八重の桜 第12話「蛤御門の戦い」 ~禁門の変~

 「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊攘派は都を追放されていましたが、京都大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。そして元治元年(1864年)に入って、なんとか天皇をもう一度手中に取り戻そう、そのために京都に乗り込もうとの進発論が盛んになります。といっても、この論に関しては、長州藩内でも必ずしも挙党一致ではありませんでした。

 進発論の急先鋒は、来島又兵衛真木和泉らであり、久坂玄瑞高杉晋作らは慎重派、桂小五郎(木戸孝允)は反対派でした。来島や真木は、いわば古い尊攘論者であり、桂や高杉などはそこから脱皮して、小攘夷をすて、外国との交易をおこない、富国強兵をはかり、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする考えに変わりつつありました。いわゆる「大攘夷論」というやつですね。そしてその道は、やがては倒幕へとつながっていきます。

 そんな情勢のなかで、6月には「池田屋の変」の報がもたらされます。来島や真木ら進発論派がいきりたったことは言うまでもありません。6月中旬から翌月上旬にかけて、長州藩の益田右衛門介福原越後国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、真木和泉をはじめ久坂玄瑞、入江九一らも行をともにし、7月中旬、長州藩兵および諸藩尊攘志士らは伏見、嵯峨、山崎方面に集結しました。

 当初、慎重派だった久坂は、長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉っていました。これを受け、長州藩に同情して寛大な措置を要望する藩士や公卿もいましたが、一方で、断固として長州勢の駆逐を求める強硬派の声も大きく、朝廷内でも対立が起こります。そんななか、7月18日には有栖川宮幟仁熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と京都守護職・松平容保の追放を訴えますが、一貫して容保擁護の姿勢をとる孝明天皇(第121代天皇)の意見を尊重し、最後は強硬姿勢でまとまります。そして翌7月19日、御所の九門のひとつ・蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発します。

 一時、長州勢は中立売門を突破して御所内に侵入するといった善戦をみせますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転。結果、長州藩は圧倒的多数の幕府および諸藩兵に撃退されます。このときの様子を、長州勢に与していた公卿の中山忠能はその日記に、「九重(宮廷)の内外、甲冑の武士、切火縄・抜身充満。常御殿の御庭同断」「親王(祐宮南殿において御逆上・・・近臣新水を走り参り進上、御正気」と記し、また橋本実麗も、「今晩、先ず長州勢石山家裏より乱入、蛤門固の会津と戦争、此のところ殊に流れ玉激しく、宮中に及ぶ、浅猿き次第也」と記しています。ドラマにあったとおり、山本覚馬率いる会津藩の十五ドエム(口径15センチ)砲が猛烈な音を立てて打ち込まれ、殿上の公卿たちを震え上がらせた様子がうかがえますね。

 戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、のちの明治政府がこの戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。
 「西洋の学問をしても、家焼かずにすむ戦のやりようは、わからんもんでっしゃろか?」
 ドラマ中、大垣屋清八が山本覚馬に対して言った台詞ですが、残念ながら家を焼かずにすむ戦のやりようは、21世紀の今になってもわかっていませんね。もっとも辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということも、今も昔も変わっていないようです。

 この戦いにより、久坂玄瑞寺島忠三郎来島又兵衛真木和泉など、尊攘派のそうそうたるメンバーが戦死、あるいは自刃しました。ここで古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。覚馬たち会津藩の隆盛もまた、この頃が絶頂期でした。こののち、歴史は足早に展開していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-25 20:52 | 八重の桜 | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2013-04-26 18:56
私の友人は「長州藩はテロリストにしか見えない」と言ってました(笑)。
私にはNHKは薩長にも相当、気を使っているな・・・と思っていたのですが、見方が変わればそういう見方もあるんだな・・・と。
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-05-02 23:58
< heitarohさん

会津藩視点でみれば、長州藩は悪でしかないでしょうね。
西田敏行さんが『翔ぶが如く』に西郷隆盛役で出演を依頼されたとき、故郷(会津)の友人に相談したところ、「長州は駄目だが、薩摩なら大丈夫だ」と言われたので出演を引き受けた・・・というエピソードがあるくらいですからね。
でも、よくよく冷静に見れば、長州より薩摩のほうが悪ですよね。
長州はある意味一貫していたわけで、むしろ会津からすれば、薩摩の変わり身のほうが如何ともし難い思いだったのではないかと・・・。

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