あるいは平家の血を引く帝の出現を阻もうとしたのか、いずれにせよ、高倉帝退位工作の一環であったことは間違いないだろう。しかし、平家にしてみれば高倉帝の中宮である徳子に皇子が生まれる前の退位は、絶対に認められるものではなかった。そんなこともあって、清盛、後白河院の両者の対立はいっそう深まっていく。

 反平家の機運が高まるなか、治承元年(1177年)3月に事件は起きた。のちの「鹿ヶ谷事件」の前哨戦とも言うべき「比叡山の強訴」である。ことの発端は、加賀守・藤原師高の弟で目代(国守に代わって現地に赴任する代官)を務める藤原師経が白山中宮の末寺・湧泉寺(ゆうせんじ)とイザコザを起こし、師経が末寺を焼き払ったことにあった。怒った白山衆徒は本寺である比叡山に訴え、これを受けた延暦寺の山門衆徒は師高・師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出る。だが、師高・師経は後白河院の側近中の側近・西光の息子であったため、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとした。西光という人物は、もとは信西の家人で俗名を藤原師光といったが、信西が死んだのち出家して後白河院に仕え、「法皇第一の近臣」と言われるまでのし上がった人物である。

 しかし、延暦寺側は後白河院の処分に納得せず、4月13日には七基もの神輿を担ぎだして高倉帝の閑院内裏に押し寄せた。このとき、内裏を警備していた平重盛の軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中し、延暦寺の衆徒にも死傷者がでる事態に発展した。怒った大衆は神輿を放置して帰山。しかし、武力攻撃を命じたのが後白河院自身であったということを知った大衆は、ふたたび強訴を行う姿勢を見せる。やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議、師高の尾張国への配流を決定し、神輿に矢を射た重盛の家人を監獄へ送った。結局は大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。

 この事件に際して、平清盛と延暦寺が何らかの気脈を通じたいたという見方はあるようだが、師経が白山の末寺と起こしたイザコザまでもが清盛の仕組んだことだったというのは、ドラマの創作だろう。師経と延湧泉寺とは、かねてから所領問題でもめていたようだ。ただ、この事件の2ヶ月後に起きた「鹿ヶ谷事件」は、清盛が反平家勢力を一掃するために仕組んだ演出だったという見方が強い。おそらくはその伏線として、本話の設定となったのだろう。

「当人同士の思惑に関わりなく、たまたま出た目に突き動かされるが、双六というもの。おのれの番が巡って来た時に、よりよい目を出すよりほかに、勝つ道はござりませぬ。」
 乙前が後白河院に対して言った台詞。清盛と後白河院の出した賽の目の行方は・・・?
「賽の目は、目まぐるしく変わるものぞ・・・あがりじゃ。」
 このときの清盛の政治力は、たとえ相手が治天の君であっても敵ではなかった。あるいは賽の目さえ自在に操れたのかもしれない。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2012-10-22 23:21 | 平清盛 | Comments(0)  

<< 平清盛 第42話「鹿ヶ谷の陰謀」 KOBE de 清盛 史跡めぐ... >>