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平清盛 第49話「双六が終わるとき」

 治承5年(1181年)1月14日、福原遷都以来、病に冒されていた高倉上皇(第80代天皇)が崩御し、東山の清閑寺に葬られた。享年21歳。8歳で天皇に即位して13年間、父の後白河法皇(第77代天皇)と義父である平清盛の政争に翻弄され続けた生涯だった。

 色白で美しい容姿だったと言われる高倉上皇。ドラマでは描かれていなかったが、なかなかの女好きだったようで中宮・徳子の他にも多くの側女がいたらしい。その中でもとりわけ入れ込んでいたのが、美貌の上に箏曲の名手であったといわれる小督局という娘だった。一説には、寵姫を亡くして悲嘆に暮れていた高倉帝を見かねて、徳子が小督を充てがったとも言われている。高倉帝の小督に対する寵愛ぶりはたいへんなものだったようである。

 これに怒ったのは義父の清盛だった。自身の娘である中宮・徳子との間にまだ皇子が出来ないのに、中宮を差し置いて小督に溺れる高倉帝に怒り狂い、小督を宮中から追い出し、東山・清閑寺で無理失理に剃髪出家させたという。『平家物語』などで伝えられる、有名な高倉帝と小督の悲恋話である(実話かどうかは定かではない)。

 そんな気の多い高倉院だったが、中宮・徳子との仲も悪くなかったようで、九条兼実の日記『玉葉』によると、高倉院の死後、清盛と時子夫妻が徳子を後白河院の後宮に入れようと画策したところ、「いっそ出家したい」とこれを拒絶したという。従順だった徳子が両親の意向に逆らったのは、後にも先にもこのときだけだったといわれる。やむなく清盛は代わりに厳島内侍との間にできた娘を後白河院に送ったが、法皇はそれほど喜ばなかったという。色好みの法皇といえども、そんなみえみえの懐柔策にのるほど愚かではなかった。

 高倉院の崩御により後白河院政の復活は避けられないものとなり、朝廷内における平家の立ち位置も微妙なものになった。清盛はその打開策として、惣官職というポストを新設して平宗盛に就かせた。この職は畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)と近江・伊賀・丹波の9ヵ国を統括する任で、強力な軍事指導権兵糧米の徴収権が与えられた職だといわれている。畿内を中心とする広域の軍事指導権を平家が掌握することで、朝廷内で実権の維持と、各地の反乱軍に対する牽制が目的だったようだ。

 また、福原遷都に失敗して還都した清盛だったが、今度は京の九条周辺に六波羅に続く新しい拠点づくりを開始した。この付近には九条兼実や皇嘉門院崇徳天皇(第75代天皇)の中宮)などの上級貴族の邸宅もあったが、所領の一部を強制的に没収して、武者たちの宿所にあてた。さらに安徳天皇(第81代天皇)の内裏も八条に移した。これには南都や宇治に通じる交通の要衝をおさえる戦略的な意味があったと考えられるが、あるいは福原遷都に代わる首都移転プランの一環だったのではないかという説もある。しかし、このプランが進められることはなかった。安徳天皇の八条行幸から1ヶ月も経たない治承5年(1181年)2月、突如清盛が病に倒れ、帰らぬ人になってしまったからである。清盛の死後、宗盛はふたたび六波羅を平家の拠点にした。清盛の新都構想は、またしても幻のまま終わったのである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-21 01:50 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

Tracked from ショコラの日記帳・別館 at 2012-12-21 15:30
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