平清盛 第47話「宿命の敗北」 その1 〜石橋山の戦い〜

 治承3年(1180年)初夏、以仁王の発した平家打倒の令旨を受け取った源頼朝は、8月17日に伊豆の目代・山木兼隆の館を奇襲し、たやすく兼隆を討ち取った。これに勢いづいた頼朝は坂東各地の武士を味方につけながら、東方への進撃を開始する。やがて、兼隆討死の報に接した平氏方は、同月23日、相模の大庭景親が総大将となって源氏を迎え撃つ構えをみせた。このとき、頼朝を総大将とした源氏方には、岳父の北条時政をはじめ佐々木定綱土肥実平などの伊豆や坂東南部の武士が馳せ参じており、兵力は約300人ほどだったと推測されている。兼隆を襲撃した際の兵力は約30人ほどだったといわれており、わずか6日間で多くの武士が頼朝のもとに馳せ参じたことがうかがえる。

 一方の平氏方は、総大将の景親の下へ熊谷直実渋谷重国梶原景時らが馳せ参じ、兵力は約3千人にも達していたとか。ただし、坂東をはじめとする東国は、平治の乱までは源氏の配下にあり、景親麾下の将兵のなかには、かつては頼朝の父・源義朝の家臣だった者も多数いたという。

 そんななか、源氏方と平氏方は相模湾に面した石橋山で激突する。しかし、もとより兵力の差は歴然としており、結果はいうまでもなく平氏方の圧勝。総崩れとなった源氏方約300人の将兵は、蜘蛛の子を散らすように戦場から姿を消した。このとき頼朝に従った武士は、土肥実平をはじめわずか6名だったという。兼隆の襲撃に成功した頼朝は、わずか6日後に完膚なきまでに叩きのめされたのだった。

 翌日、平氏方は頼朝の探索をした。『源平盛衰記』によると、まもなく、大庭景親が山中に怪しい洞穴を見つけ、これを受けた梶原景時が洞穴のなかに入ると、そこには頼朝とおぼしき武将と、それを取り囲む側近たちの姿が目に入った。景時と目があった頼朝は自害しようとするが、景時はこれを制止し、「こうもりばかりで、誰もいない。向こうの山があやしい」と叫んだという。なおも景親か怪しんで洞窟に入ろうとすると、景時が立ちふさがって、「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄ったという。この剣幕に景親は諦めて立ち去り、頼朝主従は捕縛されなかった・・・という有名な逸話で、ドラマでもこの逸話にそって描かれていた。

 この話が実話かどうかはわからないが、もし事実ならば、まさしく頼朝は景時のおかげで九死に一生を得たことになる。おそらく洞穴の近くには景時以外にも多数の平家方将兵がいたはずで、もしこのとき景時が、「右兵衛佐(頼朝)がいたぞ!」と叫んでいたら、頼朝主従は立ちどころに討ち取られるか、捕縛されていたことだろう。なぜ景時は頼朝を見逃したのか・・・? 一般には、仮に頼朝の所在を景親に告げてわずかな恩賞を得るよりも、ここで頼朝に恩を売ることで、この先もし源氏の巻き返しがあった際には自身のプラスになると判断した、と考えられているが、果たして瞬時にそんな判断が可能だろうか? もともと平家政権に不満を抱いていたのか、あるいは洞穴のなかで見た頼朝の姿にただならぬカリスマ性を感じたのか、いずれにせよ、平氏方に身を置きながらも予てから源氏に心を寄せていたのかもしれない。もとは景時も義朝の家人だった。頼朝は死んだ父に助けられたといえるだろうか。

 こののち平氏方を離脱した景時は頼朝に仕え、大いに信任された。しかし、結局は頼朝の死後に謀反を企て、一族と共に滅亡する。頼朝には命の恩人として厚遇された景時だったが、源氏方の他の家人たちとは折り合いが良くなかったようである。後世の物語などでも、頼朝の弟・源義経を陥れた陰険な人物として描かれることが多い。これも、頼朝に恩を売って立身出世を遂げたしたたかな人物としてのイメージが強からだろうか。いずれにせよ、景時が洞穴に潜む頼朝を見逃していなければ、のちの頼朝による鎌倉幕府の樹立はもちろん、平家一門の滅亡もなかったかもしれない。景時の瞬時の判断が、歴史を大きく変えたといえよう。

続きは近日中の「その2」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-04 14:45 | 平清盛 | Trackback | Comments(0)  

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