晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

昨日の続きです。

内堀の外から見た広島城二の丸の写真です。
手前から太鼓櫓・多聞櫓・平櫓です。

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この石垣と3つの櫓から成る二の丸は、馬出の機能を持つ郭で、全国の城郭の中でも特異な配置だそうで、広島城の特徴とされています。

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上の写真は表御門
橋を渡って表御門をくぐり、二の丸内に入ります。

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で、こちらが二の丸内側から見た太鼓櫓と多聞櫓です。
これらはもちろん復元ですが、戦前まであった郭は、毛利輝元の築城当初からのものだったそうです。
3つの櫓の外観は、天守と同じく黒漆塗りの板貼りですね。

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こちらは内部の天井。
梁をむき出しにし、柱も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素なつくりです。
下の写真は、太鼓櫓のなか。

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工事が始まって2年後の天正19年(1591年)に輝元は入城しますが、その後も並行して工事は進められ、全工事が完工したのは慶長4年(1599年)、しかし、その前年に豊臣秀吉が死去しており、時代はふたたび戦乱の様相を呈していました。
そして、翌年に天下分け目の関ヶ原の戦い
このとき、名目上、西軍の総大将となった毛利輝元は、実際に出陣はしなかったものの、その責任を負わされ、徳川家康によって周防・長門の2ヵ国に押し込められます。
それが、幕末まで続く長州藩となるんですね。

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毛利家に代わって広島城に入城したのは、安芸・備後の2カ国(現在の広島県域)45万余石の領主となった福島正則でした。
正則はさっそく城の修築工事を進めるとともに、西国街道が城下を通るように南下させるなど、城下町を整備します。
しかし、洪水で破損した石垣を修築する際、幕府への修築届けの不備を咎められ、元和5年(1619年)、正則は安芸・備後両国を没収されます。
この一件については、豊臣恩顧の正則を失脚させるための幕府の陰謀説もありますが、真相は闇の中です。

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福島氏が去ったあと、領内は広島藩福山藩に分かれ、広島城には紀伊国和歌山城主だった浅野長晟が42万余石の領主として入城します。
以後、明治2年(1869年)の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代に渡って広島城主を勤めます。

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明治時代、広島城内には旧大日本帝国陸軍の施設が徐々に設けられ、日清戦争時には、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っています。
上の写真はその大本営跡です。

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なぜ広島に大本営が置かれたかというと、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が広島まで開通していたことや、近くに宇品港を擁するといった諸条件が揃っていたからです。
ここに大本営が置かれると、明治天皇が広島に入られ、城内にあった建物を行在所として、戦争を指揮されたそうです。

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太平洋戦争時にも、周辺に軍事施設が集中していたことから、この広島城が、原爆投下の目標点になったと言われています。
当然ながら、天守をはじめ城内の建造物は、すべて壊滅しました。

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夜の広島城です。
三脚などは持っていなかったので、手ブレご容赦ください。

毛利時代、福島時代、浅野時代のみならず、日清戦争、太平洋戦争と、近世近代の歴史を見つめ続けた広島城。
いまは、堀と緑に囲まれた城跡公園として、市民憩いの場となっています。
まさに、「兵どもが夢の跡」ですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-13 18:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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