軍師官兵衛 第13話「小寺はまだか」 ~姫路城明け渡し~
秀吉を迎え入れた官兵衛が、そのまま秀吉に姫路城を献上したというエピソードは有名ですね。『黒田家譜』によると、官兵衛は秀吉に姫路城を拠点とするよう提案し、一族を父・職隆の隠居城である妻鹿の国府山城に移らせ、本丸を秀吉に、姫路城下の屋敷も秀吉の家臣たちに提供し、自らは二の丸に住んで秀吉に従った、とあります。自分の家をまるごとプレゼントするなんて、なんと太っ腹な・・・と思ってしまいそうですが、どのみち播磨を制圧するために拠点となる城を貸さなければならないのは必定で、だったら、中途半端に貸し出すよりも、いっそ提供してしまえ!・・・といった思いだったのでしょうか。最高の「お・も・て・な・し」ですね(笑)。
この官兵衛の姫路城明け渡しについて、作家・司馬遼太郎氏は『播磨灘物語』で次のように書いています。
「異常なことといわねばならない。武将にとって城は自分の組織を肉体化したものというべきであり、敵が攻めてくればそれを死守するというのに、それをひとに遣るという。城を出た軍勢というのは、拠るべき場所を失うだけに、防御力においては放浪の集団にひとしい。」
武士にとって城を譲るということは、身体の一部を削るも同じだということですね。黒田官兵衛という人は、そういう観念的な精神は淡白な人物だったのでしょうか?
もっとも、現代の私たちの思うマイホーム的価値観と違って、この頃の代官の住む城というのは、お役所と住居が一緒になったような半分公的なもので、いまでいう官邸のような感覚のものだったと思います。したがって、居城=財産といった意識は薄かったと思うんですね。そう考えれば、自分より偉い人が派遣されてきたんだから、お城を明け渡して、自分は狭いところに引っ越しするのが当然だと考えたんじゃないでしょうか。
ドラマでは城を献上されたお礼として、秀吉から官兵衛に対して義兄弟の誓紙が贈られていましたが、実際には、播磨に入国する3ヵ月前に秀吉が官兵衛に送った書状のなかに、そのような文面が見られます。その内容は、「其の方の儀は、我らの弟の小一郎(秀長)め同然に心やすく存じ候」というもの。実の弟である羽柴秀長と同じくらい信頼している・・・というのだから、義兄弟といっても過言ではないでしょうね。
また、書状には「何事を皆々申すとも、其方直談を以て、諸事御さばきあるべく候」(誰がなんといおうと、そのほう(官兵衛)と相談して事にあたって行きたい)とも記されています。秀吉が播磨出陣にあたって、どれほど官兵衛を頼りにしていたかが伺えますね。さすがは人たらしと言われた秀吉、播磨や中国地方の地理や政情に明るい官兵衛を取り込むためには当然の方便だったかもしれませんが、その後の二人の関係をみれば、それ以上に秀吉は官兵衛の能力を買っていたのでしょう。いくら大軍を率いていても、一介の百姓から急速に栄達を遂げた秀吉の周りには、本当に信頼できる協力者は、そうはいなかったはず。その意味でも、秀吉はどうしても官兵衛を取り込みたかったのでしょうね。その思いに、姫路城明け渡しという大胆な行動で答えた官兵衛。これを機に、二人の信頼関係がより一層深まったことは間違いありません。
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by sakanoueno-kumo | 2014-04-01 00:21 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)
で、官兵衛は二の丸に入ったといいますが、二の丸といっても、当時の姫路城は砦程度の規模だったとすれば、ごく身近な者だけが残ることを許されたと考えるべきなんでしょうか。
それと、竹中半兵衛が秀吉の書状を燃やしたというのは有名な話ですが、あれはどの程度、信ぴょう性がある話なんですか?
いや、城代のままだと思いますよ。
だからたぶん、小寺家の内諾があったのでしょうね(たしか司馬さんの小説でも、政職は城の明け渡しを許していたものの、小寺家内の他の家老たちの反対が激しかったと思います)。
官兵衛が二の丸に入った経緯については、もとは姫路城に本丸はなく、一旦は秀吉に二の丸に入ってもらって、官兵衛は一族とともに国府山城に移り、のちに建築された本丸に秀吉が入ると、官兵衛が呼び戻されて二の丸に入った・・・と書いた本もありました。
史実かどうかはわかりませんが。
あと、半兵衛が秀吉の書状を燃やしたエピソードも、この度の稿で触れようと思って調べてみたのですが、出典がよくわかりませんでした。
むしろ、わたしのほうが貴兄に聞きたかったくらいで・・・。
でも、貴兄でも出典を知らないとすると、やはり信ぴょう性のない伝承レベルの逸話っぽいですね。