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軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その1 ~信長の最期と光秀の動機~

 時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家臣のひとりである明智光秀の謀反によって落命します。享年49歳。日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

 「本能寺の変」はほとんどの人が知っている事件だと思いますので、細かい説明は省きます。事件に至る動きは、過去の拙稿『江~姫たちの戦国~第5話「本能寺の変」』でふれていますので、よろしければ一読ください。いままで数々の映画やドラマで描かれてきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じような演出ですよね。本能寺を包囲した明智軍が鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というもの。これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

 まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

 「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

 有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。また、同史料によると、

 「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


 信長は初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。ほぼドラマのとおりですね。『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

 また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

 「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

 『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

 明智光秀の謀反に至る動機については様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。そんななか、これまで小説やドラマなどの物語では、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることがほとんどだったと思います。その根拠は、領地を召し上げられたことや、徳川家康の饗応の役を突如解任され、秀吉の援軍を命じられたこと、大勢の前で足蹴にされたことなどなど、どれもありそうなエピソードですね。ただ、このたびのドラマは、そういった理不尽な仕打ちに耐えしのぐ光秀の姿はあまり描かれず、これまでの大河とは違った動機でした。

 「日の本に王はふたりもいらん!」

 つまり、皇位簒奪という意味ですね。信長は天皇を廃して自らが日本の王になろうとしていたのではないかという説です。そのため、朝廷を敬う光秀は決起に至った、あるいは、朝廷に促されて起たざるを得なくなった・・・と。これ、よくNHKがやりましたね。もちろんこれはドラマのオリジナル解釈ではなく、近年、学者さんたちの間でも採られている説のひとつです。たしかに、信長の行動を見ると、朝廷が信長に対してあらゆる官位を授けようと打診しても、信長はこれを固辞し、逆に京のまちで馬揃え(軍事パレード)をして朝廷を威嚇するなど、朝廷ならびに天皇家軽視したかの行動が目立ちますし、何より、比叡山焼き討ち石山本願寺との戦いなど、古い権威を徹底的に排除しようというきらいが伺えます。その意味では、じゅうぶんに考えられる動機ですよね。

 ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は帝に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。ところが、結果は歴史の示すとおりですね。この皇位簒奪説は、考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気がします。ドラマとしては面白かったですけどね。「日の本に☓☓☓☓☓☓☓☓」と声を消し、それを聞いた光秀が青ざめて諫めるシーンなどは、上手い演出だなあと思いました。

 あと、信長の正室・濃姫について少し。本能寺のシーンでは自ら刀を振って戦っていた勇ましい妻でしたが、実際の濃姫は、いつ結婚していつ死んだかもわからない、ほぼ謎の女性といっていい存在です。織田家に嫁いですぐに死んだという説や、子どもが出来ずに離縁したという説などさまざまで、斎藤道三の娘と言われていますが、それすら定かではなく、一説には、実在したかどうかすら疑問視する声もあります。本能寺で信長とともに長刀を振るって戦ったという演出は、司馬遼太郎『国盗り物語』からきたものですね。本能寺の戦死者の中に、「お能の方」という女性がいたという説もありますが、それが濃姫だったかどうかはわかりません。

 さて、このときの黒田官兵衛のエピソードまで行きたかったのですが、今回めちゃめちゃ長文になっちゃったので、後日、「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-14 22:56 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2014-07-14 23:56
昔の大河ドラマでは光秀に対するパワハラが描かれてましたが、最近のは殆どないですよね?やっぱ、教育上の配慮ですかね?
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-07-15 00:55
< heitarohさん

なるほど。
信長はジャイアンだったんですね(笑)。
さすれば、秀吉はスネ夫でしょうか?

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