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軍師官兵衛 第26話「長政初陣」 ~黒田長政の初陣と恵林寺焼き討ち~

 天正9年(1581年)ごろに元服した松寿丸は、名を黒田長政と改めます。長政の「長」は、おそらく織田信長から偏諱をもらい受けたものでしょう(同時代、織田傘下に長政という名が多く存在しますが、おそらく、どれも信長から賜ったものだったと考えらます)。主君より偏諱を賜るということはたいへん名誉なことだったでしょうが、かつては信長に殺されかけた長政。その偏諱を名のるというのは、なんとも複雑な思いだったかもしれません。

この時期、黒田官兵衛が従う羽柴秀吉軍は、いよいよ毛利軍の本陣に迫るべく、備前備中征伐を開始していました。おそらく、長政の初陣はその一連の戦いであったと考えらます。ドラマでは、まず参陣したのは備前国児島の戦いという設定でしたね。しかし、ここでは長政の出番はありませんでした。この戦いの概要につては詳しくは知りませんが、秀吉の養子となった織田信長の四男・羽柴秀勝の初陣だったようですね。すでに備前国は、宇喜多家をはじめほぼ秀吉の傘下に入っており、ドラマでも言われていたように、秀勝の初勝利がお膳立てされた舞台だったのかもしれません。

 はれて長政の初陣となっていたのは冠山城の戦いで、備中境目七城といわれる備前備中の国境にあった小城攻めのひとつです。備中高松城攻めの前哨戦であるこの戦いで、ドラマの長政はみごとに兜首をあげていました(史実かどうかは知りません)。長政の初陣について『黒田家譜』には、

 「三月十五日、秀吉毛利家の城々を責めんため、播磨但馬因幡の兵を率して姫路を發騎し、備前の浮田秀家の兵を先手として、備中国へ打越、先巣雲塚の城を攻給ふ。此時長政初陣にて、みづから敵を討取、高名せらる」

 と記されています。ここにある「巣雲塚の城」というのが冠山城のことなのかはわかりませんが、自ら敵を討ち取って功名をあげたと書かれていますね。それが兜首だったかどうかは別として、何らかの功名をあげたのは事実かもしれません。しかし、そんな長政を官兵衛は叱責します。

 「おまえは猪か。おまえの戦いぶりは猪武者のそれだ。お前はいずれ黒田家を継ぎ、大将となる身。それが猪のごとく突っ走ってどうする? 考えて動け!」

 大将たるものいたずらに命を危険に晒すものではない・・・と。実際に長政は、よく言えば勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進な武将だったようで、この後もたびたび官兵衛から叱責され、重臣からも諌められます。智将・官兵衛の子とは思えない猛将ぶりの長政ですが、結果的に長政は、父とは違うキャラで戦国の世を渡り歩き、黒田家を筑前52万石という大大名に導くんですね。父が偉大すぎただけで、決して凡庸な人ではありませんでした。

 同じ頃、織田軍は甲州征伐で武田勝頼軍を攻め滅ぼしますが、武田家に与していた六角次郎恵林寺に逃げ込みます。織田方はその身柄の引き渡しを寺側に要求しますが、快川紹喜ら僧侶たちは、これを拒否します。怒った信長は、恵林寺の焼き討ちを命令。寺内の僧侶たち150余人を建物内に押し込み、寺院もろとも焼き殺しました。なんとも無残な仕打ちですね。このとき、閉じ込められた多くの僧侶が狼狽え、もがき苦しむなか、ひとり快川紹喜は狼狽えることなく鎮座し、

 「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」

 という遺偈(ゆいげ)を残して炎に包まれたと伝えられます。さすがは、朝廷より国師号を賜った高僧ですね。みごとな最後です。

 この快川紹喜は、武田信玄の招きによって恵林寺の僧侶となったそうですが、もとは美濃国土岐氏の出身だとも言われます。土岐氏といえば、明智光秀もその一族だといいますから、あるいは、ドラマのとおり快川紹喜と光秀は旧知の仲だったかもしれません。一説には、この出来事が本能寺の変の引き金になったとも言われます。じゅうぶんに考えられる話ですよね。本能寺の変が起こったのは、この2ヶ月後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-30 22:25 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2014-07-03 18:10
長政の初陣は賤ヶ岳という説もありますよね。
あちらはどうなんですか?

長政が受けた叱責は奇しくも武田勝頼も父、信玄から受けたようですが、やはり、偉大な父の息子は槍働きくらいできないと周囲は評価してくれないのでしょうね。
まあ、勝頼の場合は幼いながらも弟達がいましたが、長政の場合は事実上、一人息子ですから、やはり討ち死にされたら困るわけで・・・。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-07-05 00:33
< heitarohさん

賤ヶ岳初陣説というのは知りませんでした。
でも、いろいろ見てみても、正確な記録は残っていないようですね。
備中境目七城攻めの説も、『黒田家譜』に記されているだけのようですから・・・。

>偉大な父の息子は槍働きくらいできないと周囲は評価してくれない

槍働きなら鍛錬でなんとかなりそうですもんね。
でも、槍働きに長けた父を持つ息子は、逃げ場がないですね。
長嶋一茂選手や野村克則選手のようなもので(笑)。

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