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八重の桜 第43話「鹿鳴館の華」 ~大山巌と捨松の結婚~

 今話は山川浩の妹・捨松大山巌の結婚話でしたね。そこで今回は、大山捨松という女性についてふれておきます。

 捨松は山川家の末娘として生まれ、幼いころの名を咲子といいました。彼女が生まれたとき山川家には既に父は亡く、15歳上の長兄・浩が父親代わりだったそうです。会津藩家老の家に生まれ、世が世ならなに不自由なくお嬢様として育ったであろう彼女でしたが、彼女が数えで8歳のとき、運命は一変します。会津戦争ですね。ドラマでもあったように、幼いながら彼女も八重たちと一緒にあの過酷な籠城戦を戦った婦女子のひとりです。このとき鶴ヶ城に大砲を打ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる大山巌だとは夢にも思わなかったでしょうね。

 戦後、兄たちと一緒に斗南に移った咲子でしたが、斗南での生活は想像以上に厳しく、彼女だけ函館に里子に出されます。明治4年(1871年)、彼女のもう一人の兄・山川健次郎が、政府主導の官費留学生として岩倉使節団に随行することが決まります。これに便乗するかたちで、彼女も留学することになりました。このとき一緒に留学した女子は5人。そのなかに、のちに津田塾大学の創立者となる津田梅子もいました。彼女たちは、日本人初の女子留学生だったわけです。留学期間は10年。このとき咲子は満11歳ですから、ほとんど子どもから大人になる期間といえるでしょう。このとき、彼女の母は「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いを込め、「捨松」と改名させます。

 捨松が再び日本の地に降り立ったのは、日本を発って11年が過ぎた明治15年(1882年)のことでした。おそらく日本人初の女子の帰国子女だったといえるでしょうか。しかし、そんな彼女を日本は決して歓迎しませんでした。近代国家に向けて進歩していたとはいえ、まだまだ日本では男尊女卑の社会は根強く、彼女の力を発揮する場は与えられません。欧米で身につけた知識を持って故国に錦を飾ろうと帰国した彼女にとっては、失意以外のなにものでもなかったでしょうね。そんななか持ち上がったのが、大山巌との縁談話でした。

 このとき大山は、妻に先立たれて独り身となり、後妻を探していました。当時、参議・陸軍卿だった大山は、自身も西欧で4年間暮らした経験があり、フランス語やドイツ語を流暢に使って外国人と直に談判できる貴重な存在でした。そんな大山の後妻として白羽の矢が立ったのが、アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業し、同じくフランス語やドイツ語に堪能だった捨松だったわけです。政府高官の夫人として外交の場で活躍できる女性など、当時は日本中探しても彼女しかいなかったでしょうね。しかし、この結婚には大きな障害が立ちはだかったことは言うまでもありません。

 薩摩は会津の宿敵。旧薩摩藩出身の軍人で、しかも会津戦争時に砲兵隊長として鶴ヶ城への砲撃を指揮していた大山との結婚を、山川家が許すはずがありません。兄の浩は猛烈に反対します。当然ですよね。浩にしてみれば、亡き妻の仇でもあったわけですから。しかし、大山もまた諦めずに粘ります。大山にしてみても、捨松ほど自身の求める妻にふさわしい女性はおらず、これもまた当然の粘りだったかもしれません。このあたり、ドラマにもあったとおりですね。さらに大山は、従兄弟で農商務卿西郷従道にも助太刀を頼んで山川家への説得にあたり、そのうち、大山の誠意が伝わり、最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ります。八重の腕相撲ではなかったようですね(笑)。

 捨松自身は、最初からこの縁談に消極的ではなかったようです。希望に胸を膨らませて帰国したものの、当時の日本ではまだまだ女性の社会進出の壁は厚く、結婚するしか生きる道はないのではないか・・・そんな気持ちになっていたのかもしれません。その意味では、政府高官の夫人という椅子は、ある意味活躍の場ととらえたのかもしれませんね。彼女は大山とのデートを何度か重ねたのち、大山の人柄に惹かれて結婚を決意します。この頃、彼女がアメリカの友人アリスに送った手紙に、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記されているそうです。障害が多いほど恋は燃える・・・というやつでしょうか(笑)。

 結婚後、社交界に華々しくデビューした捨松は、アメリカ仕込みの立ち振舞い、流暢な外国語、日本人ばなれしたプロポーションなどで、たちまち人々の注目を集め、「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになります。鹿鳴館とは外国人の接待所として作られた洋館で、毎晩のように晩餐会舞踏会が開かれていました。彼女にとっては願ってもない活躍の場で、まさに水を得た魚の気分だったのでしょうね。

 その後、彼女は一緒に帰国した津田梅子の進める日本の女子教育の支援や、日本初の看護婦学校の設立などに貢献していきます。明治初期に国家が女子の人材を作るべく留学させた官費は、決して無駄ではなかったわけですね。国をつくるには、まず教育から。平成の政治家さんたちも、学んでほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-29 15:36 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

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「鹿鳴館の華」 捨松の方が八重より大河ヒロインに相応しいのではないかと思うくらい... more

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