播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
野見宿禰とは、垂仁天皇(第11代天皇)の時代(古墳時代後期)の出雲の人物の名で、『播磨国風土記』によると、相撲の神様、埴輪の創始者とも言われています。天皇の御前で、大力無双を誇っていた当麻蹴速と力比べをして勝ったことが相撲の始まりといわれており、その宿禰が、大和から出雲に帰る途中に龍野の地で病死したため、この地に埋葬されたと伝わります。その際、出雲の人々が墓をつくるために野に立ち並び、揖保川から手送りリレーで石を運んだことから、この地を「立つ野」(龍野)と呼ぶようになったとか。もちろん、あくまで伝承に過ぎませんが、その元となる『播磨国風土記』は8世紀はじめに編まれたと言われる史料で、「龍野」という地名の持つ歴史の深さを教えてくれます。
野見宿禰神社に行くには山道をかなり歩かねばならず、この日はあいにくの雨で足元がぬかるんでいたので、途中までで諦めました。
せっかくなので、看板だけ撮影。
参道をそれた小高い丘を登ると、聚遠亭(しゅうえんてい)といわれる茶室と庭園があります。
ここは脇坂家の上座敷跡で、龍野城下を一望できるたいへん眺めのいいスポットとなっています。
写真は江戸時代後期に建てられた「浮堂」とよばれる茶室です。
龍野藩9代藩主・脇坂安宅が京都所司代の職にあったときに御所が炎上する事件がおき、その際、その復興に功績があったそうで、孝明天皇(第121代天皇)から茶室を賜り、心字池上に浮堂として移築したものと伝わるそうです。
浮堂の隣にあったこの建物は、裏千家家元15世千宗室が命名した本格的な茶室「楽庵」。
さらにその隣には、江戸時代中期に建設された脇坂家の別邸「御涼所」が並びます。
この日はあいにくの雨でしたが、晴れた日だと、雅やかな景観美が楽しめたことでしょう。
庭園には楓や桜の木が目立ち、おそらく、桜や紅葉の季節に来れば、いっそう綺麗でしょうね。
そんなこんなで、その3につづきます。
播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」
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by sakanoueno-kumo | 2014-07-10 19:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
賤ヶ岳の七本槍というよりも、私には関ヶ原で寝返った事で記憶に残っておりましたが、結構な城があるのに少し驚いています。
機会があれば行ってみたいのですが、なかなかコチラの方は・・・。
たしかに関ヶ原での寝返り組のひとりですが、ほかの連中とは違い、戦前から通款を明らかにしていたということで。裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、所領を安堵されたと聞きます。
ただ、脇坂家が龍野へ入ったのは、関ヶ原から70年後、安治の孫の代ですけどね。
わたしも、龍野を訪れたのは2回目です。
兵庫県は広いですから、兵庫県民でも行ったことないところはたくさんあります。