平清盛 第43話「忠と孝のはざまで」

 一週間遅れのレビューです。

 平清盛にとって娘の徳子高倉天皇(第80代天皇)の皇子を生み、天皇の外祖父になることが大きな願いであったが、徳子が入内してから2年、3年と過ぎても一向に懐妊の兆しはなかった。この結婚が朝廷と平家を結びつける重要な意味を持つことは高倉帝自身も承知のことだったが、いかんせん高倉帝はなかなかの女好きだったようで、次から次へと側女を作り、子どもまでもうけてしまう高倉帝の行動に(幸運にもみな皇女だった)、清盛は気をもんでいたに違いない。徳子の懐妊が知らされたのは、入内から7年が過ぎた治承2年(1178年)6月のことだった。

 徳子のお産はたいへんな難産だったらしい。出産に際しては、後白河法皇(第77代天皇)も一僧侶として祈祷に加わったという逸話も残っている。前年に鹿ヶ谷事件があり、清盛と後白河院の関係は修復不可能な程に悪化していたが、それでも皇子の出産をひたすら祈った後白河院の胸中は、どのようなものだったのだろう。一方の祖父である清盛はというと、ただうろたえるだけだったという。『平家物語』によると、一向に進まないお産に清盛は途方にくれ、人が何かを言っても「とにかくよきにはからえ」と言うのがやっとだったとか。やがて重衡が皇子出産の報を告げると、清盛は感極まって大声で泣いたという。いかに清盛がこの日を待ち望んでいたかがうかがえるエピソードである。皇子は言仁(ときひと)と名付けられ、翌月には早くも皇太子にたてられた。誰にとっても孫は可愛いものなのだろうが、清盛にとっては外祖父の地位が約束されただけに、ことのほか皇子が愛おしく思えたのだろう。

 後白河院を幽閉しようとする清盛に対して、嫡男・平重盛が涙ながらにその不忠を諌め、清盛を思い止まらせたという逸話は、『平家物語』に見られるエピソードである。ドラマでは言仁親王を皇太子に立てたあとに、「機は熟した」として法皇を捕らえるよう号令を発していたが、『平家物語』によると、鹿ヶ谷事件の際に怒りに任せて行おうとした暴挙として描かれている。臣下である清盛が法皇を幽閉するなどの不忠が許されるはずもないが、清盛のあまりの剣幕に圧倒され、平家一門だれひとり異を唱える者がいなかった。『平家物語』の「教訓状」によると、平家一門がみな甲冑に身を纏うなか、重盛はやや遅れて平服で伺候し、こう述べたという。
「悲しきかな、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷盧八萬の頂よりもなほ高き父の恩たちまちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御為には、不忠の逆臣ともなりぬべし。進退これ窮まれり。是非いかにもたとえ難し。申請る所詮は、唯重盛が頸を召され候へ。」
(法皇に忠義を尽くそうとすれば親不孝となり、親不孝をしてはならないと思って行動すれば不忠者となってしまいます。進退は極まりました。もはや私の首をはねていただくしかありません。)


 この重盛の涙ながらの懇願に追い詰められた清盛は、自分の非を認めてほこを収めるしか術はなかった・・・というのが、『平家物語』に記されたエピソードで、ドラマでも採用されていた筋立てである。ただ、『平家物語』は清盛の暴君ぶりを誇張した物語で、その対比として重盛が必要以上に聖人君子として描かれているきらいがなくもない。実際に清盛は重盛の病没後に後白河院の幽閉を実行しており、その伏線として、清盛の横暴ぶりを際立たせるために作られた話だと見る人も多いようだ。ただ、このような重盛像は全くの虚像でもなく、『愚管抄』では「小松内府ハイミジク心ウルハシクテ」と述べられており、その他、当時の公家の日記などにも、重盛の人物を高く評価する記述が認められる。『平家物語』で見られるような聖人君子だったかどうかはわからないが、誠実で立派な人物ではあったようだ。

 ちなみに、このとき重盛が発した言葉、「忠ならんと欲すれば即ち孝ならず」は、明治維新以後の国定教科書に記載されることとなる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-12 00:09 | 平清盛 | Trackback | Comments(0)  

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