荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~

先週の続きです。

織田信長に反旗を翻して有岡城に籠城した荒木村重でしたが、1年近く続いた籠城戦がいよいよ戦況不利と判断すると、あろうことか、わずかな側近のみを連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・荒木村次のいる尼崎城(別名:大物城)に移ってしまいます。
このとき、妻子を有岡城に置き去りにして逃げ出したことが、後世に村重という人物の評価を著しく下げる要因となります。
しかし、近年の研究では、尼崎城に移った村重は、懇意にしていた武将らに援軍を要請する書状を複数送っていたことがわかっており、村重は逃亡したのではなく、援軍を得て立て直しを図り、反撃に転じる機会を狙うためだったのではないか・・・という、村重にとっては汚名返上の説が浮上してきています。
実際は、どうだったのでしょうね。

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現在、尼崎城跡には尼崎市立明城小学校が建っており、その片隅に石碑が建っています。
といっても、現在確認できる尼崎城の遺構は、すべて江戸時代に入ってから、尼崎藩主として入封した戸田氏鉄によって築かれたもので、村重が逃げ込んだ大物城ではありません。

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のちの近世尼崎城は、大物城を取り壊してその上に規模を拡大して築城されたと考えられていましたが、最近の研究では、大物城は近世尼崎城の北東にあったのではないか、とする説が浮上し、現在でも結論を見ていません。
いずれにせよ、尼崎城跡周辺は完全に住宅化されていますので、発掘調査は不可能、伊丹の有岡城のように、現在の地形から当時を読み取ることも難しく、大物城の場所を立証する術はありません。

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小学校の北西には尼崎城址公園があり、外郭の石垣の一部が復元されています。

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尼崎城に逃げ込んだ村重でしたが、すぐに城は包囲され、残された荒木一族は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。
この大虐殺『信長公記』には、次のように記しています。

「尼崎ちかき七松と云ふ所ににて、張付に懸けらるべきに相定め、各(おのおの)引き出だし候。 さすが歴々の上臈(じょうろう)達、衣装美々しき出立(いでたち)、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、其の母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付に懸け、鉄炮を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓、長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難し。 是れを見る人は、廿日卅日の間は、其の面影身に添ひて、忘れやらざる由にて候なり。
此の外、女の分、三百八十八人。かせ侍の妻子付々の者どもなり。男の分、百廿四人。是れは歴々の女房衆へ付け置き候若党以下なり。合せて五百十余人。矢部善七郎、御検使にて、家四ツに取り籠め、こみ草をつませられ、焼き殺され候。 風のまはるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上がり飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是れなるべし。 肝魂を失ひ、二目とも、更に見る人なし。哀れなる次第、中々申すに足らず。」


632人が処刑されたと伝えられる「七松」は、現在の住所では尼崎城から北西に2キロほど離れたところにあたります。
信長は尼崎城を攻めるにあたって、七松に付城を設けたといいます(そのとき築いたものか、元からあった城なのかは定かではありません)。
現在、その七松城跡(かどうかも定かではありませんが)近くにある七松八幡寺神社に、信長によって処刑された六百二十餘人を弔う慰霊碑が建てられています。

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そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、京都に連行され、大八車に縛り付けられ引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。
村重が有岡城から抜け出し尼崎城に来たのが、逃げ出したのではなく援軍要請のためだったとしても、その浅墓な行動は大きな代償を払う結果となりました。
追い詰められた村重は、またも尼崎城を抜け出し、現在の神戸市中央区にある摂津花隈城に逃げ込みます。

というわけで、次回は花隈城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-16 16:55 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2014-12-16 21:13
尼崎城は村重のそれだけではなく、秀吉も中国大返しの際に拠点としていますよね。
それだけ古くからの交通の要衝なんでしょう?
我々はこちらの方は土地勘がないもので。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-12-18 12:15
< heitarohさん

おっしゃるとおりです。
尼崎は、いまは兵庫県の最東端に位置しますが、昔も、淀川に面した摂津国の東端として、重要な場所だったと思います。
摂津国の最西端である神戸市須磨区から西宮までは、海岸とほぼ平行に六甲山脈が横たわっており、南北に短い土地が数十キロ続きますが、尼崎でその山々はなくなり、北に向かう交通路が開けますし、淀川を渡ると、南の和泉国や大和国にも通じます。
そんな立地から、当時は北・東・南に通ずる交通の要衝として栄えていたようですし、今でも、JR尼崎駅は東西南北に分かれるハブステーションとなっています(そのため、あの凄惨な列車事故が起きてしまいました)。

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