三木合戦ゆかりの地めぐり その6 ~谷大膳墓所~
三木合戦における羽柴秀吉方の智将として有名なのは竹中半兵衛ですが、豪将としてこの重要な陣を任されていたのが、谷大膳でした。
といっても、大膳は秀吉の家来だったわけではなく、あくまで織田信長に仕える身で、臨時で秀吉の指揮下に入っていただけのようです。
いわば出向社員ですね。
現地の説明看板によると、天正7年(1579年)9月9日夜半、兵糧を三木城へ運び込もうとした別所氏・毛利氏の軍勢の夜襲を受け、大膳はなぎなたをふるって奮闘しますが、衆寡敵せず、全身に五十余創をうけながら、壮烈な死を遂げたそうです。
この戦いを「平田大村合戦」といい、一連の三木合戦の戦いのなかでも、もっとも多くの戦死者を出した戦いと伝わります。
墓石に何か文字が刻まれているのですが、古くて読めません。
現地説明看板です。
「秀吉公その死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木とし給ふ。」
とあります。
墓石にの両横には、共に戦死した兄の福田正舜(玄々院殿)、弟の土田小傅次、甥の福田彦八良(勇功院殿)と福田孫三郎(猷駿院殿)が併せ葬られています。
のちに天下統一を成し遂げた秀吉は、大膳の嫡男に、丹波国山家に6千石を与えました。
以上が、通説となっている大膳の最期ですが、別の伝承では、こんな話もあります。
ある日、秀吉は大膳に、三木城の出丸を攻めてほしいと頼みます。
しかし、大膳は「あの出丸は守りが堅くて容易には落ちぬ」と、これを固辞。
これを受けた秀吉は、「日ごろ武勇名高い大膳だが、たかが小城一つ落とせぬのか」と挑発します。
この秀吉の言葉に大膳は激怒、一方の秀吉も刀の柄に手をかけ、一触即発の空気となりました。
しかし、そこに竹中半兵衛と蜂須賀小六が割って入り、その場はなんとか収まります。
その夜、秀吉は大膳の元へ酒肴を持って現れ、昼間の無礼を詫びました。
いったんは許したかにみえた大膳でしたが、しかし翌日、手勢を率いて、その出丸を攻めます。
よほど、秀吉に小馬鹿にされたことが悔しかったのでしょう。
しかし、予想どおり出丸の守りは固く戦いは激戦となり、双方多くの死傷者を出すなか、とうとう大膳も討死してしまいます。
この戦いが、平田大村合戦だというんですね。
通説とは、ずいぶん違うエピソードです。
どっちが本当なんでしょうね。
大膳は享禄2年(1529年)生まれと伝えられますから、信長よりも5歳、秀吉よりも8歳年上だったことになります。
8つも年下の秀吉から小馬鹿にされた話が本当なら、たいそうプライドを傷つけられたのかもしれませんね。
秀吉は、自身の吐いた言葉を悔いて、懺悔の思いで手厚くこの墓を建てたのかもしれません。
なんて、どれも想像の域を出ませんが・・・。
シリーズはまだまだ続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2015-03-26 21:29 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)