軍師官兵衛 第48話「天下動乱」 ~光、栄の脱出劇と小山評定~
このとき大坂を空けていた黒田官兵衛、長政父子も、当然、三成の動きには警戒を怠っておらず、本来、父子どちらかに付き従っているべき栗山善助や母里太兵衛らを、大坂に残しています。非常事態を想定したSP役だったのでしょう。官兵衛の正室・光の命ももちろんですが、祝言をあげたばかりの長政の後妻・栄は家康の養女であり、いわば徳川家からの預かり物のようなもので、何としても敵の手に渡すわけにはいかなかったのでしょう。善助や太兵衛といった最も信頼の厚い家臣を大坂の残したのは、頷ける人選です。
彼らの働きによって、光と栄は三成の人質包囲網からみごと脱出し、官兵衛のいる豊前国中津城に帰国します。このあたりに経緯については、『黒田家譜』にかなり詳細に記されています。それによると、夜中に二人を俵に入れ、商人姿に変装した太兵衛が二人の入った俵を天秤棒で担いで運搬し、黒田家に味方する納屋小左衛門という商人の屋敷に逃げ込みます。そこでしばらく身を潜めて脱出の機会を探しますが、三成の包囲網も厳重を極め、なかなか機を得ることができません。その間、黒田の屋敷は善助が守っていましたが、ある日、石田方から差し向けられた使者から、「二人の奥方が屋敷内にいるか確認したい」と迫られます。困った善助は、「お方様の面吟味などあるまじきこと。どうしてもと言うならば、垣根越しにお二人に気付かれぬよう・・・」とたくみに言い逃れ、似た顔の侍女たちを替え玉に仕立てて、なんとか使者を納得させたといいます。ほとんどドラマのとおりですね。
なかなか脱出の機を得ることなく過ごしていたある日、長政と同じく家康に従軍していた細川忠興の妻・ガラシャが、人質となることを拒んで自ら死を選び、家臣に胸を突かせて屋敷に火を放ちます(ガラシャの死については、以前の拙稿『江~姫たちの戦国~ 第34話「姫の十字架」』でふれていますので、よければ一読ください)。この事件で大坂城周辺は大混乱。ここを絶好のタイミングと考えた善助や太兵衛らは、騒ぎに乗じて屋敷を脱出。小舟で川を下った後、大阪湾で船に乗り換え、海路、九州に逃げ延びます。
ドラマでは、善助と太兵衛と井上九朗右衛門の3人が活躍していましたが、『黒田家譜』では、九朗右衛門ではなく宮崎助太夫となっています。善助と太兵衛は、官兵衛の有岡城脱出の際も活躍しており、夫婦揃っての脱出の恩人と言えます。二人共、武勇に長けた猛将だったと伝えられますが、戦場での働きも去ることながら、2度の脱出劇の活躍は、まさに何万石もの大身に値する働きだったといえるでしょう。それ故、『黒田家譜』でも多くの紙数を費やして称えているのでしょうね。
一方で、上杉討伐に向かっていた家康陣営が、三成と対決すべく結束し、軍を西へ返すことを決定した小山評定の席において、事前に家康が長政を呼びつけ、進退を決めかねている福島正則を説得するよう根回ししたという有名な逸話ですが、これについては『黒田家譜』には何も記されておらず、家康が上杉と三成のどちらを攻めるか諮問したところ、福島正則、黒田長政、徳永法師が大坂へ向かうべきだと進言し、了承されたと記されているだけです。また、福島正則が率先して徳川支持を表明し、その声に煽動された諸将が次々に続いていったという有名な話も、一次史料に乏しく後世の創作と見る向きが強いようです。このあたりの諸将の根回し、裏切り、抜け駆け、逡巡などの人間模様が、いちばん面白いところなんですけどね。
ただ、この時点ではまだ、徳川方有利などといった空気はまったくなかったわけで、家康にしてみれば、大坂へ向かう東海道中の諸将がどれだけ味方してくれるかというのが、いちばんの気がかりだったに違いありません。そう考えれば、史料は乏しくとも、似たような人間模様は繰り広げられていたんじゃないでしょうか。
官兵衛の動きについては、次話に譲ることにします。
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by sakanoueno-kumo | 2014-12-01 22:16 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(2)
第四十七話「如水謀る」はこちら。前回の視聴率は予想よりも低く、15.4%にとどまった。ほとんどすべてのドラマが視聴率を下げたわけで(ドクターXをのぞく)、先週は東京になんかあったんすか。にしても、バラエティのトップテンがすべて日テレという状況は異常だ。今...... more
ついでにお尋ねですが、小山会議の時、真田昌幸だけが家康に業力することを拒否して陣を払って帰ったというのはどこまで本当なんでしょうか?
貴兄がわからないことを私が答えられるはずがないのですが、小山会議の場における逸話については、諸説あるようですね。
真田昌幸の話についても、田丸直昌とともに拒否したという説もあれば、昌幸は評定には出席しておらず、拒否したのは田丸直昌だけだったという説もあるようです。
その出典元もよくわからないので、何が本当なのかよくわかりません。