八重の桜 第26話「八重、決戦のとき」その2 ~西郷頼母一族の悲劇~
西郷家で自刃したのは妻・千恵子をはじめ母、祖母、妹、娘など9人。また、隣室では縁者12人も自刃します。そのなかには、幼児3人もいました。幼い子どもたちが自らの命を絶つとは考えられません。ドラマでは描かれていませんでしたが、当然のことながら、その幼児たちは母親の手で刺し殺し、我が子の死を見届けたあと、自らの喉を刺して果てたのでしょう。悲惨としか言いようがありません。
一族が自刃して間もなく、新政府軍の一隊が西郷邸に突入します。ドラマでは突入したのは土佐藩士で新政府軍参謀の板垣退助となっていましたが、通説では、同じく土佐藩士で元海援隊士の中島信行だったといわれています(異説あり)。西郷邸に入った中島は、一族の集団自決という悲惨な光景に目を覆いますが、そのなかで、まだ死にきれずに悶え苦しんでいる16~7歳の少女を見つけます。年の頃から、おそらく頼母の娘・細布子だったでしょうか。少女は人の気配を感じて、「敵か?味方か?」と聞きました。もし敵ならば、死にきれず敵の手に掛かるなど、彼女たちにとって屈辱の極みです。中島はとっさに「味方だ!」と答えます。武士の情けですね。それを聞いた少女は安心して、力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだそうです。まだ16~7歳の少女に介錯を頼まれるという惨状・・・。中島は涙を流しながら少女の首を落としたといいます。ドラマでもこの逸話どおりに描かれていましたね。
会津の女性が皆、死を選ぶよう教育されていたわけではありません。すべては一家の主人や妻の考え方いかんでした。思えば6年前、藩主・松平容保の京都守護職受諾に断固として反対したため要職を解かれた頼母の思いが、決して我が身可愛さからの主張ではなかったことを、一族が身を持って証明したといえます。これほど壮絶な「内助の功」が他にあるでしょうか?
西郷千重子 辞世
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
「風が吹けばしなるほど細いなよ竹のようなわが身ですが、どんなに細い竹でも、強風に吹かれても折れない節があると聞きます。私たち女にも、どんな逆境にも屈しない節義があることを、わが殉死によって知ってください」(拙訳)
同じ日、家老の田中土佐と神保内蔵助が共に自刃します。田中は6年前、頼母と同じく容保に京都守護職受諾を辞退するよう諫言したひとりですが、頼母と違って容保の頑な決意を知るや、以後は容保の片腕として都で働きます。神保内蔵助は、先の鳥羽・伏見の戦いの責任を負わされ切腹した神保修理の実父。二人の早々の自刃は、混乱の責任をとった決意だったと見るべきでしょう。
「いま斬る腹を、あんときに斬っておけば・・・。家老一同、腹斬ってお断りすれば、会津はこげな道をたどらずにすんだ・・・。」
おそらく、実際もこの台詞のような心境だったに違いありません。まさしく覆水盆に返らず・・・しかし、後世の誰もそれを責めることはできませんね。彼らは彼らなりに、皆、自国のために尽くした結果だったわけで、少なくとも、現代の政治家のように私利私欲で国を食い物にしたわけではありません。
「おら、最後に、徳川のためでも幕府のためでもなく、会津のためのいくさをしたのだ。これ以上の名誉なことはねえ。」
もうすぐ平成の我が国も憲法が改正されそうです。自国のために戦うことを名誉と思う心・・・私たちにあるでしょうか?
さて、ようやく八重が歴史の表舞台に登場して来ましたね。八重の活躍も書こうと思っていたのですが、本稿もまた長くなってしまったので、次週に送ることにします。実に内容の濃い第26話でした。
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by sakanoueno-kumo | 2013-07-02 23:50 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)
綾瀬はるかさんが6/28(金)の『あさイチ』に出演。今後、明治時代になってから八重の服装が変わる事や、日清・日露戦争で従軍看護婦になる事など、後半のドラマの話も少ししました...... more
私は少し同情的なのですが、ただ、会津藩は京都に行かなくても新政府の討伐の対象になったでしょうし、(すんなり降伏して東北諸藩討伐の尖兵になったとも思えませんしね。事実、京都に行ってない長岡藩は曲折あったにせよ、恭順を拒み、討伐の対象になっているわけで。)徳川家の縁に繋がるほどの名門の家付きの家老であれば、若い養子の殿様なんて露骨に態度に出ていたのではないかと思います。
晩年は二人は一緒に暮らしたわけで、皮肉といえば皮肉なんでしょうが。
正直、これまで西郷頼母という人についてあまり知識がなかったので(これまで白虎隊などのドラマに出てきた程度しか知りませんでした)、このたびのドラマのブログを書くにあたって勉強しています。
おっしゃるように、毀誉褒貶相半ばする人物のようですね。
>晩年は二人は一緒に暮らしたわけで
これも、最近知りました。
徳川慶喜が快く思っていなかった勝海舟が、晩年の慶喜の面倒をずっとみていたという話と相通じるものがありますね。