仕事ついでの駿河国紀行 その1 ~駿府城跡~

先日、仕事で静岡に行ったのですが(参照:旅ゆけば、駿河の国に茶の香り…なう!)、普段あまり関西を出ることのない私としては、せっかくなので仕事を早めに切り上げて、少しだけ市内中心部を彷徨いてきました。
静岡県は、旧令制国時代いえば、駿河国、遠江国、伊豆国に別れますが、県庁所在地である静岡市は駿河国になります。
駿河といえば、徳川家康の最後の居城・駿府城があった国。
現在では、駿府城跡は県庁公園になっているんですね。

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もともと駿河国は室町時代、今川氏守護職として治めていましたが、9代・今川義元の頃、家康は人質として8歳から10歳の間を駿府で暮らしました。
しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長の手によって討たれると、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568年)、武田信玄によって駿府を追われます。

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その信玄亡き後の武田氏を、家康が天正10年(1582年)に追放し、天正13年(1585年)には駿府城の築城を開始し、浜松城から移り住みました。
しかし、天正18年(1590年)、家康はときの天下人・豊臣秀吉に関東への移封を命じられ、駿府城の城主には豊臣系の中村一氏が配置されます。

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しかししかし、秀吉亡き後の関が原の戦いに勝利した家康は、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、わずか2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、慶長12年(1607年)に三たび駿府に入りました。
この時に城が拡張リニューアル工事され、駿府城は壮大な城として生まれ変わります。
大御所となった家康の居城として、築城に際しては「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な職人や良質の資材が集められたと伝わります。

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家康の死後20年近く経った寛永12年(1635年)の火災により、天守閣など殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されますが天守閣は再建されませんでした。
以後、駿府城に城主はおらず、建物の規模も次第に縮小していくこととなります。

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ちなみに駿府城の火災はそれ以前にも幾度となくあったらしく、家康の生前中にも、リニューアル工事が完成した慶長12年(1607年)からわずか3年の間に、小火も含めると3度も火災に遭ったという記録が残されています。
これにはさすがの家康も辟易していたようで、とくに慶長14年(1609年)の火災では、原因となる火を出した女中が火罪で処刑され、その上司の女中も島流しの刑に処せられています。
たしかに3年間で3度の火災は多すぎですよね。
この辺りが、特に空気が乾燥した地域だとも思えないのですが・・・。

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本丸跡には家康の銅像が建っています。
なかなか凛々しい顔の家康でした(たぬきオヤジではありませんでした)。
左手にとまっているのはです。
家康が鷹狩りマニアだったことは有名ですね。

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よく、縁起のいい夢として「一富士、二鷹、三茄子」と言いますが、これはすべて家康が好きだったものだという説があります。
であれば、本丸から富士山が見えるはず・・・と見渡してみたら、言わずもがなでした。

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ここにあった天守閣は、5層7階で約55m×48mという城郭史上最大の天守閣だったと言いますから、さぞかし美しい眺めだったことでしょう。
いまから400年前、この場所で家康は富士山を眺めながら、鷹を片手に茄子を食していたのでしょうか(笑)。

ちなみに家康の銅像はJR静岡駅前にも建っていて、それがこちらです。
こちらの像は胴長短足でとっつぁん坊やの家康ですが、こっちのほうが本当の家康に近いんじゃないかという気がするのですが、いかがでしょうか?

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他にも近くには、家康の幼年期・竹千代像もありましたし、駅の南側には、大正4年に建てられた久能山東照宮三百年祭の塔が残されていました。
信長、秀吉、家康の戦国三英傑の中では、他の2人に比べてどうしても後世の人気に劣る家康ですが、お膝元であるここ静岡市のまちでは違うようですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-15 15:57 | 静岡の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(0)  

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Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2013-02-19 15:37
タイトル : バルトの楽園12 収容所誘致運動
親愛なるアッティクスへ 徳川家康という人は、織田信長や豊臣秀吉のような残酷なことはあまり、しなかった人ですが、それでも、そこは戦国武将ですから、いくつかはやってます。 中でも、晩年、気に入って居城にしていた駿府城が火事で焼けて、やっと再建したと思ったら、また焼けたときは、さすがの家康も、烈火の如く怒って、女中を何人か死刑にしています。 (←駿府城は現在、公園になっていて何もありませんので三河の豊橋吉田城です。吉田城は、安藤広重の東海道五十三次の中で、城の工事足場から職人が景色を見ている絵で有...... more

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