軍師官兵衛 第17話「見捨てられた城」 〜第二次・上月城の戦い〜
天正6年(1578年)4月、尼子勝久と山中鹿介幸盛らが守る上月城に、吉川元春と小早川隆景が率いる毛利の軍勢が押し寄せます。その数、約3万とも5万とも言われる大軍だったそうで、迎え討つ上月城の軍勢はわずか3000ほどだったとか(ドラマでは700でしたね)。寡は衆に敵せず。圧倒的兵力の差になす術のない籠城軍でしたが、城を包囲した毛利軍は、その力に任せて攻めこむ作戦はとらず、陣城を築き、深い空堀や塹壕を掘り、柵を巡らせ防備を完璧なまでに固め、兵糧攻めの持久戦に打って出ます。毛利軍にしてみれば、いずれ激突しなければならない織田氏との直接対決に向けて、無駄に兵を失いたくなかったのでしょう。
かたや、三木城を攻撃中だった秀吉も、自らの手勢を率いて上月城籠城軍を支援すべく、荒木村重軍とともに高倉山に陣を置きます。しかし、その秀吉・村重連合軍をもってしても、兵の数では毛利軍にまったく及ばず、容易には動けませんでした。結局は上月城を挟んで毛利軍と秀吉軍が睨み合うかたちとなり、戦線は硬直状態となってしまいます。
そうして、ずるずると時が過ぎた2ヶ月後、たまりかねた秀吉はひそかに京にのぼり、信長に更なる援軍を求めます。しかし、秀吉の要請に対する信長の答えは、「三木城攻めに専念せよ」というものでした。つまり、上月城は見捨てよ!・・・と。
「700を救うために5万と戦い兵を失う。何の利がある?」
「失うのは兵ではございません。播磨での織田の信用でございます!」
ドラマでの信長と秀吉の会話ですが、ふたりの人となりをよく表した台詞ですね。あくまで合理的な信長と、人間的な秀吉の違いですが、どちらが正解かは難しいところです。軍人としては信長が正しいでしょうし、政治家としては秀吉が正しい・・・といったところでしょうか。
結局、信長の命令に逆らうことはできず、秀吉軍は高倉山の陣を引き払います。これにより孤立無援となった尼子主従たちは、7月、城兵の助命を条件に開城・降伏し、尼子勝久は自刃。そして山中鹿介は、捕虜となります。なぜ主君に殉じて自刃しなかったのかはわかりませんが、あるいはドラマのように、死なばもろともと考えていたのかもしれませんね。しかし、結果的には護送途中に殺害されてしまいます。こうして、尼子家再興の道は完全に絶たれてしまいました。
黒田官兵衛の義兄である志方城の櫛橋左京進も、切腹に追いやられていましたね。わたしは、この櫛橋左京進という人物のことはよく知らなかったのですが、ネットでいろいろ調べてみても、史料が乏しく詳しいことはわかっていないようですね。ドラマのように、このとき自刃したとも言われますが、そもそも志方城の戦いなどなく、無血開城して左京進はその後、官兵衛に仕えたという説もあるようです。まあ、自刃説のほうがドラマにはなりますからね。詳しい方がいれば教えて下さい。
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by sakanoueno-kumo | 2014-04-28 23:09 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)
RES遅くなってスミマセン。
私のはほとんどが本の受け売りなので、突っ込んだ質問には弱いのですが(苦笑)。
誰の発案かはわかりませんが、兵糧攻めをやるからには、長期滞在型の陣が必要ですから、適した場所を確保出来なければ、付城の作るしかなかったんじゃないでしょうか?
付城=信長・秀吉の専売特許というイメージがありますが、この時期、包囲戦が一般的になり始めていましたから、着想する人は結構いたんじゃないかと。