軍師官兵衛 第1話「生き残りの掟」 〜黒田重隆・職隆・孝高〜
官兵衛の祖先である黒田氏のルーツは、佐々木源氏の流れをくむといわれおり、鎌倉時代の末期、佐々木宗清の時代に近江国伊香郡黒田村に移り住んだと伝えられています。ただ、この説を裏付ける史料は少なく、実際のところは定かではありません。日本人にとって黒田という名字はごくありふれたものですから、いくつものルーツが考えられるでしょうね。まあ、黒田家に限らず、戦国大名の多くは出自が曖昧なものですか・・・。
黒田氏が一次史料にはじめて登場するのが、官兵衛の祖父・黒田重隆です。その意味では、黒田氏の実質的な始祖は重隆といえるかもしれません。上述した近江の黒田村にて生まれた重盛は、備前国福岡(現岡山県)に移住したといわれ、その後、姫路に移ったとされます。後世、黒田家が筑前国福崎を福岡と改称したのは、備前国福岡にちなんだといわれています。
姫路に移り住んだ重隆は、目薬屋として立身出世を遂げたという話があります。伝承によると、経済的に困窮していた重隆は、ある日夢のお告げによって広峯神社に詣でたそうです。そこで神主と黒田家秘伝の目薬「玲珠膏」の話になり、神社の祈祷札にその目薬をつけて販売したところ、すっかり効能が評判となり、大いに売れたといいます。いわゆる抱き合わせ商法ですね。ドラマでもこの逸話を採用していました。こうして重隆は一財産を築いたといわれますが、この逸話は、江戸時代中期に記された『夢幻物語』に記されたものだそうで、根拠に乏しいようです。ただ、姫路に移り住んだ重隆の時代に、黒田家は富裕層に成長したのはたしかのようで、これが小寺氏の目に止まるところとなり、仕官の契機になったと考えられています。
その後、重隆の息子、黒田職隆の時代に御着城主・小寺政職の配下に属します。職隆は思慮が深く武勇もあったそうで、瞬く間に小寺氏配下にて頭角を現し、政職も職隆を厚く遇したといいます。自身の偏諱である「職」の字を与えているところを見ても、政職がいかに職隆に目をかけていたかがわかりますね。さらに政職は、職隆に小寺という姓を名のることも許し、さらにさらに、明石正風の娘を自身の養女に向かえ、職隆のもとに嫁がせました。そして、その二人の間に生まれたのが、孝高こと官兵衛です。
第1話は物語のプロローグで、いつものように主人公の子供時代を描いたものでした。昨年、一昨年の作品の第1話に比べると、可もなく不可もなしといった1話だったように思います。子役の子が演じる官兵衛は、『黒田家譜』で賞賛されるような神童ではなく、普通の少年でしたね。普通じゃなかったところといえば、話に夢中になってお漏らししたところでしょうか(笑)。でも、ドラマの万吉はそんな幼児でもなかったですよね。あれでは、神童というより、むしろ幼稚というか、暗愚というか・・・(笑)。
「あの子は少々変わっているところもございますが、心根の優しい子です」
万吉のお漏らしを嘆く父・職隆に対して母のいわが言った台詞ですが、人と変わっているところの描き方、他になにかなかったんでしょうか(苦笑)。
官兵衛の幼少時代は第1話で終わり、次週からは元服後の官兵衛のようですね。最近の大河は、子役の子の出番が短いですね。昔の作品は、幼少期の話が2話か3話あったような・・・。近年、低視聴率に喘いでいることもあって、早く主役の俳優さんを出したいのでしょうか・・・。俳優さんの人気に頼らず、自信を持って製作してほしいと思います。
とにもかくにも、今年も大河ドラマのレビューを始めました。ただ、第1話のレビューがこんなに遅くなってしまったように、仕事が忙しくてなかなか起稿する時間がとれません。そんなわけで、毎週とはいかないかもしれませんが、本年もよろしくお願いします。
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by sakanoueno-kumo | 2014-01-11 16:18 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(5)
親愛なるアッティクスへ 今日、10月27日は吉田松陰の146回目の命日です。 昨日、一昨日と、この希代の教育者について述べてきましたが、これまでは慈母の存在というものについて、今日は、それとは対局をなすという意味でも、厳父と言うべき、武家の教育というものについて取り上げてみたいと思います。 まず、昨日の終わりの所でも触れましたが、寅次郞少年(松陰)は、幼時、叔父であり、師でもあった玉木文之進について兵学・政治学など、様々な学問を学んだと言われています。 が、それ以上に教えられたのが...... more
官兵衛少年が小便を垂れ流すところは竹中半兵衛の逸話からとったんじゃないですか?
以前、トラックバックしておりましたようですが、改めて。
取り急ぎ、コメントまで。
>小便を垂れ流すところは竹中半兵衛の逸話からとったんじゃないですか?
そうでしたね!!
すっかり忘れていました。
まあ、竹中父子のエピソードを官兵衛少年に当てはめるのもどうかとは思いますが・・・。
半兵衛が認めた官兵衛は、少年の頃から半兵衛イズムを持った少年だった・・・ということでしょうか。
この医薬品を商って財産を成し、後世の大名としての黒田家の基礎、足掛かりとなったという点が、ルネッサンス時代のイタリアはフィレンツェ共和国の事実上の君主として君臨し、やがては名実共に本物の君主となったメディチ家と似ています。
家名の「メディチ(Medici)」とはイタリア語で「薬」とか「医師」という意味です。
つまり英語の「メディシン(medicine/薬)」「メディック(medic/医師)」「メディカル(medical/医療行為、医学の、医療の)」等と語源は同じです。
メディチ家は出自がハッキリしてないのですが、その名から元は医師、薬剤師、薬商人がルーツだったのではないかと言われてます。
いつからかメディチ家は銀行家(金融業者)となって大成功し、莫大な財産を築き、フィレンツェ共和国の有力な政治家にまで伸し上がりました。
フィレンツェは共和国ですから元々君主はいなかったのですが、メディチ家は事実上の君主同然として、フィレンツェで勢力を誇っていました。
世代を重ねて行くごとに、メディチ家は数々の政争を勝ち抜き、強大な外圧をも利用して、遂にはフィレンツェを国ごと奪いました。
そうして共和国だったフィレンツェは「フィレンツェ公国」という君主国となり、それから間もなくして、フィレンツェ公国は「トスカーナ大公国」となりました。勿論君位は代々メディチ家の世襲です。
なので藩を国の一種と見るなら、黒田家とちょっとだけ似てるかと思いまして。
メディチ家の話はまったく知りませんでした。
いろいろとご存知ですね。
黒田家が目薬屋として立身出世を遂げたという話は、本文中でも述べましたが、江戸時代中期に記された『夢幻物語』に記されたものだそうで、根拠に乏しいようです。
また、黒田家の発祥地についても、本文では近江国伊香郡黒田村の説を紹介しましたが、他にも、兵庫県西脇市の黒田庄がそのルーツという説もあり、定かではありません。
結局のところ、官兵衛の祖父・黒田重隆以前の黒田家は、謎のようです。
戦国武将のほとんどが、そんな感じでしょうけどね。