三木合戦ゆかりの地めぐり その16 ~枝吉城跡~

神戸西区と明石市の境あたりにある枝吉城跡を訪れました。
「えだよし」ではなく「しつき」と読みます。

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前稿、前々稿で紹介した端谷城福谷城を攻め落とした織田軍のなかに、枝吉城主の明石則実がいました。
端谷城から5kmほどしか離れていない枝吉城ですが、こちらは織田方についていたんですね。
枝吉城は黒田官兵衛母の生家だったといわれており、ということは、明石則実は官兵衛の従兄弟にあたるわけで、そんな関係から、織田軍の傘下に入ったのかもしれません。

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現在、城跡の東には柿本神社があり、その裏の小山に城が築かれていました。
神社裏の階段を上ると、本丸跡に繋がるのですが、現在は公園として整備されており、石碑があるだけで遺構らしきものはありません。

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枝吉城主の明石氏は、別所氏や衣笠氏と同じく、赤松氏の流れだといわれています。
結局のところ、播磨国の実力者のほとんどが、元を辿れば赤松氏に行きつくんですよね。

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枝吉城跡があるこの地域は、現在の住所では王塚台というのですが、その名称のとおり、この近くには「王の塚」、宮内庁が管理する吉田王塚古墳という大きな古墳があります。
また、枝吉城が築かれた台地上には、稲作開始時期にあたる弥生時代前期の村落跡あったそうですが、枝吉城築城の際に破壊されてしまったそうです。
城跡公園内には、その「播磨吉田遺跡」の石碑も建てられています。

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枝吉城は三木合戦以前にも、2度の合戦を経験しています。
しかし、いずれも落ちることなく耐えしのいできた堅城でした。
しかし、三木合戦で功をあげた明石則実は、豊臣政権の時代になって但馬国豊岡へ国替えとなり、代わりに摂津国高槻よりキリシタン大名高山右近が入封しますが、ほどなく右近はここより南の海沿いに船上城を築いて移ったため、枝吉城は廃城となりました。
最後の城主となった高山右近は、のちに羽柴秀吉バテレン追放令によって迫害され、最後は亡命先のマニラで死去する話は有名ですが、豊岡に移った明石則実も、その後、豊臣秀次謀反に連座して切腹しています。

シリーズはどこまで続くのやら・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-13 20:11 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

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