平清盛 第44話「そこからの眺め」

 治承3年(1179年)、平清盛の身辺をふたつの悲劇が襲う。まずは6月17日、清盛の娘で前関白・藤原基実の未亡人である盛子(白河殿)がこの世を去った。奇しくも亡き夫と同じ24歳という若さだった。彼女は先に病没した清盛の義妹・建春門院滋子や、高倉天皇(第80代天皇)の中宮となり安徳天皇(第81代天皇)の生母となった建礼門院徳子と並んで、清盛の権力上昇に大きく貢献した女性だった。9歳で基実の継室となり、わずか11歳で未亡人になった薄幸の娘の死に(参照:第32話)、さすがの清盛もひとりの親として暗澹たる思いだったことだろう。

 ところが、そんな清盛の気持ちを逆撫でするかのように、後白河法皇(第77代天皇)は「内の御沙汰(天皇の命令)」と称し、盛子が亡き夫から相続していた領地を没収し、高倉帝の管理下に置いた。背後で糸を引いていたのは、関白・藤原基房だったようだ。摂関家領を我が子・藤原師家に相続させたいと考えた基房は、後白河院をそそのかして平家から領地を横領したのである。同時にこの措置は摂関家の後継者が師家であるというアピールでもあった。娘婿である近衛基通を摂政関白につかせるつもりだった清盛としては、この事態は受け入れられるものではなかった。

 さらに7月28日、清盛より平家の棟梁の座を継いでいた嫡子・平重盛が死去した。享年42歳。鹿ヶ谷事件以降、気力を失い臥せりがちだった重盛は、この年の3月の熊野詣の途中に吐血して倒れたという。死因は胃潰瘍とも脚気、腫瘍とも。幾度となくぶつかりながらも平家の後継者として最も頼りにしていた息子の死は、清盛にとって大きなショックだったに違いない。清盛を悪玉として描く『平家物語』ですら、さすがにこのときばかりは清盛に同情的で、子に先立たれた親の悲しみを代弁している。親が子を思う心は、いつの時代でも、たとえ清盛でも同じだろう。

 しかし後白河院は、またしても清盛の悲しみを逆撫でするかのように、重盛が10年以上知行国主を務めた越前国を没収して院の直轄地とし、近臣の藤原季能を越前守に任じた。さらに、『平家物語』によると、後白河院は重盛の喪が明けないうちから石清水八幡宮へ遊びに行き、嘆きの色さえ見せなかったという。長年に渡って後白河院に忠実に仕えた重盛の死に対して、まったく痛みを感じていない様子で、これは明らかに平家への挑発行為だった。これに激昂した清盛は10月14日、大軍を率いて摂津福原から上洛。15日には徳子と皇太子・言仁親王(のちの安徳天皇)を自邸に移し、二人を伴って福原に引き籠ると脅した。清盛の怒りの大きさに恐れをなした法皇は、すぐさま清盛のもとに使者を送り、今後は国政に関与しない旨を伝えた。しかし清盛は許さず、17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、院近臣など39名を解官、法皇を平安京南郊の鳥羽殿に幽閉した。そして、娘婿である近衛基通を関白・内大臣にすえ、大量解官によって欠員となった知行国主や受領に、平家一門や家人を任じた。世に言う「治承三年のクーデター」である。

 承久の乱に敗れた後鳥羽法皇(第82代天皇)のように島流しになったわけではないが、実質的には治天の君が臣下である清盛によって配流されたのも同然のことで、武力が朝廷の秩序を破壊した瞬間だった。この政変により、約13年続いた後白河院政は終わり、平家による独裁政治が幕を空ける。ここに、日本史上初の軍事政権が誕生し、いわゆる“武士の世”が訪れたといえる。まさしく人臣の頂にたった平清盛。そこからの眺めはどのようなものか? 白河法皇(第72代天皇)が言った、のぼりきったその果ての景色とは・・・? もうすぐ答えが見えてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-13 23:44 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

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